2021/09/30

<高佐廻り地名記>関連地図

<高佐廻り地名記>関連地図

下の地図は、『むつみ村史』に掲載されている<むつみ村遺跡図>に、筆者が、<高佐廻り地名記>の村内巡回の経路を想定して街道に色付けをしたもの。北の
は、旅の出発点の陣館山、南のは、旅の帰着点の末永村です。



<高佐廻り地名記>がつくられた嘉永7年ころの高佐郷の状況は、
<長門國奥阿武郡高佐邑風土物産記>(天保)の記述とそれほど大きな違いはないものと思われます。

<百姓支配の部>
本百姓 218軒
門男百姓 101軒
社家 3軒
山伏盲僧 2軒
           計1318人
<武士支配の部>
在郷諸士 2軒
陪臣 13軒
穢多 13軒
宮番 2軒
           計64人

筆者が、<非常民>の範疇にいれる、司法・警察、軍事従事者の数は、穢多・宮番を含む武士支配の30名と、百姓支配の16名の計46名。

<高佐郷>の通常の治安維持には、武士支配の穢多13人・宮番2人、百姓支配の庄屋1人・小都合庄屋1人・目代3人・畔頭5人・給庄屋6人があたっていたものと思われます。通常の警戒時には、それぞれ、十手をもって出動。強盗などの刑事事件に際しては、<高佐廻り地名記>に歌われている<ひしぎ・早縄・腰道具・六尺二歩の棒>が使用されたようです。彼ら、非常の民によって、千数百人の高佐郷の百姓は、安心して日々の暮らしを続けることができました。

日本の歴史学に内在する差別思想である<賤民史観>は、<穢多・非人は差別されていたが故に人の嫌がる下級警察の仕事をさせられていた>と解釈しますが、大いなる間違いです。それでは、同じ<人の嫌がる下級警察の仕事>に従事していた村方役人も<賤民>の範疇に加えなければならなくなります。<穢多・非人>を<賤民>と認識するは、日本の歴史学の底の浅さ、浅薄さを物語るのみ・・・。

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