2021/09/30

「岡山藩」専売品としての木綿衣類の強制

「岡山藩」専売品としての木綿衣類の強制

「岡山藩」の「倹約御触書」の第1条の背景にあるもの、結論を先取りしていいますと、それは、藩財政の破綻と、藩の軍事力の近代化の課題に直面して、「岡山藩」が打ち出した、藩財政再建10年計画に従って藩財政の増収を図るため、弘化元年(1844)「岡山藩」によって専売化された「備前木綿」の<地産地消>を藩民に徹底させるためでした。

一、男女衣類可為木綿
 ゑり袖口にも田舎絹之類之外無用
 綿服目立敷染物不相成
 夏物ハ木綿ゆかた
 染地布類帷子奈良縞高宮稿生平之類持掛り不苦候
 但七十以上十歳已下之者共有合候麁末之絹類裡下着ニ相用候義ハ不苦候
 尤小児は小切継に持懸り不苦
 併目立候品は不相成候事

この「倹約御触書」第1条は、安政2年(1855)から、10年間、法的に「岡山藩」の藩民を拘束すると最初から宣言されていたのです。

10年の歳月を前提しますと、藩民の手持ちの衣類は、特に、冠婚葬祭のときに着る晴着はともかく、日常茶飯事に来ている衣類は、やがて、色あせ、ほころび、破れ、つぎをあてても衣類として機能することができなくなります。

当然、あたらしい普段着を購入することになります。

綿花を自家生産して、糸を紡ぎ、織りなして、家族の衣類を自ら作ることができる環境にないと、そうすることもままならなくなり、結局、できあいの木綿の反物を買うことになります。しかも、晒しの木綿を買って、あとで、染屋に出して、自分の好きな色に染色してもらうとなりますと、その工賃がかさんで、木綿の衣類といえども高価になります。さらに、あとで、家の紋を刺繍する、あるいは染め抜くとなると、さらに費用がかさみます。

そこで、藩民は、最初から、染色されたできあいの木綿の反物を購入することになります。

「岡山藩」は、この木綿を藩の専売品とすることで、それを、藩直属の御用商人にまかせ、御用商人から藩に納税させていたのです。「岡山藩」は、弘化元年(1844)、木綿を藩の専売品にすると同時に、嘉永5年(1852)には、<生地>としての木綿だけでなく、その前段階の<糸>としての木綿も藩の専売品にするのです。

しかし、「岡山藩」は、木綿の<生地>・<糸>を専売品にするだけでなく、染色したあとの<反物>まで、藩の専売品にする予定でした。しかも、多品種少量生産ではなく、少品種多量生産で、収益をはかろうとします。

そして、安政4年(1857)、「岡山藩」は、「備前木綿」を染色するための「藍」も「専売品」に指定します。

安政4年(1857)といいますと、「岡山藩」が「倹約御御触書」の第25条で、「衣類無紋渋染・藍染ニ限り候・・・」として、当然のごとく、「岡山藩」の、司法・警察である「非常民」に属する「穢多」に対して、「藍染」の「衣類」が<強制>された年です。

「渋染一揆」は、安政3年(1855)に発生するのですが、その「渋染一揆」、「結果的には嘆願の趣旨は黙殺されて・・・失敗に終わった」のですが、≪全体社会から見た部落 被差別部落の形成過程―備前藩の場合≫の著者・横山勝央氏は、「事実上は差別法令の凍結を勝ち取ったとみることもできることを付記しておこう。」と、柴田一著『渋染一揆論』を根拠に主張されます。

しかし、「みることもできる・・・」という、可能性を示唆する表現は、のちの「渋染一揆」の学者・研究者・教育者によって、<可能>表現ではなく<確定>表現で言及されるようになります。

『部落問題とは何か』(三一書房)の著者・川元祥一氏は、「被差別部落の方は、その後一切この御触に従わなかった。その御触を全く無視して自由に着たいものを着続けて、雨が降った日には傘をさし、下駄をはきたいときは下駄をはいて歩いたんですよ。・・・岡山藩でおこったこの一揆は、被差別者の闘いが成功した例なんです。」といいきります。

「岡山藩」の藩財政再建10カ年計画の2年目に発生した「渋染一揆」・・・、「岡山藩」の「穢多」のはげしい抵抗にもかかわらず、着々とすすめられ、「渋染一揆」の次の年、安政4年(1857)年、「岡山藩」は、「藍」を藩の専売品に指定します。木綿に関する、糸・生地・染色・・・、木綿の反物とその流通機構のすべてを藩の管理下においてしまうのです。

安政5年(1858)、藩の管理のもと、藩の専売品にされた木綿の糸・生地・染色によって、備前木綿・小倉織が、「岡山藩」の津々浦々に、藩民の、ごく普通の衣類として出回ることになるのです。木綿藍染、備前木綿の小倉織は、農作業時に着用する、暖かくて丈夫な衣類として、普及することになるのです。

木綿藍染が、藩民だれもが身につけている、ごく普通の衣類になったとき、「岡山藩」は、これ以上、「藍染」の衣類を身にまとうことに反対した「穢多」の強訴の指導者を入牢させ、発言を封じておく必要はなくなった・・・、と安政6年(1859)年、獄中の厳しさに耐えて生き延びた「穢多」に対して、「赦免の申渡し」(柴田一)を行うのです。

彼らが獄中から出てみた世界・・・、それは、「御百姓」から「平百姓」まで、木綿藍染の衣類を身にまとった光景でした。

そのことに気がついた、「渋染一揆」の学者・研究者・教育者たちは、その<歴史的事実>を封印していきます。『部落問題とは何か』の著者・川元祥一氏は、このように綴っています。「岡山藩でおこったこの一揆は、被差別者の闘いが成功した例なんです。このあと茶色い着物は着なかった・・・」。

藍染の着物は、川元祥一氏の世界から姿を消してしまいます。

「岡山藩」の専売品としての備前木綿・小倉織である「木綿藍染」は、「人をはずかしめる色」・「差別の色」という主張に賛同すると反対すると、その学者・研究者・教育者の立場を問わず、その研究の視野から欠落させられていきます。

「岡山藩」が出した「倹約御触書」の第1条「一、男女衣類可為木綿」は、「岡山藩」の藩財政再建10カ年計画と実施の諸側面に対応させて理解されるべきものです。

近世幕藩体制下の、当時の「岡山藩」内部でも、すでに、陳腐化していた、衣類の色による身分差別論に基づいて論ずることは、無学歴・無資格、かつ歴史学の門外漢である『部落学序説』の筆者の目からみますと、大いなる誤謬であると思われます。

「岡山藩」の御用学者であった熊沢蕃山は、このように記しています。「<いにしへ>は貴賎色を以て分つ。高値・下値を以て分たず。貴くして貧なる人あり、賤しくして富めるものあり・・・」。熊沢蕃山は、「貴賎色を以て分つ」<古代>の衣類制度をそのように語るとともに、別の場面では、「近年は倹約の法きびしく、士已歴々迄も木綿を着す。農工商の富裕人も木綿を着す・・・百姓・町人は、小身の武士より格別うるはしく、小袖も同然の物なり。貴賎色を以て分ち、高値・下値を以てわかたざるなり。」ともいいます。

熊沢蕃山の時代から遠く隔たった安政年間・・・、すでに古代の「貴賎色を以て分つ」制度はますます陳腐化し、「高値・下値を以て分つ」時代へと突入していたのです。

「倹約御触書」を出した、「岡山藩」の倹約取締方の念頭にあったのは、「貴賎色を以て分つ」陳腐化した発想ではなく、衣類を「高値・下値を以て分つ」ことで、藩財政を再建しようとする基本的な方針ではななかったかと思われます。

その姿勢は、「倹約御触書」の各条項のいたるところに、滲み出ています。

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