2021/09/30

藩主・池田光政の「彼らも我百姓なり」のことばの背景

藩主・池田光政の「彼らも我百姓なり」のことばの背景


「岡山藩」の部落史に関する研究論文で、「優れた論文を2、3あげよ・・・」といわれたとしたら、筆者が列挙することになる論文の筆頭にあげるのは、横山勝英著《全体社会からみた部落 被差別部落の形成過程-備前藩の場合》です。

この論文、筆者が、「非常民の学としての部落学構築」を指向しはじめたとき、筆者がその根拠にした論文のひとつです。

『部落学序説』の筆者の視点・視角・視座からしますと、この横山勝英氏の論文、「岡山藩」の部落史に関する論文の中の珠玉中の珠玉として評価されるべき論文です。その理由は、横山勝英氏が、「岡山藩」の「穢多」を史資料をもとに論ずるとき、従来の「岡山藩」の「渋染一揆」研究にみられがちな、研究の前提となる歴史状況を、「近世中期以後」(柴田一著《徳川幕府の部落改宗政策と部落民衆の拒否闘争-幕府・岡山藩・部落民衆の関係》)に限定しない点にあります。

横山勝英氏は、「部落形成の歴史的背景」として、「中世後期以後の備前」から近世後期までを広範に視野に入れて、「岡山藩」の部落史を取り上げます。

「徳川幕府によって数度の転封・減封」にさらされた「外様大名」の池田光政が「備前三一万二五〇〇石」へ移封されたのは、寛永9年(1632)のことです。その居城は、「中世後期」の戦国大名・宇喜多秀家が構築した「岡山城」でした。宇喜多秀家は、「吉備沃野の中心であり、かつ海陸交通の結節点である岡山に」築城し、城下町を形成していきます。「文禄から慶長にかけて領内各地から有力な商工業者を城下に集めて町作り」が行われるのですが、城下町の形成にとって大切な課題のひとつに、城下町の治安維持の確保があります。

城下町の治安をどのように維持するか・・・、それは、城下町構築の青写真の段階から、すでに考慮されています。宇喜多秀家は、既に、司法・警察である「非常民」の職務について名を馳せその実力を認められていた「赤坂郡矢原村」「穢多」「岡山城下に近い御野郡国守村に呼び寄」せ、「国中穢多頭」に任命しているのです。

「国守村」といえば、「岡山藩」「渋染一揆」の担い手となった、「都市部五カ村」の「穢多村」ひとつです。この「国守村」には、真言宗の「常福寺」がありますが、横山勝英氏は、「慶長元年頃に宇喜多秀家によって国中穢多寺にされたのではないかと考えられる・・・」といいます。

宇喜多秀家は、岡山城下の「穢多」だけでなく、領内の司法・警察制度の重要な拠点に対して、既存の司法・警察である「非常民」を再編成して、領内全体の治安維持の体制を作っていきます。横山勝英氏によりますと、西大寺市久保の馬場、備前町香登の西奥、郷内村の林・・・、等は、宇喜多秀家の治世に、領内の治安維持のために、司法・警察官として配置された<穢多村>であった・・・、といわれます。

徳川幕府によって、備前に移封された池田光政は、その藩政においても、「岡山藩」の城下町と郡部の町・村の治安維持のため、<既存>の司法・警察制度を流用、組み込んで行きます。「岡山藩」にかぎらず、全国の諸藩は、移封・転封に際しては、藩の要職・指導者・キャリアは大幅に交代しますが、現場の司法・警察制度とそこで職務を果たす司法・警察官である「非常民」は、新藩權力の下でも継続してその職務をになっていくことになります。

徳川幕府を築いた徳川家康ですら、江戸に移るとき、それまで、関東で司法・警察の職務を果たしていた弾左衛門を司法警察として追認、幕藩体制に組み込んで行きます。

「岡山藩」の池田光政が、宇喜多秀家が構築した司法・警察システムを、制度・要員共に継承していったところで、なんら不思議はありません。

もちろん、既存の司法・警察システムを<再編成>するとき、中世末期の宇喜多秀家のそれと、近世初期の池田光政のそれとでは、「必ずしも同一ではなかった・・・」とする横山勝英氏の指摘は、当然すぎるほど当然なことです。しかし、『部落学序説』の筆者の視点・視角・視座からみますと、異質性より類似性の方が目立つ、極めて近似値的存在であったと思われます。

横山勝英氏は、「穢多と呼ばれていた人々を皮革生産者とした以外に、軍事的あるいは警察的な目的で使用しようとしたのかもしれない・・・」と推測しますが、横山勝英によると、宇喜多秀家が「国中穢多頭」に任命したという「赤坂郡矢原村」の「穢多」は、死牛馬処理・皮革産業等に従事していない「非カワタ」であったそうです。横山勝英氏が指摘する、「軍事的あるいは警察的な目的」のうちの「軍事的」・・・、という意味合いは、皮革を中心とした軍需物資の生産に関係するものであり、それは、司法・警察の職務遂行の反対給付として認められていたものであると解されるから、宇喜多秀家・池田光政によって継承されていった、中世以来の近世の「穢多」の職務は、「警察的な目的」にそったもの、むしろ司法・警察そのものであると推測できます(断言できると言ったほうが的確かもしれません・・・)。

横山勝英氏は、「備前藩」「穢多」・「非人」の配置形態を考察することによって、「備前藩における街道筋の部落は、自然発生的に形成されたというよりは、むしろ、宇喜多秀家の頃に一定の機能を持つように配置されたものをさらに備前藩が元禄頃から再び穢多身分の公認・固定化という形で編成し直そうとした形跡がある・・・」といいます。元禄期の「備前藩」「穢多」は、「藩社会のおいて警察的機能をもつものとして重きを置いていたいた・・・穢多と呼ばれた人々は、権力の発動における形式的側面をうけもつ役目を担わされていた・・・」といいます。

横山勝英氏によると、「備前藩」で再編成された司法・警察である「非常民」としての「穢多」「本格的に警備・警察の末端的役割を担わされるのは、元禄11年前後からである」といいます。「本格的に警備・警察の末端的役割を担わされる・・・」、つまり、「備前藩」の司法・警察の現場の本体として、完成された司法・警察システム機能しはじめるのは、藩主・池田光政が逝去した「天和2(1682)年以後」のことであるといいます。

横山勝英氏の、近世前半期までの、「部落史」に関する研究は、備前国における「穢多」の、極めて、優れた実証主義的研究であると思います。勝山勝英氏の論文、その論文名《全体社会からみた部落・・・》のことばにふさわしく、「岡山藩」の「渋染一揆」の学者・研究者・教育者の方々が陥りがちな、「渋染一揆」研究の郷土史研究的視野と関心の狭さからくる偏狭性は希薄です。

ただ、近世後期の記述に入りますと、「岡山藩」の「渋染一揆」研究の学者・研究者・教育者の論文との整合性の問題から、「穢多」「身分として差別」されることについて言及されるようになります。

部落史研究の学者・研究者・教育者の方々の多くは、その研究によって、自分の足元、専門分野を照らし出すことはできても、少しく、自分の足元から遠ざかった世界は、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」の暗闇の中にその足を浚われてしまうのでしょう。横山勝英の論文、《全体社会からみた部落 被差別部落の形成過程-備前藩の場合》・・・、『部落学序説』の視点・視角・視座からしますと、完璧ではありえないとしても、「備前藩」・「岡山藩」の部落史研究の、実証主義的研究として、珠玉中の珠玉であると思われます。

横山勝英氏は、「岡山藩」の藩主・池田光政が、「彼等(=穢多)も我百姓なり」と表現したことについて、このように記しています。

「光政の時代においては、「穢多」と呼ばれた人々が藩権力によって意図的に差別されていたという形跡はない。このことは、光政の「仁政」理念の実践によるのであるが、特に、天地万物の一体性を説く陽明学を光政に勧め、当時の社会の生産力の担い手たる百姓を重視し、貴賤の身分差別をむやみにすべきでないことを説いた熊沢蕃山の影響が大きかったと考えられる」。

現在の「岡山藩」の「渋染一揆」の学者・研究者・教育者の多くは、その研究のほとんどを停滞させているような気がします。近世幕藩体制下の身分制度を「士農工商穢多非人」ということばで象徴的にとらえ、「岡山藩」の「渋染一揆」の本質は、「農」身分より一段低い「穢多」身分が、差別をはねのけ、「穢多」は、「穢多」身分ではなく「百姓」身分同然であると主張した運動である・・・、と解釈する人々が多いようですが、池田光政の「彼等(=穢多)も我百姓なり」ということば、ほんとうは、何を意味しているのでしょうか・・・。

池田光政の「仁政」の背後にあるといわれる、御用学者・熊沢蕃山の「身分制度と衣類統制」に関する「理論」を、熊澤蕃山の『集義和書』・『大学惑問』をてがかりに検証してみることにしましょう。

結論から言えば、「岡山藩」の「渋染一揆」の学者・研究者・教育者たちの、「渋染一揆」は差別された「穢多」たちが百姓同然であるとことを主張して引き起こした人権闘争である・・・、という解釈は、「岡山藩」の「穢多」の歴史を広範にとらえ得なおしたとき、あきらかに誤謬の説であると言えます。

それなら、「備前藩」の藩主・池田光政が、「彼等(=穢多)も我百姓なり」はどう解釈するのか・・・?

熊沢蕃山のことばを参考に検証していきます。

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