2021/09/30

「倹約御触書」は単なる倫理ではない

「倹約御触書」は単なる倫理ではない

「岡山藩」で発生した「渋染一揆」の原因となったとされる、安政2年(1855)の「倹約御触書」・・・、これは、当時の藩民に対する、贅沢を戒める質素倹約のすすめではありません。

「岡山藩」は、『渋染一揆論』の著者・柴田一氏によりますと、「領内への「黒船」侵入に備えて、これまでの弓槍刀剣・種子島銃といった旧式軍制を洋式大砲・小銃を主力とする新式軍制にすみやかに改組し、砲台を築き、農兵隊を組織しなければならぬといった大変な仕事が課せられていた・・・」とあります。

「岡山藩」は、破産寸前の藩財政を建て直しを図ると同時に、この軍事優先の経済へシフトしていくことを余儀なくされていました。当時の藩の予算は、柴田一氏によりますと、銀高約7000貫目に及んでいたといいます。しかも、藩の借入負債額は、累積、銀高24、677貫目に達していたといわれます。

安政2年の「倹約御触書」には、「依之今年より来る子年迄拾ケ年之間改革厳倹申付候・・・」とありますが、「岡山藩」の財政再建10ヶ年計画は、10年後、どのような形で総括されたのでしょうか・・・。10年後というのは、幕藩体制が崩壊し、明治新体制がはじまる直前のことです。

1868年の記録に、「岡山藩」は、草高454,117石で、総人口は358,827であったという記録があります。士族は9,738人(2.7%)、卒族は7,799人(2.2%)、穢多は9,128人(2.5%)、百姓・町人は、323,841人(91.5%)です。

「岡山藩」は、軍事優先の財政再建10ヶ年計画のために、「倹約御触書」を公布しますが、その税収アップの対象は、士族・卒族・穢多ではなく、最大の社会層である百姓・町人323,841人です。言葉の上では、贅沢禁止の質素倹約のすすめに見えながら、実は、「岡山藩」の軍事優先の財政再建計画をスムースに行うための、「岡山藩」の百姓・町人からの富の収奪の布告でもあったのです。

10年間の軍事優先の財政改革で、「岡山藩」が入手したもの、それは、以下の軍事力です。

砲隊 四座
銃隊 17大隊
軍艦 1隻(幕府からの預り)
人員 7862人

無学歴・無資格、しかも歴史学の門外漢、「岡山藩」の「渋染一揆」に関しては、まったくのしろうとですので、当時の「岡山藩」の兵力や、財政再建10ヶ年計画で、どのように兵力・軍事力が近代化・重装備化されていったのか、「岡山藩」の史資料を踏まえて、具体的に論じることはできません。

しかし、当時の「岡山藩」の幕藩体制下における軍事的な位置を斟酌しますと、あたらしく「砲隊」・「銃隊」として結成された、「岡山藩」の軍事力は、中途半端なものではなかったと思われます。

当時の史資料から、一般的な「砲隊」・「銃隊」の構成をみますと、大砲の数は、4~32台、銃器の数は、一大隊で300~800丁になります。

これは、あくまで筆者の推測ですが、「岡山藩」の装備が近代化された兵員の数が7862人であることから、逆算して、銃隊1大隊320丁(具体的には、長州藩の枝藩・徳山藩の場合)としますと、320丁×17大隊=5440丁ということになります。

輸入される、外国産の銃は、5両から45両していました。5両の銃は、旧式で、あまり役に立たなかったようですから、「岡山藩」は、名実共に高性能の新式銃を輸入したと推測しますと、大量に輸入した場合の単価は、1丁18両・・・、「岡山藩」が財政再建10カ年計画の名の下で実施した軍拡のために費やした軍事予算のうち、銃隊を構築するために使用された費用は、5440丁×18両=92480両になります。銀に換算して、5550貫になります。これに、銃にこめる弾丸が必要になりますので、17大隊の構築と維持・運用には、「岡山藩」の年間予算の2年分以上の費用がかかったものと推定されます。

その費用捻出は、「年貢」(税金)の増額で、その根拠として、「岡山藩」が出した「倹約令」が、安政2年(1855)の「倹約御触書」であったのです。

この「倹約御触書」には、「御触」の各項目に違背した場合の罰則規定は、ほとんどありません。

それもそのはず、「岡山藩」が「倹約御触書」を出した目的は、藩民の身分がどうの、差別がどうの、衣類の色がどうのこうのという枝葉末節のことがらではなくて、日本の国家的危機、岡山藩の存続の危機に直面して、何が何でも生き延びるための「国家総動員体制」的「統制」が目的であったのですから・・・。

「岡山藩」としては、贅沢を禁止して、質素倹約の美徳を説いた、つまり、<倫理的教訓>を説いたのではなく、軍事優先の藩財政改革の骨太の方針を、藩民に、とくに、91.5%を占める、百姓・町人階層、なかでも、圧倒的多数を占める、郡部の「百姓」に年貢の増税を求めてきたのです。

無学歴・無資格の筆者、ここでも、史資料の不足に直面します。

「岡山藩」は、郡部の「百姓」(町人を含む)の暮らしをどのように把握していたのでしょうか・・・? この「倹約御触書」を出すことで、どれだけ「百姓」の生活を切り詰め、それを年貢増額として徴収し、どの程度の藩財政の増収につながると算定していたのでしょうか・・・?

「草高45万石」の「岡山藩」と、同時期の「草高44万石」の徳島藩を比べてみますと、興味深い数字が出てきます。

徳島藩の草高/人口は、0.62、岡山藩の草高/人口は、1.27・・・。

「岡山藩」の一人当たりの藩民生産高は、徳島藩の一人当たりの藩民生産高の約2倍・・・。

「岡山藩」は、このことを、幕府の勘定方から指摘され、その差額を、幕府から、日本国と「岡山藩」の存続のための軍事力の近代化のために利用することを求められたのでしょうか・・・?

無学歴・無資格、歴史の門外漢である筆者の、推測にすぎませんが・・・。

次回、「岡山藩」の「倹約御触書」の内容を、「贅沢を禁止し、質素倹約をすすめる」倫理規定としてではなく、具体的な経済統制として、禁止品の価格を参考にしながら、「倹約御触令」の各項目を具体的に検討してみたいと思います。

「岡山藩」の「渋染一揆」の学者・研究者・教育者の方々に質問!

木綿で一着分を作るための生地はいくら?
着物を仕立てるときの仕立て代は?
着物を染めるときの染代は?
あとから紋を入れるときの工賃は?
「岡山藩」は、どの工程と費用を統制して、どれだけ税収アップをはかろうとしたのでしょうか?

無学歴・無資格、「百姓」の末裔でしかない『部落学序説』の筆者の目からみますと、従来の「岡山藩」の「渋染一揆」の学者・研修者・教育者の研究は、<観念的なあそび>でしかなかったのではないかと思われます。「被差別部落」のひとびと、特に、小学生、中学生に、差別思想である「賤民史観」を押し付け、植えつけて、そのほんとうの歴史を、物語を奪ってきた・・・、岡山県の教育関係者の<差別性>・<犯罪性>(人権侵害)について、異義を申し立てざるを得ません。

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