徳山藩の「夏衣類」に関する統制
これまで、徳山藩の『衣類定』を「上着」・「帯襟」・「下着」について図で説明してきましたが、それらは、どちらかいいますと、<冬服>に関する衣類統制です。
今回は、「夏衣類」に関する統制を図式化しました。「夏衣類」の場合、冬衣類と違って、衣類の種類が少ないようです。そのため、徳山藩の武士33階級の「夏衣類」に対する統制は単純なものになります。しかも、各階級毎の男の衣類と女の衣類に格差が出てきます。
同じ階級なら、男より女の方がいい着物を着ている・・・!
貝原益軒に、『女大学』というのがありますが、貝原益軒・・・、筆者、岩波日本思想大系で配刊されたとき、貝原益軒の思想に触れて以来、貝原益軒、近世幕藩体制下において、めずらしく、女性の人権を最大限尊重した人物であると思ってきましたが、貝原益軒の著作とされる『女大学』が、明治以降、近代中央集権国家・天皇制国家の女性のあるべき姿として理想化されたために、戦後、人権思想のめざめから、貝原益軒を女性差別の典型として非難される風潮が一般化しました。
しかし、筆者、貝原益軒・・・、当時の社会においては、梅田梅岩などの「心学」に見られる女性に対する差別的な発想と違って、合理的な精神に貫かれていると考えてきました。
そういう意味では、同じ階級なら、男より女の方がいい着物を着ている、という徳山藩の『衣類定』・・・、筆者、さもありなんと思います。
「夏衣類」においても、「武士」身分と「百姓・町人」身分の衣類統制の関係・・・、日本の近代・現代の歴史教育の中で教えられてきた「士農工商穢多非人」という関係にはなっていません。部落史の学者・研究者・教育者の方々が指摘する、身分制度=身分差別という等式が成立するなら、「士」身分より一段低い身分の「農・工・商」は、衣類統制においても、「士」身分より、より粗末な衣類が強制されるはず・・・。衣類統制は、身分制度の維持と身分差別の強化のために行われたと考えるのですから・・・。
徳山藩の『衣類定』に出てくる「夏衣類」の統制・・・、ここにおいても、「名字家名持候百姓」町人、武士身分の「徒士・持弓 ・蔵本付・細工人・船手・小膳部」階級同格の衣類統制が施されています。武士身分の「足軽・中間以下」の階級がみにまとうことが許されていない、「布さらし」を身にまとうことが許可されているのです。
「絹縮・縫箔帷子停止」・・・、ということは、この衣類統制の対象となる階級は、「絹縮・縫箔帷子」を常日頃から調達・保有していた・・・、ということを意味します。
近代・現代の歴史教育において、近世幕藩体制下の「百姓・町人」を、武士以下の身分として、「愚民論」的に取り上げてきたのは誰だったのでしょうか・・・?
| 区分 | 身分 | 武士 | 百姓 | 区分 | 
| 家老 | 絹縮着用可 | 準格の百姓町人 | ||
| 用人 | ||||
| 一般士分 | 馬廻 | 絹縮着用停止布さらし着用 (妻女)絹縮・縫箔の帷子着用停止  | 準格の百姓町人 | |
| 馬廻 | ||||
| 中小姓 | ||||
| 茶道 | 絹縮着用停止布さらし着用 (妻女)上に同じ 絹縮・縫箔帷子停止  | 準格の百姓町人 | ||
| 祐筆 | ||||
| 膳部 | ||||
| 別当 | ||||
| 徒士 | 有合の布さらし着用 (妻女)上に同じ 絹縮・縫箔帷子停止  | 準格の百姓町人 | ||
| 陣僧 | 有合の布さらし着用 (妻女)上に同じ 絹縮・縫箔帷子停止  | 有合の布さらし着用 (妻女)右に同じ 絹縮・縫箔帷子停止  | 名字家名持候百姓 | |
| 持弓 | ||||
| 蔵本付 | ||||
| 細工人 | ||||
| 船手 | ||||
| 小膳部 | ||||
| 中間・足軽以下 | 検断 | 地布着用 | 地布着用 | 百姓 | 
| 足軽 | ||||
| 足軽組外 | ||||
| 中間 | ||||
| 中間組外 | ||||
| 猟方 | ||||
| 時方 | ||||
| 舸子 | ||||
| 厩之者 | ||||
| 煮方之者 | ||||
| 飯炊之者 | ||||
| 諸細工人 | ||||
| 小人 | ||||
| 挟箱之者 | ||||
| 傘之者 | ||||
| 駕籠之者 | ||||
| 道具之者 | ||||
| 荒仕子 | 
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