2021/09/30

大江磯吉と西原清東

大江磯吉と西原清東


「テキサスへ新天地を求めるなどというのは、逃げて行くことを示すものにほかならない。・・・ここにこの小説のも っとも大きな問題点がある。この小説が差別される部落民の問題を取り上げ日本で最初の近代小説を確立しようとしながら、逆に多くの部落の人たちを傷つけ、苦しめてきた原因がある。」

島崎藤村の『破戒』の主人公・丑松について、岩波文庫版『破戒』の末尾に添付されている《「破戒」について》の著者・野間宏は、藤村を厳しく批判します。

新潮文庫版『破戒』の解説を書いた北小路健も、野間とほぼ同じような見解に立ちます。北小路は、藤村の中に「抜きがたい差別観」があることを指摘します。「差別撤廃の時代はこないであろう」とする「見通し」から、藤村は丑松を「テキサスへの逃避」行に追いやったと手厳しく批判します。

島崎藤村の『破戒』を差別文書としてみる研究者や教育者は、野間や北小路とほぼ同じ見解に立っているように思われます。

しかし、筆者の目からみると、野間や北小路は、まさに、その点で、島崎藤村についても、その作品である『破戒』についても、解釈することにおいて、失敗しているのではないかと思われるのです。

明治女学校の教師を辞めた5年後、藤村は故郷・信州に戻り、小諸義塾に教師として勤めます。そして、7年間、教師をするかたわら、藤村は、小説『破戒』を執筆するために、資料収集と、小説のプロットを構築していきます。そして、明治38年小諸義塾を辞して、東京に出て、次の年明治39年『破戒』を自費出版します。

藤村は、小諸にいる間に、『破戒』執筆に必要な材料を収集していきますが、藤村にとって、各種新聞は、時代の流れを反映するものとしては貴重な資料でした。藤村が収集したと想定される新聞記事の切り抜きの中に、「大江磯吉」の記事と「西原清東」の記事がありました。大江磯吉も西原清東のいずれも「教師」でした。

島崎藤村の『破戒』の研究者は、「大江磯吉」の記事との関連性については異常なまでに研究しますが、「西原清東」の記事との関連性は、逆に、異常なまでに無視してしまいます。藤村の、想定される資料ノートから、「西原清東」を葬り去ることによって、「テキサス」というアメリカの州の名前は、完全に、『破戒』の文脈から浮いてしまいます。そして、「テキサス」という言葉が突如出現してくることに戸惑いを感じてしまいます。

京都部落問題研究資料センターの所長をしている灘本昌久は、《瀬川丑松、テキサスへ行かず》という論文の中で、『文学研究法』の著者L.T.ディキンソンが文学研究者がしてはならないと指摘する「作品そのものに関する問題のお株をうばうようなことがあってはならない」ことを大胆に実践してみせます。

灘本は、丑松のテキサス行きを「逃げていく」ことだと断定した上で、「瀬川丑松テキサスへ行かず」と、これまた、断定するのです。灘本による証明の過程は、学歴のない筆者にはよく理解することはできませんが、灘本がそのように断定する背後には、「大江磯吉」の生涯を、小説『破戒』の「丑松」に当てはめて解釈する所作があるのではないかと思います。灘本は、「大江磯吉は、テキサスへ逃亡しなかった。大江磯吉をモデルにした丑松もテキサスへは行かなかったに違いない・・・」、そんな主張をしているように思われます。

島崎藤村は、穢多出身の実業家や弁護士のプロトタイプも新聞の記事に求めたと思われます。

それが、西原清東という実在の人物です。

西原清東は、土佐藩出身。郷士の家に生まれたといいます。板垣退助の自由民権論に共鳴し民権運動の闘士なっていきます。明治19年弁護士試験に合格。国会開設以降は法廷闘争で敏腕を振るったといわれます。明治31年国会議員になり、翌明治32年には、同志社大学総長に就任します。しかし、明治35年(1902年)「日本で築いた地位と名誉を捨て渡米」(国際貿易投資研究所研究主幹・佐々木高成)したといいます。西原は、「土佐の人々をテキサスに呼び込んで農場を経営、大きな成功を納めた」といいます。

島崎藤村と西原清東の間には、共通点がかなりあります。

共に基督者であること。基督教主義の学校で教鞭をとっていたこと。当時の「武士階級」出身によって支配された基督教会に、ある種の失望感を持っていたこと。教職を捨てて、別な世界へ転身を図ったこと・・・、等々。藤村は、西原清東と彼をとりまく人間模様を、『破戒』の中に組み込んでいったのでしょう。

島崎藤村とその作品に関する研究者は、長い間、「大江磯吉」との関連性は研究してきましたが、「西原清東」との関連性は、知っていながら、完全に黙殺してきました。

日本の歴史学上の差別思想である「賤民史観」に立つ研究者や教育者、そして被差別部落の人々は、島崎藤村が、『破戒』の主人公・丑松に「土下座とテキサス逃避行」をさせたという点を捉えて、藤村の差別性を昔も今も糾弾してきました。

しかし、筆者は、島崎藤村が基督者であったという点を考慮して、「土下座とテキサス逃避行」を、宗教的な意味合いをこめて「告白と再生」の行為ではないかと考えます。

「告白」は、「罪人」であることの「告白」です。もちろんこの罪は、 crime ではなく sin なのです。「クライム」ではなく、「シン」なのです。社会に対する罪ではなく、絶対者に対する、「自分で自分を欺いて」「虚偽の生涯」を歩んできた精神的な罪の告白だったのです。

絶対者の前での「告白」は、「新生」を引き起こします。

丑松は、「今までの自分は死んだ・・・」そう認識しつつ、そのことの故に「新しく生きよう」とします。テキサスへ渡る・・・、それは、被差別からの逃亡ではなく、此岸から彼岸へ、差別の此岸から非差別の彼岸への旅立ちを意味しているのです。

歴史は事実を記述します。
しかし、小説は事実の背後にある真実を記述します。

ディキンソンはこのように言います。
「小説と歴史とを比較するのでなくて、人生と比較してみるとよい。われわれはある人をよく知っていると思っていても、事実は親友の間柄でさえ絶対に分からないことが多々あるのである。心の底をさらけ出すことをその人たちはよしとしない、のみならず、もしさらけ出したいと思ったところで彼ら自身知りはしないのだし、また表現することもできないのである。ところが上手な小説家はあらゆることを表現することができるのである。・・・小説を読むのは代替の経験であるが、しかもその経験は実際の人生や歴史の記録にある人生よりも広く深いのである。この意味で小説は誠にもって「真実」である。」

島崎藤村著『破戒』を十分に理解するためには、島崎藤村が内面に持っていた「葛藤」「解決の仕方」を把握しなければならないのです。藤村の「葛藤」「解決の仕方」のレベルまで、すべての読者は成長していかなければならないのです。成長した分、『破戒』は、それが持っている本当の意味を私たちに語りかけてくるのです。

「西原清東」を『破戒』の解釈から遠ざけてきたように、「大江磯吉」も遠ざけないと、『破戒』の持っている真実を把握することはできないでしょう。

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