2021/09/30

高佐郷の垣ノ内のある風景

高佐郷の垣ノ内のある風景

民俗学者の柳田國男・・・、
<地名の研究に關しては、私は可笑しいほど澤山の無駄な苦勞をして居る・・・もしこの経験が何等かの役に立つとすれば、それは唯諸君にもう一度同じような、無駄をさせないというだけの、消極的な参考になるに過ぎない・・・>といいます。

筆者、今回、<高佐郷の歌>に出てくる地名を探索していて、柳田國男がいう<無駄な苦勞>を積み重ねてきたような気がします。しかし、その<無駄な苦勞>、徒労に終わることなく、高佐郷の<穢多村>にたどり着くことができたことはさいわいでした。

柳田國男、<地名>は、基本的には<二人以上の人の間に共同に使用せらるゝ符號である>といいます。そういう意味では、<地名>なるものは無数に存在し、あまり一般的でない<地名>を探索するのは容易ならざるものがあると想定されます。

<滅多に用ゐぬ村の小名などは、一旦間違ったらもう発見が困難である・・・>。

部落史の学者・研究者・教育者によって、被差別部落の元の地名になんらかの細工が施された場合、筆者のような、無学歴・無資格、歴史研究の門外漢であるただの人が、その地名が示す在所にたどりつくことはほとんど不可能であるといえます。探しあてたとしても、膨大な時間と労力を費やすことになります。

しかし、<諸君にもう一度同じような、無駄をさせない・・・>という柳田國男の言葉に甘えるならば、柳田國男の《垣内の話》という短文は、<高佐郷の歌>に出てくる<垣ノ内>を探索するのに、有力な情報を提供してくれます。

柳田國男、<中世以前の垣内については、やや豊富に過ぐといふ程の古文書の資料が傳はつて>いるといいます。その<垣内>・・・、<一つの垣内の中に畠もあれば田も含まれ・・・荒野というものが付属していた>といいます。<垣内>は、<荘園>の原風景でもあったようです。<荘園>という漢語に対応する和語が<垣内>であった、というのです。

<垣内>は、差別された場所ではなく、<もと一つの農村の成長力であった・・・>といいます。

全国各地の<垣内>をたずねる際、それがたとえ被差別部落につながる<垣之内>・<垣ノ内>であったとしても、<屋敷又は家地>を視野に入れて探索する必要があるといいます。

柳田國男・・・、<今はまちがいない知識を、ちつとでも多く積み貯へて置きたい・・・>と、歴史学的研究にではなく、民俗学的研究に大きな期待を寄せています。

<高佐郷の歌>に歌われている内容、近世幕藩体制下の長州藩に組み込まれた高佐郷の姿だけでなく、近世以前の中世、あるいは古代社会における高佐郷の姿が歌い込められていて、上記の柳田國男の<垣内>に対する解釈をそのまま適用できる部分がかなりあります。

<高佐郷の歌>に歌われている<被差別部落>・・・、近世史の枠組みだけでなく、中世史・古代史の枠組みの中でも検証する必要がありそうです。

<高佐郷の歌>に歌われている<少岡><垣ノ内>、柳田國男の《地名の研究》《垣内の話》の記述を参考にして、その在所にたどりつくことができましたが、<高佐郷の歌>に出てくる<穢多村>のある風景・・・、ついでに、『柳田國男全集』をひもといて探索することにしました。筆者、無学歴・無資格、学問・芸術・文学とはほとんど縁がなく、『部落学序説』とその関連ブログ群の読者の方から、たとえば、岡山の伊里中学校の人権教育担当の藤田孝志氏から何度も指摘があったように、筆者の文章は拙文に過ぎず無知・無学の体を示すものでしかありません。<高佐郷>をたずねて、その被差別部落の姿を表現するのに、その姿を的確に表現する文才はほとんど持ち合わせていません。

それでも、筆者の目に映る<高佐郷>の被差別部落の姿を表現しようとして、柳田國男の文章を転用させていただくことにしました。

「・・・という村だけは、一度諸君にも見せたい。斯ういふ古くて美しくて、人に知られて居ない村も珍しいからである。・・・地の「名」・・・住民ももう其意味を忘れて居るのである。・・・しかし地形や隣部落との距離から考へて、家は三十餘りしかないが、やはり獨立した昔の一領だったと思われる。さうしてそれを立證すべきあらゆる文書資料が、今は悉く失はれて居るのである。・・・何よりも珍しいのは村の形、境川の対岸の岡から眺めると、ほぼ眞直に南北一列に、大きなゆったりした屋敷ばかりが竝んで居るので、何か昔風の宿場を裏から見るやうな感じがする。村に入って見るとこれが實は表通りで、前をきれいな用水が流れ、家毎に橋を架けておる。流れに沿うて一筋の村があるからである。私は此路が中古の往還では無いかと思って気を付けて村をあるいて見た。土地の人に教えられて知ったことは、村の南手にやや大ぶりな小山があって、それが此邊一帯の風よけになって居る・・・」。

『柳田國男全集』の最後の巻にあるINDEXに<皮作村>として紹介されている村のことです。

<皮作村>を訪ね、その村と周辺を自分の足で歩いた柳田國男が、その<皮作村><古くて美しい村>と表現しているのです。柳田國男がこの文章を発表したのが昭和16年・・・。

筆者、この柳田國男の文章を読んでいますと、<高佐廻り地名記>に知るされている<高佐南穢多村>とその周辺の風景を綴った歌とイメージがダブってきます。筆者、高佐郷を訪ねたのは5、6回しかありませんが、高佐郷・・・、春夏秋冬を通じて美しい自然と村がある場所・・・

前の芝より詠むれば
中に大川、往還筋に郷家あり
宿の人馬も賑はしや
・・・
竜王山の麓には
御国役の御定めの御札場
祐の久保とは申すなり

少し岡は垣之内
山部は穢す皮張場
長吏の役は高佐郷・・・

そこには、部落史の学者・研究者・教育者によって構築されてきた、差別思想である賤民史観の描く、<穢多>・<皮田>の住む、差別され抑圧され排除された貧しき悲惨な村の姿はどこにもありません。

無学歴・無資格、部落史研究の門外漢である筆者が、<高佐郷の歌>に出てくる地名ことばを手がかりに訪ねた、近世幕藩体制下の<穢多村>が、筆者にその姿を明らかにしてきたのは、筆者が、被差別部落とその住人をおとしめる差別思想である賎民史観の持ち主ではなかったからでしょう。

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