2021/09/30





 浮世絵に見る「穢多」が身にまとった衣類の色・・・


浮世絵・・・、それが、当時の世相・風俗・習慣をどの程度描き出しているのか、筆者は、ほとんど知りません。

幕末期に日本にやってきた欧米人は、その美しさにこころを奪われた・・・、と言われますが、その浮世絵の中に、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「穢多・非人」の姿が描かれています。

もちろん、「裸に腰蓑をつけた・・・」、同和教育の実践の中でしばしば登場してくる差別的な像ではなく、きちんとした衣服を身につけ、その職務である、犯罪者の逮捕に従事する勇敢な姿です。

刀を振り回す犯罪者を、十手と捕り物用具を用いて、殺さずに生きたまま捕らえようとします。

その姿は、まさに、現代の警察官そのものです。

筆者が、手持ちの資料の中から、近世幕藩体制下の「穢多」を描いた浮世絵から、その衣類の色を紹介することにしましょう。「穢多」の多くは、「茶」系統の「渋染」の着物を着ています。中には、「茶」系統の他に、「青」系統や「緑」系統の色の服を身にまとっている者もいますが、なぜ、彼らが、「穢多」であると判断できるのか・・・、といいますと、それは、彼らの髪形にあります。

浮世絵の中においても、「穢多・非人」は、「茶筅髷」をしています。「茶筅髷」は、「穢多・非人」に強制された髪形ですが、左の写真の中に、梯子と一緒に転落していっている人が描かれていますが、その人の頭のうしろに白いリボンのようなものが見えます。その白いリボンのようなもの、その人の髪を束ねているもので、「茶筅髷」であることを示しています(はちまきの色は薄茶色です・・・)。

そこで、筆者は、この浮世絵に描かれている「捕人」は、部落研究・部落問題研究・部落史研究の学者・研究者・教育者が「穢多」と読んでいる人々に違いない・・・、と判断するわけです。

画像処理用のプログラムを使用してもいいのですが、いろいろな人に確認していただくためにも、Windowsのすべての機種に付録として添付されているペイントの機能のみを用いて、「穢多」が描かれている浮世絵から、その衣類の色を「スポイト」機能で抽出、それを同じ大きさの枠の中に流し込みました。

1段目と2段目の4色は、「茶」系統の色です。近世幕藩体制下の岡山藩で発生した「渋染一揆」の関連史資料に出てくる「渋染・藍染」の中の「渋染」に該当する色です。

3段目は、「緑」色系統の色ですが、「穢多」が身にまとっていた衣類の色は、現在、私たちがいう「緑」色系統の色まで含んでいたのでしょうか・・・? それとも、浮世絵の世界、芝居の世界だけの色だったのでしょうか・・・?(注:「緑」色系統の衣類は、明治5年の服制改革以降の、明治8年頃描かれたものであることが分かりました。近世幕藩体制下の色ではありませんでした。訂正させていただきます。しかし、参考資料としてそのまま掲載します。よって、下の脱走した囚人の身にまとっている着物は、明治5年の監獄制度の改革以降の徒刑場の囚人服です。歴史学者によって、近代の資料が近世の資料の中にそっと挿入されていますと、筆者のような、歴史学・部落史研究の門外漢は、時として錯覚してしまいます。体系的に研究していきますと、問題点や錯誤の発見が容易になります。史資料そのものが、体系からの逸脱を指摘し、自ら修正を要求してきます。)。

4段目は、「青」系統の色ですが、これは、「股引き」の色です。もちろん、「藍染」の色です。

浮世絵に出てくる「穢多・非人」の身にまとっている衣類の色は、上が「渋染」、下が「藍染」のようです。

しかも、その衣類は、柄のないものもあれば、縦縞、格子縞などもあります。「火事装束」としての「木綿渋染」の場合は、「無紋渋染」ときめられているようですが、浮世絵に出てくる「穢多・非人」の「捕者出役時の服装」のときは、縦縞、格子縞なども認められていたようです。

『江戸時代の被差別民衆』(明石書店)の著者・久保井規夫氏は、岡山藩の「渋染一揆」に触れて、「渋染・藍染は人間をはずかしめる色」と断定されるわけです。この『江戸時代の被差別民衆』は、1989年に出版された本ですが、久保井規夫氏は、2008年に至るも、約20年間、「渋染・藍染は人間をはずかしめる色」・・・と、主張され続けています。

最近の「渋染一揆」の学者・研究者・教育者の中には、この久保井規夫説に疑問を呈したり、反論したりする方々も多いのですが、その場合でも、色の差別性だけを切り捨てて、その他の、「渋染一揆」に関する研究に間違いはなかった・・・、と力説する人々も少なくありません。彼らが死守するのは、近世幕藩体制下の「穢多・非人」は「賤民」、「被差別民」であったという主張に尽きます。

そして、「穢多・非人」が「賤民」であったことを根拠として、あらたな同和対策事業を展開しようとします。

しかし、次の図を見てください。今度は、浮世絵の中に出てくる「穢多」ではなく、「獄衣」を身にまとった「罪人」の姿です。

脱獄した「罪人」が、追捕してきた、「穢多」に捕らえられる場面ですが、「罪人」が身にまとっている「獄衣」は「藍染」です。

「罪人」を捕まえる「穢多」の羽織の下の着物の色を見てください。少し見にくいかも分かりませんが、「罪人」と同じ「青」系統の「藍染」色です。

つまり、浮世絵では、犯人を逮捕するものと、当時の警察官によって逮捕される者とが同じ色の服を身にまとっているのです。

「渋染一揆」の学者・研究者・教育者の多くは、この事実をもって、「渋染・藍染は人間をはずかしめる色」だと主張しているのです。

2段目の図は、久保井規夫著『江戸時代の被差別民衆』からの転記です。

ただ、『江戸時代の被差別民衆』に添付されているカラー写真、なぜか、ほとんどが「水色」のセロファンをかぶせて写真撮影されている節があります。そのため、「堺県」の「男徒刑人」(入獄された罪人)が着せられた、「渋染」の衣類の背中に染め抜かれた白色の文字(一種の紋)が青に染まり、生地の「渋染」色との区別が尽きにくくなっています。

Windowsのペイントを使用して、青色の色を少なくして、囚人服の背中に染め抜かれた文字を、元の状態に、筆者が際立たせたのが、3段目の図です。「堺徒」(「堺県の受刑者」という烙印と同じ・・・)の文字がくっきりと描かれています。

その史料には、「法皮図 柿色染ニテ図面之通」と書かれています。「柿色」は、『近世風俗志』の喜田川守貞は、「黄赤あり、赤黒あり、黄黒あり。煎茶色を云ふなり。」といいますが、「赤黒」色の囚人服に、白色の「堺徒」を染め抜いています。

筆者は、久保井規夫氏が「渋染の獄衣」という主題で紹介している史料から判断しますと、「獄衣」の色より、その背中に染め抜かれた囚人を示す「紋」(「堺徒」という文字で構成された「紋」・・・)にこそ、「俗人・平人と境界を示す」指標があると考えます。

久保井規夫氏が、20年間、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」に依據して、「渋染(柿色)は、俗人・平人と境界を示す色として・・・使われた差別の象徴でした」と解釈し続けていますが、『部落学序説』の筆者は、「大いなる誤謬」であると判断します。

近世幕藩体制下の「囚人服」は、「渋染」尽くしの衣類、「藍染」尽くしの衣類のいずれかのうようですが、浮世絵に描かれている「穢多・非人」の衣類は、上が「渋染」、下が「藍染」のようです。

筆者には、久保井規夫説は、部落研究・部落問題研究・部落史研究の学者・研究者・教育者が、学者・研究者・教育者としての良心を捨て去り、部落解放運動の現場の要求に応えるために、日本の歴史学に内在する、差別思想である「賤民史観」に身を委ねた結果、生まれるべくして生まれてきた、学問上の「大いなる誤謬」であると思われます。

次回も、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての、「与力・同心・目明し・穢多非人・村方役人」の衣類について、考察を続けます。

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