2021/09/30

「部落民とは誰か」-「穢多」を尋ねて長州藩一人旅-

「部落民とは誰か」-「穢多」を尋ねて長州藩一人旅-(吉田 向学)

               『人権・反差別・共生 アファーマティブやまぐち21』(1997/第3号)掲載

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私と部落差別との出会いというのは、1988年8月16日の朝日新聞の記事に始まる。その内容を簡単に紹介すると、その年、山口県教委が主催したある集会で、講師の同和教育課指導主事が、小学校教師をしていた当時、社会科の授業で、受持ちの6年生に作成させた『士農工商から四民平等へ』という紙芝居を紹介したそうであるが、その時、紙芝居の一枚に、江戸時代の被差別民を辱めるような表現の絵があったということで運動団体から、部落「差別を助長」すると指摘されたというのである。

問題になった絵は、「士農工商」という江戸時代の基本的な身分制度の枠外に置かれたと言われる「その他」の人々が、「頭の真ん中をそり上げてまげも結わず、全身裸にはだしで腰みのだけをつけ、手には棒という異様な姿」で描かれていたというのである。(次頁の写真)

「昔は裸に腰みの階層も」という、誇張された新聞の見出しも手伝ってか、その記事は私の関心を誘った。「江戸時代の被差別民衆って、誰なのか。どのような生活をしていたのか…」。時々、図書館に行っては、江戸時代の被差別民衆の姿を記した史料を漁り、江戸時代、全国的には「穢多・非人」と言われた人達、長州藩においては「穢多・茶筅・宮番・道の者」等と言われた人達の姿を追い求めるようになったが、「裸に腰みの」姿の彼らの姿を見つけることはできなかった。

史料の中に、「裸に腰みの」姿の絵がなかったわけではないが、それは、「穢多・非人」と言われた人達のそれではなく、身を持ち崩し、農を捨てた農民達の姿でしかなかった。

「穢多」と言われた人達は、「いったい誰だったのか…」、何か大きな謎にぶつかったような感じがした。その謎を謎のままにとどめておくことができず、なんとか解き明かすことができないかと、私なりに調べるようになった。

自分の頭の中で、「穢多」と言われた人達の姿を想像してみるのだが、ついぞ具体的な像を思い浮かべることはできなかった。そのうち、あの差別を助長すると指摘された紙芝居の「その他」の人の姿、「裸に腰みの」姿が私の脳裏に浮かんでくるようになった。「このままではいけない…」、そういう思いが、「江戸時代の被差別民は誰だったかのか」という関心に拍車をかけることになった。

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私は、日本基督教団の牧師をしている。牧師になる前、「神学校」(学歴とは関係がない)に行ったが、まったくの無名の学校である。教団の中でも、影がうすい存在であるから、読者でこの学校の名前を知っておられる方は皆無であろう。四年制で、最終学年の時は、実践神学特講なるものがある。今日の社会に存在する様々な問題を取り上げて見識を深めるための授業であるが、そのひとつに部落差別問題があった。

講師は、今は亡き、明治学院大学の工藤英一教授である。今日に至るまで、部落差別問題について、彼に勝る「師」は現れていないから、神学校在学中に、部落差別問題について、彼から受けた影響はかなり大きなものがあったと言える。その講義中に読んだ書物に、"The Invisible Visible Minority・・・Jpana's Burakumin" というのがある。

その著書は、米国の学者であるが、日本の「部落民」を学術調査した人であるが、彼は、東京で、商店や食堂、書店や教会、駅やバス停でいろいろな人に尋ねるのである。「あなたは、部落民が誰か、知っていますか。」「部落の場所を知っていますか」。彼が驚いたのは、世界都市・東京に住んでいるほとんどの人は、東京から遠く離れたアメリカで差別されている黒人についてはよく知っているものの、日本の部落民についてはほとんど知らないという事実であった。

不思議に思った彼は、日本全国、部落と部落民を尋ねて歩くことになるのであるが、私も彼にならって、日本人のほとんどが意識の外に追いやって忘れてしまおうとしている江戸時代の被差別民衆、そしてその末裔としての現代の「部落民」がいったい誰なのか…、自分なりに調べてみようと思いたった。

「裸に腰みの」が差別的であるというなら、被差別部落の側は、代わりにどのような「像」を、歴史の実像として提示しようとしているのか。山口県教委は、運動団体から指摘を受けて、江戸時代の被差別民衆の真の姿をどのように捉らえ直すのか、大いに興味のあることであったが、その「差別事件」、それ以後、新聞の紙面上で報道されることはなかった。問題は解決されたのか、されなかったのか。解決されたとしたら、どのように解決されたのか。知りたいと思って図書館で何度となく新聞をめくつたのであるが、「差別事件」の解決の行方については何の報道もなされていなかった。

朝日新聞に限らず、各新聞は、部落差別について、差別事件や差別発言発生の報道はするが、その解決と経緯については、ほとんど取り上げることはない。一般の読者がこの種の事件を追跡することはほとんど不可能に近いのである。やはり、新聞各紙は、差別事件の発生だけでなく、解決とその経緯についてもきちんと報道すべきではないかと思う。差別事件が報道される都度、いつも思うことだが、部落差別事件のほとんどが、「闇から闇に」葬り去られていくようで、何となく後味が悪い。

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それからしばらくして、その紙芝居をめぐる差別事件は、NHKの番組で紹介された。また、1989年1月19日に「第4回山口県同和教育研究集会」が開催され、講師の大阪市教育セミナー教育研究室の稲垣有一さんの「部落問題学習をどうすすめていくか」という講演を聞く機会があった。

その中で、稲垣さんは、それまで学校同和教育の中で教えられてきた「士農工商・その他」という図式は、間違いであると指摘された。小学校や中学校で同和教育を担当している教師の方に、「士農工商・税多非人」という表現が、江戸時代のどの史料に出てくるのか、度々尋ねたことがあるが、ほとんどの人は、「たくさん史料を持っているから、調べてあげましょう…」と快く御返事下さるのではあるが、誰一人、その出典を明らかにして下さる方はいなかった。「あるはずなのに、見つけることができない…」と、意外な結論に驚く教師の方も何人かいた。

そもそも、「士」の下に「農」が、「農」の下に「工・商」が、そして、江戸時代の身分制度の最下層に「穢多・非人」がいたという図式は、江戸時代の身分制度の事実を伝えているものかどうか、疑問に思い始めていた時だけに、「士農工商・横多非人」という図式にかえて、稲垣さんが提示した(部落民裏貼説)には注目を引くものがあった。

「部落民裏貼説」(部落解放同盟新南陽支部福岡秀章氏の命名)というのは、「穢多・非人」と言われた人々は、「士農工商」よりもさらに一役「下」の最下層に置かれていたというのではなく、「士・農工商」のそれぞれの階層の「中」に位置づけられていたというのである。言葉をかえれば、「士」に属する「穢多・非人」もいれば、「農」や「工・商」に属する「穢多・非人」もいるという説である。江戸時代の被差別民衆の中にも、「士農工商」という身分制度が厳然と生きづいていた可能性があるということになる。

歴史学会の中では、まだ認められていない作業仮設として紹介された図式であるが、私は、この図式は非常におもしろいと思った。江戸時代や明治初期の部落差別に関する文献を読んでいて、「謎」 にぶつかるとき、「士農工商・稼多非人」という図式で理解するより、(部落民裏貼説)という図式を援用した方がよりよく理解できるからである。

私は、(部落民裏貼説)のとりこになり、ことあるごとに、この説を言い広めることになった。日本基督教団や各教区の、部落差別問題に関する研修会に参加する時は、決まって、この作業仮設が、被差別部落の歴史を読み解く際に有効であることを伝えた。しかし、少しく部落史を知っている人にとっては、江戸時代の被差別民衆は、やはり、「士農工商」より下の最下層の身分以外の何者でもなかった。「部落民裏貼説」が当てはまるのは、長州藩だけではないのか…。仮に、「部落民裏貼説」の正しさを認めるとしても、それは、江戸時代の諸藩に共通して適用できるものではなく、長州藩という限定された地域でのみあてはまるものでしかないのではないか、それが大多数の人の反応であった。私は、つい一~二年前まで、この(部落民裏貼説)がより史実に近いとの確信を持っていた。

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しかし、一枚の地図が、[士農工商・穢多非人」という図式でも、(部落民裏貼説)の図式でもない、別な図式の存在の可能性を教えてくれた。

その地図というのは、国立国会図書館に所蔵されている『長門国図』・『周防国図』であるが、今は復刻されて、少し大きな図書館に行くと誰でも閲覧できる。私は、この二つの地図を、コピー機で修正しながら、一つの地図に貼りあわせた。三尺六尺、畳一枚分の大きさの地図である。

この地図は、江戸時代の地図の上に、明治初期の行政区画を書き込んだものである。つまり、一枚の地図に、江戸と明治という両方の時代が共存しているのである。この地図をじっとみつめていると、江戸時代から明治時代への移行が、明治維新と共に突然と瞬時に行われたのではなく、二十数年の歳月をかけて徐々に行われたものであることが見えてくる。

私は、この地図を片手に、江戸から明治へ移行していく過程の長州藩を一人で旅をしてみることにした。SF(科学推理小説)に出てくるタイムスリップである。地図に記された街道を自分の頭の中で歩きながら、「被差別部落はどこにあるのか。被差別部落民は誰であるのか」、旅をしながら自分の目で確認することにした。

もちろん、長州藩に、『地下上申図絵』と言われるものが存在しているということを知らないわけではない。当時の地図である、『地下上申図絵』には、各村にある「穢多」と言われた人々の住んでいた場所がはっきりと明記されている。戸数が分かる場合も多い。一部は、部落史研究の論文や市町村史の近代の部分に紹介されているが、長州藩全体の「穢多」と言われた人々の所在を一望することは部落史の専門家でないとできない。しかし、『長門国図』・『周防国図』と「防長風土注進案』を照らし合わせながら、調べを進めると、江戸時代の「被差別部落」・「被差別民衆」の姿がなんとなく見えてくる。その結果、江戸時代の「被差別民衆」を表現するに際して、現代一般化された用語をアナクロニズム的に過去に投影させてはならないということが分かってきた。

たとえば、1871年(明治4年)8月28日に公布された「稼多非人等ノ称被廃候条、自今身分職業共平民同様タルヘキ事」と布達された太政官布告は、一般的には、「身分解放令」と言われているが、太政官布告を「身分解放令」とするのは、ひとつの歴史解釈に過ぎない。江戸時代から新しい時代への移行期の中で、その当時の人々が、今日で言われるところの「身分解放令」と称えていたかどうかは分からない。「身分解放令」は、大正時代の水平社運動前夜から使用された言葉で、その時代の部落解放運動の要請から使用された言葉で、太政官布告が出された時代の状況を反映しているものではない。

江戸時代、「穢多・茶筅・宮番・道の者」等と言われた人達は、太政官布告が出されたとき、「士農工商」という身分制度の枠外の位置から、明治・近代身分制度の中の「皇族・華族・士族・平民」の枠内の最下層の「平民」身分に格上げされたという説は、「士農工商・その他」という図式が成り立たなくなることで、危うくなる。格上げでなく格下げでなかったのではないか…。江戸時代の「穢多・茶筅・宮番・道の者」等と言われた人達は、江戸時代よりもかえって明治の太政官布告以降において、より苛酷な被差別の状況に追いやられたのではないか、そのような気がする。

地図上の街道を旅しながら、街道沿いの村々の「穢多・茶筅・宮番・道の者」を尋ね歩いているうち、彼らが誰であるのか、ぐらついてくる。武士階級は、農民から年貢を搾取するために、農民よりもより低い身分のものをおいて、農民の武士に対する批判を和らげようとしたという説は、学校教育の現場で何度か耳にしてきたが、彼らは、本当にそのような機能を担っていたのだろうか。

民衆支配の方法として彼らに対する差別政策が展開されたというなら、長州藩五百を越える村々のすべてに「被差別身分」が設置されてもよさそうであるが、長州藩五百の村々のうち数十パーセントにのぼる村々には、「被差別身分」は設置されていないのである。その村の住民は、苛酷な年貢取り立ての時に、「より下を見て」自らをなぐさめる手段を持たない…ということを意味している。

否、むしろ、江戸時代の「穢多・茶集・宮番・道の者」は、そのような機能を持たされたことは決してない、というのが史実に近いようだ。

武士は、民衆支配の貫徹のために、彼らを、「農工商」の下に置いたのではなく、むしろ、「農工商」の枠の外、「士」の枠の中に彼らを位置付けたと言えよう。

山口県のある行政が主催した同和教育の場で、その地区の被差別部落の人がこのような発題をしていた。

「数年前、立派な○○市史が発行されました。でもその○○市史について思うのです。私が生まれ育ってきた場所は、私の親もまたその親も生活してきた歴史があります。にもかかわらず、あの分厚い市史の中には、ほんの限られたページにしかでてきません。それも22年前の同和対策の記述以外は、江戸時代の「地下上申」の資料に、町場の牛やうまの数のあとに、「穢多の家六戸…」とあるんです。町の男何人、女何人、馬何頭、牛何頭、その後に、穢多の男何人、穢多の女何人、穢多が持っている牛が何頭、馬が何頭と書かれているのです。それを見ただけでも、江戸時代、部落の人間が牛や馬よりもそれよりももっと以下に見られていたということを表していると思います」。

最初、この言葉を耳にしたとき、被差別に置かれた人々の言いようのない悲しみや心の痛みが伝わってくるような思いをした。

そうであるなら、古地図を片手に、江戸時代にタイムスリップして 「穢多」といわれた人々を尋ね歩く私の目の前に、そのような人々の存在が、否定すべくもなくはっきりと姿を現わすはずであった。しかし、江戸時代、「穢多・茶筅・宮番・道の者」といわれた人々が、牛馬以下におとしめられていたという記録や資料に遭遇する可能性はほとんどないということが分かった。『地下上申』の記述からそのような被差別の側からの自己理解がなされるなら、もうひとつの重要な文献である『防長風土注進案』の記述から、次の様な推測もなされていいはずである。

『防長風土注進案』にも、同様の調査記録が掲載されているが、「穢多・茶筅・宮番・道の者」と言われた人々の位置づけはそれほど単純ではない。彼らは、確かに百姓(農工商その他…この場合(その他)は、僧侶・神主・座頭等を指す)や所有される牛馬の後に登場してくるが、ある場合には、両者の間に、もう一つの別な存在が入ってくる事例が多く見られる。それは、在郷諸士である。本藩の職務を解かれて、自分の領地で生活している武士階級である。彼らは、「農」によって生活している。先の被差別部落の人の話の文脈では、この在郷諸士も、「農工商」の一段下の身分に置かれていたことになる。どんなに想像を達しくしてもそのようなことがあるはずはない。

となると、「穢多・茶筅・宮番・道の者」といわれた人々の位置付けを考え直す必要がある。彼らは、「農工商」の下にではなく、武士階級の下に位置付けられていたのではないか。「防長風土注進案」を読み進めていくに従って、「士農工商・その他」という図式も、「部落民裏貼説」も音をたてて崩れていくような気がした。

『防長風土注進案』の資料から、江戸時代の支配体制の二重構造が明らかになってきた。「武士支配」と 「百姓支配」、この二重支配の中で、「穢多・茶筅・宮番・道の者」といわれた人々は、武士支配の中に組込まれ、長州藩の様々な職務(警察・刑吏・看守・道路保守・皮革産業・軍需産業等)を担っていったと思われる。

庄屋をトップとする百姓支配の最下層に位置付けられた人々は、名子や走り百姓・潰れ百姓といわれた人々で、決して、「穢多・茶筅・宮番・道の者」でなない。幕末から明治初年代の身分制度がぐらついていた時代に、最も惨めで悲惨な最下層から身を起こし、近代天皇制国家の重鎮にまで上り詰めた人・伊藤博文は、武士支配の最下層に身を置いていた人ではなく、百姓支配の最下層を生きた人物であった。

百姓支配の身分階層はたかだか十数しかないのに比べて、長州藩の武士階級は、六十階級の多さにのぼっていたという。身分差別という観点では、百姓支配の下積みで喘ぐ人よりも、武士支配の末端で苦しむ人々の方が、より強く封建的身分差別の重圧に苦しんだのではなかろうか。本来の武士階級と準武士階級(士雇)、そしてそこにすら入らない中間・足軽層。所属する身分に拘束され、自由を疎外されていた人々は、百姓よりもむしろ武士の方に多かった。所属する身分階層が異なると婚姻が極度に制限された。

「穢多・茶筅・宮番・道の者」といわれた人々は、同一存在ではなく、それぞれ固有の役職を持ったものとして長州藩の「官僚機構」に組み込まれた存在であった。彼らは、百姓の下に置かれた、哀れむべき悲惨な民ではなく、百姓支配の外にあって、百姓を支配する側の官僚機構の一部でしかなかったのではなかろうか。

記録によると、飢饉の時、餓死者が出る状況の中でも彼らは飢え死にすることはなかった。官費が支給されたからである。

長州藩の古地図を片手に旅をして、そこで出会う彼らの姿は、そのようなものであった。身分階層の中で、着る服装さえ厳しく制限された社会の中で、「穢多」と言われた人々が、武士の装いで職務を担っていたことを示す史料は少なくない。

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今、部落史と取り組む時の作業仮設として「士農工商・その他」という図式でも、(部落民裏貼説)でもなく、第三の図式が手元にある。古地図と『防長風土注進案』と関連史料を片手に、今後も「穢多」を尋ねての長州藩一人旅を続けることになるが、この取り組みはあまり他の人に理解されない。「部落を尋ねて、調べて、その結果、みじめな歴史しかでてこなかったらどうするのか」とすごまれたこともある。「部落の秘部を暴くことになるのではないか」と忠告して下さる方もいる。歴史学の常識を否定しない方がいいのではないか…と助言して下さる方もいる。「あなたの取り組みは、研究というよりは個人的趣味でしかない」。「有名な歴史学者の傍証がない限り、認めることはできない」。そのような批判や助言はありがたく受け取るとして、それでも私は、一枚の古地図に記された江戸時代と明治時代の二重写しの世界につい引き摺り込まれてしまう。そのような江戸時代の「穢多・茶筅・宮番・道の者」といわれた人々が、いつ、どのようにして、水平社宣言の時代の悲惨でみじめな「部落民」におとしめられていったのか。現代部落差別の本当の起源の謎について、なんらかの答が目の前をちらつき始めて
いる。

心の中で、この旅を続けていく中で、確実に変わったものが一つある。

それは、私の中の被差別部落の人々に対する「差別意識」である。「差別意識」がどこかで崩れ始めている。そして、「部落民とは誰か」という問を前にして、私が自分の頭の中に想像することができる「穢多・茶筅・宮番・道の者」の姿が、次第にはっきりと像を結びつつある。「差別紙芝居」の「像」は消えうせ、「穢多・茶筅・宮番・道の者」といわれた人達の真実な歴史の実像が見え始めている。

多くの人がいうように、被差別部落の歴史は否定され忘却されるべき歴史ではないと思う。被差別部落の解放は、歴史を捨てることによってではなく、歴史を見直すことによってしか達成することはできないのではないかと思う。「水平社宣言」にこのような言葉がある。「我々は、かならず卑屈なる言葉と怯儒なる行為によって、阻先を辱かしめ人間を冒涜してはならぬ」。

被差別部落の人々が、先祖の歴史をみじめで悲惨な歴史ととらえ、ただそこから、言葉と行為を持って逃亡するいとなみは、『水平社宣言」がいう、「卑屈なる言葉と怯儒なる行為によって、祖先を辱かしめる」ことにつながることになりはしないだろうか。被差別の歴史は、部落差別だけでなく、アイヌ差別、沖純差別、民族差別等々も、被差別者自身の手によってその歴史が解き明かされなければ解決することはできないと思う。

私は、いつか、歴史学者の手によって書かれた被差別の歴史ではなく、第三者や傍観者の立場で書かれた歴史ではなく、被差別の側から被差別の手によって書かれた歴史を読みたいと思う。「穢多」を尋ねて長州藩一人旅・・・、この旅はやがて、現在の、誇りある部落の歴史を担い、生き抜いている今日の被差別部落の人にたどりつくことができるのだろうか・・・。こころの旅は続く・・・。(注 穢多・茶筅・宮番・道の者等という表現は歴史用語として使用しました。)

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