2021/09/30

部落問題研究者と禁忌

部落問題研究者と禁忌

「禁忌」(タブー)の視点・視角・視座から部落差別を洞察することは、部落差別の認識になんらかの変化をもたらすことになることは充分考えられます。

『学問と「世間」』の著者・阿部謹也は、その書の中で、日本の学問の「閉鎖性」をといています。日本の「学会では対象とする領域がほとんど固定されており、その領域からでることはまずない。」といいます。「その理由はそれぞれの学問分野の担当者が「世間」(筆者は、それを学問上の禁忌と読み変える)を構成しているためである。しかし多くの学者自分の学会が「世間」(禁忌)を構成していることに気づいていない。」といいます。

阿部謹也は、「日本史学会の研究者」を批判して、彼らは、「日本史とされる地理的分野にしか関心をもたず、たとえば差別の問題についても日本史における差別は他の国における差別とは異なった別のものだと主張しがち」であるといいます。「日本史学会の研究者」による海外向けの研究発表において、「「非人」とか「穢多」といったことばが、そのままローマ字化されて使われており、外国人にとっては全く理解できない言葉の羅列で、関心をもてないだろうと思われた。」といいます。

「つまり日本史の問題は特殊日本的なものであり、世界史上の諸問題とは本質的に異なるという考え方があるように見える・・・」といいます。

しかし、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「穢多・非人」を、キリスト教禁令下の「宗教警察」として、かって凡アジア的に存在したし、今日においても存在している可能性のある用語をもって認識しなおすことで、部落差別を日本固有の問題としてではなく、凡アジア的な問題、ひいては凡世界的な問題のひとつに過ぎず、部落差別撤廃の可能性は多分に存在することを言明することができるのではないかと思います。

そしてまた、文化人類学的研究によって、「世界の共通語」になっている「禁忌」(タブー)概念をもちいて、部落研究・部落問題研究・部落史研究を徹底することによって、日本の部落差別を、日本固有の部落差別としてではなく、凡アジア的な差別のひとつとして日本の部落差別を提示することも可能ではないかと思われます。

いままで、凡アジア的は差別のひとつとして日本の部落差別を紹介するこころみがなかったわけではありません。たとえば、日本の部落差別をインドの「不可触賤民」(アウトカースト)と同類のものとして認識・紹介する傾向がなかったわけではありません。たとえば、歴史学者・社会学者の沖浦和光などは、日本の部落差別をインドの「不可触賤民」(アウトカースト)と類比して解釈し、同等のものとみなす傾向を強くもっています。

しかし、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「穢多・非人」を「アウトカースト」・「身分外身分」として認識することは、近世幕藩体制下の「穢多・非人」の歴史を完全に無視した、学問的誤謬・曲解でしかありません。

その証拠に、沖浦和光が述懐しているように、日本の被差別部落に、インドのアウトカースト制度が歴史的にどのように影響を与えたのか、まだ誰も実証的に証明してはいないのです。沖浦和光でさへ、自己の研究者としての年齢と残余研究時間を考慮しながら、後進の若い研究者がこの問題を解明してくれることを願うにとどまっています。

しかし、日本の部落研究・部落問題研究・部落史研究に「禁忌」(タブー)の視点・視角・視座を積極的に導入することで、従来、日本固有の差別問題として、「閉じた社会」・「閉鎖的なワク」に限定してきた部落差別認識をあらため、日本の学問の真のパラダイム転換をはかり、部落差別完全解消につなげることが可能になるのではないかと思われます。

阿部謹也は、「近代化のシステムは差別の不当性を明らかにはするが、なぜ差別が起こるのか、なぜ差別が今もなお残存しているのかを解明し得ないのである。私は現在でも差別が残存している理由の一つに「世間」意識があると考えている。」といいますが、「世間」を「禁忌」(タブー)という言葉に置き換えてみますと、阿部謹也の論点をより明確にすることができると同時に、「世間」より、論点により広範な意味内容を獲得することができるのではないかと思われます。

従来の部落研究・部落問題研究・部落史研究にみられる学者・研究者・教育者の学問的「禁忌」(タブー)を指摘するとともに、「禁忌」(タブー)を視野にいれながら、部落研究・部落問題研究・部落史研究を見直そうと主張している研究者群に、『脱非常識の部落問題』の著者群がいます。

その書の編集者である朝治武・灘本昌久・畑中敏之は、学者・研究者・教育者に論文の執筆を依頼するために「刊行趣旨」なる文章を配布されたということですが、それを読みますと、「部落史・部落問題の見直しが、様々な分野で進んでいます。歴史・教育・運動・行政の全ての分野で、通説的な捉え方に対する再検討が行われています。」と紹介した上で、「常識化した部落史・部落問題の通説的認識はまだまだ健在・・・」と「部落史・部落問題の見直し」の難しさと表出しています。

それもそのはず、「常識化した部落史・部落問題の通説的認識」は、差別的な民衆だけでなく、少なくとも部落差別に問題を感じ続け、それぞれの立場から研究と発言をくりかえしてきた学者・研究者・教育者の「部落史・部落問題の通説的認識」の中にも、この「常識化した部落史・部落問題の通説的認識」は深く通底しているのですから・・・。「部落史・部落問題の見直し」は、「部落問題」のパラダイム転換だけでなく、「部落史・部落問題の見直し」を遂行する学者・研究者・教育者の資質と発想、視点・視角・視座の根本的な転換を要求される作業にならざるを得ないと思われます・・・。

朝治武・灘本昌久・畑中敏之は、「部落問題の固定したイメージ」「強固」である背景に、部落差別にまつわる「禁忌」(タブー)の存在を想定しているように思われます。その「禁忌」(タブー)は、「禁忌」(タブー)本来がもっている特質を帯びています。部落差別にまつわるすべてのもの、それが部落差別の解消につながる新たな提案であったとしても、部落差別に触れているということで、「一しょくたにして忌避され敬遠」するという・・・。『習俗-倫理の基底-』の著者・佐藤俊夫が、「もはや悪習とよぶほかはない。」という「禁忌」(タブー)に拘束・制限されているとこを示唆しているのです。

部落研究・部落問題研究・部落史研究の学者・研究者・教育者の前には、「善意ではあれ、決して踏み外すことを許さない常識の世界」、学問上の「禁忌」(タブー)が存在していることを指摘しているのです。学者・研究者・教育者がまず、自分たちの中にある「牢固とした常識を打ち破らない限り、人々の心に部落問題の真実・部落解放への願いは届きません。」と反省し、「部落史・部落問題の見直し」には、その「禁忌」(タブー)をとりのぞく「断固とした非・常識」、「禁忌」(タブー)を超越した研究精神が必要であるというのです。

奥田均・小松克己・中尾健次・住本健次・子安敏司・藤野豊・野町均・大西純・左右田昌幸・山城弘敬・北野隆一・北口末広・上丸洋一・今西一・角岡伸彦・住田一郎・渡辺俊雄・吉村智博・石本清英・黒川みどり・森実・布川弘・原田敬一・鍋島祥郎・亀岡哲也・畑中敏之・朝治武・灘本昌久・・・、『脱非常識の部落問題』に収録された論文の学者・研究者・教育者群は、『脱非常識の部落問題』発刊後8年が経過したいま、どのように、彼ら自身の中に内在する「禁忌」(タブー)と、部落問題の中に内在する「禁忌」(タブー)を取り除き、部落研究・部落問題研究・部落史研究に新しい展望をもたらしたのでしょうか・・・。

無学歴・無資格の『部落学序説』の筆者のところまで、その新しい風は吹いてきてはいないのですが・・・。

大阪市立大学・鍋島祥郎助教授の書いた、《部落の「学力問題」は「差別の結果」か》という論文は、部落問題に内在する「禁忌」(タブー)に触れて衝撃的です。

鍋島祥郎は、大阪市立大学の「「同和問題研究室」という部局に身をおき、「部落問題研究」をテーマとして掲げている」といいますが、周囲から「差別的」な人間関係を強いられるといいます。そして、「私の人間関係の中で、「部落出身」という自己認識がない人の反応よりさらに興味深いのは、「部落出身」を自認している人の私に対する反応である。」といいます。

鍋島祥郎はこのように続けます、「私が部落問題研究者であることを知ると、必ず「あなたは部落出身ですか」と聞く。その聞き方も様々で、「どっちの方ですか」という言い方から、「ところでおまえはなんの関係や」や、「おまえ兄弟か、ハクか?(「兄弟は部落民を指し、「ハク」は非部落民を指す)」「部落民でもないくせに生意気な」までいろいろである。こういう研究者いびりはやめてほしいと願っているが、これに明瞭に答えられなければますハナシにならない。・・・ところで、「おまえ兄弟か?」と訪ねられた場合、自分が「部落民」であることを証明しようと思えば、まず間違いなく自分の血統的一関係または地縁的関係を説明しなければならない。つまり、「身元」をあかさなければならないのである。「わたしは差別された経験があるので部落民です」という論理、つまり先の相対的側面の開示では一般的に通じない。こうした「血統と地縁」によって部落民であるかないかを同定する論理は、部落民を排除する論理として行使されるだけでなく、部落の内側においても同様に行使されるのである。つまり、「部落民」をめぐるアイデンティティの発現の仕方を観察すれば、必ずしも部落民とは「被差別」であり「被害者」であり「他者規定的」なのではなく、血統や地縁を拠り所にして求心力が存在していることがわかる。例えば、部落コミュニティにおいては部落外から来て住んでいる人を「いりびと」と言い、区別する。戦後急激に増えた「嫁」という形態での「いりびと」は、時にはそのことで嫌がらせを受ける」。

大阪市立大学・鍋島祥郎のことばは、部落研究・部落問題研究・部落史研究の学者・研究者・教育者が、その研究にまつわる「禁忌」(タブー)を超越したとき、部落差別ないし被差別部落のひとびとの中に「禁忌」(タブー)が重層的に存在していることを指摘しているのです。

「特定の旧身分とその子孫、居住区域を社会的に排除、あるいは疎外・忌避」(小松克己《福沢諭吉の「まなざし」から植木徹誠の「」まなざし」へ》するという、「禁忌」(タブー)の存在は、差別者の側だけでなく被差別者の側にも存在していることを示唆してやまないのです。

差別者の側にも被差別者の側にも深く内在する部落差別にまつわる「禁忌」(タブー)を取り除くためには、まず、その「禁忌」(タブー)が何であるかを解明しつくす必要があると思われます。被差別の側にある、部落差別にまつわる「禁忌」(タブー)を研究するためには、大阪市立大学・鍋島祥郎助教授のように、部落研究・部落問題研究・部落史研究の学者・研究者・教育者としての自己の中に内在する「禁忌」(タブー)から自由になる必要があると思われます。鍋島祥郎の論文・《部落の「学力問題」は「差別の結果」か》を読んで衝撃を受けたのは、鍋島祥郎のような学者・研究者・教育者があまりにも少ないということを痛切に感じたからです。

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