2021/09/30

中国筋の小藩に見る衣類統制

中国筋の小藩に見る衣類統制

近世幕藩体制下における諸藩の、支配階級である武士身分の階級は、藩の規模に比例して増減するのが常です。

長州藩における武士身分の階級数と、その支藩である徳山藩の武士身分の階級数と比較しますと、徳山藩の階級数は、大幅に減少して、《徳山藩士卒階級表》によりますと、「士分」15階級、「卒族」18階級、併せても33階級に過ぎません。

本藩とちがって、その支藩の徳山藩では、「穢多の類」と称される、司法・警察である非常民の職に従事していた人々は、ただひとつの役職名「穢多」に統一されています。「非人」役ですら、「穢多」の名をもって呼ばれ、「穢多」の職務とされているのです。

いわば、支藩の武士身分の階級制度は、本藩の武士身分の階級制度の<縮刷版>であるといえます。

<縮刷版>であればあるほど、武士身分の階級制度の全体像を把握することが容易になります。

今回、徳山藩の「衣類の御制法」を検証することで、近世幕藩体制下の身分と衣類の関係について、特定の身分間の衣類による「差別」ではなく、すべての身分(武士身分だけでなく百姓身分も)視野にいれながら、「衣類」に関する統制令の本質を検証してまいりたいと思います。

今回、依拠する史資料は、徳山藩の『御ケ条物控』の『衣類定』です。

この『衣類定』、全部で14箇条から構成されていますが、最初の13箇条は、徳山藩の「家老出頭を始、家中面々・・・」、つまり、徳山藩の武士身分・・・、の衣類に関する統制令です。

最後の1箇条は、「町人百姓・・・」の衣類についての統制令です。

このことは何を意味しているのでしょうか・・・。

無学歴・無資格、歴史学の門外漢である筆者の推測するところでは、「衣類に関する統制」は、百姓身分・・・、熊沢蕃山のいう「庶人一等」に属する人々より、武士身分において、より徹底されていたと思われます。何を身にまとうかによって、その身分がわかるようにする必要があったのは、武士社会であって、百姓社会ではない・・・、と推察されます。

といいましても、百姓・町人身分の「衣類に関する統制」には、種々雑多な側面があります。百姓が質入した衣類の中に、絹・紬などの禁制品が含まれていたり、盗難にあった衣類の中に、武士身分も持ち合わせていないような高価な着物が含まれていたり、紀州和歌山城下の百姓家で盗まれた衣類が意外と質素で安価なものであったり・・・、近世幕藩体制下の百姓の衣類については、種々雑多な史資料があり、歴史学者の嗜好にあわせて、何なりとも仮説を構築できる可能性があります。

今回、筆者、「衣類に関する統制」について、恣意的解釈を避けるために、徳山藩の武士身分全階級と百姓身分全階級を批判検証の対象にして、近世幕藩体制下の「衣類に関する統制」の全体像を描き出すこころみをしてみたいと思います。

徳山藩の『衣類定』は、このようなことばではじまります。

「家老出頭を始、家中面々大小身共木綿着物可着之事」。

徳山藩のおける身分は、熊沢蕃山がいうところの、「侯一等」の最下層の身分である「附庸」に属する徳山藩主と、「士一等」の最下層である「下士」に属する「家老出頭を始、家中面々」(徳山藩の「穢多」を含む)と、百姓・町人から構成されています。

元禄期においては、徳山藩のすべての武士身分は、「綿着物可着之事」と規定されていますので、家老をはじめとして、その武士支配の末端に至るまで、みんな「木綿着物」を着用しなければならないとしているのですから、衣類の身分的な区別などあり得ない・・・?、ということになります。

『衣類定』の最後の箇条では、武士階級に対して出される「木綿着物可着之事」という表現はありません。あるのは、「町人百姓は大小身共ニ絹之類帯ゑり袖裏等ニも一切停止たるへき事」ということばです。町人百姓が絹の着物や服飾品を身にまとうことは、「停止」すべきである・・・、と、絹を部分的にも使用することを、一時見合わせるように・・・、と布告されているのです。

徳山藩は、百姓町人から、身分制度を崩壊させることにつながる「禁制品」として、没収・破棄させるようなことは一切していない・・・、ということです。倹約令が出されている間は、その着用をやめるように指示されているだけで、百姓町人は、その衣類をそれ以後も所有することが許されているのです。

徳山藩の『衣類定』では、武士身分に対しては、「木綿」の着物をきるように、百姓身分に対しては「絹」を使用した着物を着ないように定めているのです。・・・、これでは、徳山藩の城下と藩領地では、すべての人々が「木綿」の着物をきているということになります。

『衣類定』を文字通り遵守しますと、徳山藩士、困ることが出てきます。たとえば、他藩から、同格の身分の要職を迎えたとき、近世幕藩体制下においては同じ身分なのに、「岡山藩」の藩士と「徳山藩」の藩士とでは、身にまとっているものが異なる・・・、という事態が発生します。「岡山藩」の藩士は絹の着物を身にまとっているのに、「徳山藩」の藩士は木綿の着物を身にまとっているに過ぎない・・・。

「衣服ハ身ノ表ナリ。人ニマジワルニ、先カタチヲ見ル。次ニ言葉ヲキキ、次ニ行ヒヲ見ル。・・・衣服ト言行ト徳行ヲツラヌルニ、衣服ヲ先ニセリ・・・」(貝原益軒著『五常訓』)の世界の中では、まずいことになるので、徳山藩の『衣類定』、「他所江使者使ニ参、又他国ヨリ客并使者有之節は相当ニ衣類取繕可相勤事」と定めています。つまり、他藩の客・使者の階級にあわせて、衣類を整えて接待するようにと・・・。

そのためにには、他藩の武士階級の<衣類定>を知り、それに相応しい応対ができるよう、常日頃から衣類を蓄えておかなければなりません。徳山藩の『衣類定』・・・、そのことまで制約しているのではなさそうです。武士の衣類統制は、「ワガ位ニ応ジ、年ニ応ジ、処ニ応ジ、時ニ応」じて対応してこそ、その真意にそうことになります。

徳山藩だけではありません。他の諸藩においても、その藩の「衣類統制」は、その藩民にのみ強制されるもので、他藩のひとびとには強制されるものではありません。藩を東西南北に横切る天下の街道は、その藩の「衣類統制」の例外区域です。

近世幕藩体制下の徳山藩において、元禄期、その「衣類の御制法」である『衣類定』に記載さている、「家老出頭を始、家中面々大小身共木綿着物可着之事。」という文言は、貝原益軒がいう「身ノ表」についての衣類統制であると思われます。「家老出頭を始、家中面々大小身共木綿着物可着之事。」は、「上着」「身ノ表」を規制するもので、「下着」(=上着に隠れて人目につかない衣類)を規制するものではないのです。

極論しますと、徳山藩の武士身分・百姓身分、藩主以外のすべてのひとは、人目につく部分においては、「木綿着物」を着用しなければならない・・・、ということを布達していたのです。徳山藩の「衣類統制」」は、「上着」については、武士・百姓両身分に関係なく、「木綿着物」を一律強制し、「下着」については、徳山藩の武士階級(「士一等」)33階級に対応して細かい規定がなされています。筆者の見るかぎりでは、実際は、藩主から拝領する「祿高」の階層によって、<差別化>がはかられているようです。

そして、最後に、百姓・町人の衣類統制について記されていますが、百姓・町人・・・、「格に準ずる」とされて、徳山藩の武士階級33階級のそれぞれの衣類統制が適用される場合がありますので、百姓・町人の中にも、絹や紬の着物を着用することを認められた人々が出てきます。

徳山藩の武士階級33階級の衣類統制を検証しながら、「格に準ずる」とされて、絹・紬の着用が許された百姓・町人についても、あわせて言及することにしましょう。

徳山藩『衣類定』をひもときながら、まず、「家老出頭迄」の身分について検証してみることにしましょう。

【家老出頭迄】

無学歴・無資格、歴史学の門外漢である筆者、このことばを前に考え込んでしまいます。「出頭」とは何なのか・・・、「家老」は身分だとしても、「出頭」ということばは何を指しているのか・・・、と。

手元にある徳山藩の史資料から類推するに、「出頭」は、「有事に臨んで・・・士を引率して・・・指揮命令をつかさどる侍大将」のことであるとしますと、これに該当するは、「馬廻」身分を束ねる「家老」と、「中小姓」をたばねる「用人」ということになります。

徳山藩の「家老」5家、「用人」は3家、祿高は、「初期に千石、後四百石ないし六百石」ですが、「家老」といえども税金を課せられるので、実収入は、それに、0.2947をかけたものになります。

「上着」については、「家老」・「用人」いずれも、「木綿着物」の着用が求められています。しかし、「下着」については、すでに所有している「小袖」の着用を許す・・・となっています。このことばから、「家老」・「用人」といえども、絹の「小袖」の新調は禁止されていると推察されます。法解釈としては、「小袖」以外の絹の着物の新調は許可されていたと考えられます。

徳山藩では、「小袖」の新調が認められる場合でも、「銀300目」(金5両)以上の「小袖」を購入することは禁止されていますので、おのずと、「家老」・「用人」が身につけることができる衣類には制限があったわけです(この制限、「小袖」以外の絹の着物にも適用されています)。

「小袖」は、綿入りの絹の衣類で、冬用の衣類ですが、「夏衣類」としては、「きぬちぢみ」のみ許可されています。

「家老」・「用人」の妻女については、「家老」・「用人」に準ずるとされていますので、「上着」は「木綿着物」が原則、しかし、「有合候古小袖」(すでに所有している小袖)については、着用が許可されています。

【馬廻】

「馬廻」は、徳山藩の「一般士分の最高の階級」になるそうです。「約150人」の「馬廻」は、3組にわけられ、非常の時(戦時等)には、組頭である家老の指揮下にはいります。祿高は、「高50石以上250石未満」ですが、120石を超える「馬廻」は、27家あり、これを「物頭通」といいます。衣類統制においては、同じ「馬廻」でも、「物頭通」に所属するかどうかで、違いがあります。

「馬廻」身分の藩士は、「上着」は、木綿着物が強制されますが、「下着」は、「絹紬之類」が許可されます。条件がついていませんので、「小袖」以外の絹の着物(ひとえ・あわせ)の新調は認められていたと解釈されます。

「羽織」については、すでに手持ちの「絹紬の古羽織」の着用が認められています。新調する場合は、<表地>に絹・紬を使用することは禁止されていますが、<裏地>については「有合次第不苦候事」として許可されています。「夏衣類」は、「家老・用人」に許可されていた「きぬちぢみ」の着用は禁止、「一般士分」は「布さらしの類」のみ許可されます。

「馬廻」の妻女については、「馬廻」には着用が禁止されている「古小袖」の着用が許可されています。みにまとっている衣類の種類が、近世幕藩体制下の身分をあらわしているとしましたら、徳山藩の「家老・用人」に許可されて、「一般士分」の「馬廻・中小姓」については禁止されている「古小袖」が、その「妻女」に対しては認められています・・・、ということは、身分は、「馬廻」の妻女>「馬廻」(「馬廻」役の夫より、その妻・娘の方が身分が上・・・)ということになります。

衣類統制上、特定の身分においては、女>男(男より女が上・・・)の関係が成立します。

「馬廻」の妻女の、「古小袖」以外の絹の着物については、120石以上の「物頭通」身分に所属するかどうかで、着用できる絹の着物の種類がさらに制限されています。「馬廻」身分は、50石から250石と、他の階級と比べて、階級内での「祿高」に格差があるための措置であると思われます。「夏の衣類」については、「馬廻」の妻女の「きぬちぢみ、縫はくの帷子」の着用は、禁止されています。

ここまでの論述でとりあげた、徳山藩の武士階級は、全33階級のうちの家老・用人・馬廻の上位3階級のみですが、近世幕藩体制下の身分制度、一般的にいわれる「士農工商」の最下層「商」に至るまでは、このような文章を延々と綴らなければなりません。

そうするだけの、史資料にはことかかない現実がありますが、徳山藩の衣類統制に関する史資料を探索していて、突然と、百姓・町人の衣類統制が割り込んでくる場合があります。

百姓・町人身分にして、「家老・用人・馬廻」身分に準ずる格を与えられて、彼らと同等の衣類を身につける人々が登場してきます。

たとえば、百姓・町人身分で最高の身分は、「用人」準格になります。徳山藩の衣類統制上、百姓・町人身分・・・、熊沢蕃山がいう「庶人一等」に属していながら、「家老」・「用人」の衣類統制が適用されるひとびとです。

後代の歴史学の学者・研究者・教育者によって、「百姓・町人身分も、絹・紬の衣類を所有していた・・・」として指摘される前提・背景がここにあります。

徳山藩の場合、「平野屋」は、「用人格をもって待遇された」そうです。その他、「徳山町人が、御蔵本付・検断・御徒士・御茶道身分準格とされ、その階級の衣類の着用を許可されたようです。

近世幕藩体制下の衣類統制は、例外事項の極めて多いシステムのようです。

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