2021/09/30

「倹約御触書」の非常民に対する統制


「岡山藩」の「倹約御触書」全29条のうち、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」に関する条項、第17条から第29条までを、下の図のように整理しました。

  分類項目   村方役人   医  者   穢  多 
 倹約令会議における会席料理と飲酒の禁止と手弁当の奨励(17条)
会議において出す生菓子は、最も安価な生菓子に限る(18条)
身分不相応な増改築の禁止(19条)
  
 身分上の統制 木綿の無紋渋染藍染を新調をすること。新調するまでは、当分の間いままで御用のために身にまとっていた衣類の着用を許可する(25条)
目明しについては今回は統制なし。但し、絹はくれぐれも着用しないこと(26条)
 身分上の特例

村方役人の日傘・雪駄禁止。但し、その子女の白渋張傘は許可する(20条)
村方役人は雨天の際、栗下駄と竹之柄白張傘は許可する。その子女についても同じ(21条)

白張日傘のみを許可する。その他は、平百姓に準ずるものとし、雨天の際の栗下駄と竹之柄白張傘を禁じる(24条)

雨天のとき、村内でのみ、<くり下駄>の使用を許可する。村方役人及び帰農した武士に対しては礼を欠くことがないように気をつけること(27条)
経済的にゆとりのある「穢多」の子女の下駄と竹之柄白張傘の使用を許可する(28条)

 職務上の統制村方役人は、村方の百姓が町人躰に髪を結うことを禁止(22条)、無職不労のものを摘発・吟味して犯罪を未然に防ぐこと(23条) 司法・警察官としての職務のため、他村に出張するときはこの限りではない。絹類の着用禁止は変わらず(29条)

「別段御触書」といわれる第25条から29条までの記述を、ひとつの「様式」とみなして、その他の、第17条から第24条までの条項を整理し直したものです。

法律の世界では、<特別法は一般法に優先する>と言われます。

近世幕藩体制下の「岡山藩」で出された「倹約御触書」は、<一般法>的部分の第1~16条と、<特別法>的部分の第17~29条から構成されています。通常、<特別法>に規定がない場合は、<一般法>の条項が適用されます。

当時の「岡山藩」の、司法・警察に関与した「非常民」である、「村方役人」と「穢多」は、その職務を遂行する上でも、<特別法>的部分の第17~29だけでなく、<一般法>的部分の第1~16条を熟知しておく必要があります。

「倹約御触書」に対する、<藩民>の違背行為を摘発するためには、摘発の基準となる、<一般法>的部分の第1~16条を完全に把握しておかなければなりません。<藩民>の違背行為の摘発だけでなく、それを摘発する、「村方役人」と「穢多」は、その、<一般法>的部分の第1~16条を完全に遵守する必要があります。

取り締まる側が、「倹約御触書」に違背していたのでは、<藩民>の間に、「倹約御触書」の趣旨を徹底させることはできません。

そのため、「岡山藩」は、司法・警察に関与した「非常民」である「村方役人」と「穢多」に対して、<特別法>的部分の第17~29を追加して、一般の「百姓」身分とは異なる、司法・警察官の職務を踏まえた、<禁止>と<許容>、それぞれの範囲を明確にする必要があったものと思われます。

たとえば、<日傘・雨傘>に関する規定は、第20条、第24条、第27条の3箇所に出てきますが、一般の「百姓」身分の<日傘・雨傘>に関する規定は存在しません。「村方役人」は、庄屋等の百姓身分だから、「平の百姓」も同じ・・・、ということはできません。村方役人等の「御百姓」と「平百姓」を同一視することはできません。

百姓は、手持ちの<日傘・雨傘>を使用することは禁止されて久しく、「岡山藩」が「倹約御触書」を出した当時、それに違背する「平百姓」はほとんどいなかったのでしょう。百姓は、手持ちの<日傘>ではなく、かぶりがさの<日笠>を用いるのが常でしたし、また、雨の日は、手持ちの<雨傘>ではなく、<蓑に笠>を用いるのが常でした。

「岡山藩」の場合、村に在住する「医者」も、「村方役人」・「穢多」同様、「非常」時に動員される「非常民」に数えられていたのでしょう。当時、男が<日傘>をさす風習はありませんでしたが、なぜ、村医者が、<白張日傘>を許可されたのか・・・? 雨の日なら、生薬を油紙に包んでいけば損なわれることがなかったでしょうが、暑い、夏の日差しがカンカンと照りつける中、その日差しが生薬を損なってしまう可能性があったのでしょう。

村医者が、あえて、<白張日傘><白>を指定されたのは、町医者がさす<紺色>の日傘>と区別して、村医者が城下町で町医者の所作をすることを制限するためであったのでしょう。

この場合、町医者の傘の<藍>の色の方が、村医者の笠の<白>の色より、<貴色>ということになります。

少し、脱線しましたが、村医者には、<白張日傘>が認められていれも、村医者の子女には<白張日傘>は、認められていません。

それでは、「岡山藩」の「渋染一揆」の学者・研究者・教育者が、差別思想の「賤民史観」にのっかって、「賤民」とラベリングしてやまない「穢多」についてどうであったのかといいますと、原則、<傘>は禁止です。雨の日、それは、盗賊が横行するときでもありますが、<傘>をさして死角を作ったのでは、犯人を取り逃がす可能性もあります。

近世幕藩体制下の司法・警察官である「非常民」としての「穢多」は、現代の警察官同様、非番のときも、警察官としての職務を遂行することが求められます。非番の時だから、強盗の現行犯を逮捕しなかった・・・、というのでは、あとで、懲戒免職処分を受けることになるでしょう。近世幕藩体制下の司法・警察官である「穢多」は、24時間勤務をしているのと同じです。

しかし、「岡山藩」は、非常民としての「穢多」を大切にしていたのでしょう。「平百姓」がゆるされなかった、雨天の日の
<竹之柄白張傘>の使用が許可されるのです。「別段御触書」の第28条は、<非常民>として藩に仕えている「穢多」の子女に対する<特例>なのです。<特例>というより<特典>といったほうが的確かもしれません。

「岡山藩」の郡部の「村」・・・、<支配階級>である「村方役人」(御百姓)・「医者」・「穢多」は、<被支配階級>の「平百姓」より身分的には上の待遇を保証されていたように思われます。

「村方役人」は、<行政警察>として、また、「穢多」は、<司法警察>として、それぞれの職務に邁進するよう、訓戒がなされています。「村方役人」に対しては、第22条と第23条、「穢多」に対しては、第29条・・・。

戦後、戦争中に使用されていた教科書は、墨で塗りつぶされていきました。それと同様に、戦後の同和教育の中で、その学者・研究者・教育者によって、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「穢多非人」に関する史料と伝承が、差別思想である「賤民史観」で塗りつぶされて行きました。

『部落学序説』の筆者は、墨で塗りつぶされた言葉を読み、「賤民史観」で塗りつぶされた、「岡山藩」の「渋染一揆」の「穢多」の等身大の姿を、残された史資料に則して、描くことが可能なのです。<非常民の学としての部落学>によって・・・。

「別段御触書」の<釈義>、字義的解釈に入る前に、「倹約御触書」の、「常民」に対する統制について一瞥してみましょう。

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