2021/09/30

丑松と志保

丑松と志保


『破戒』の著者・島崎藤村の
「思想を知るもっと確実な手がかり」とは何なのでしょうか。

『文学研究法』の著者・ディキンソンは、「その作者が描く葛藤の性質とその解決の仕方である」といいます。
さらに、ディキンソンによれば、「葛藤の性質」は、「葛藤の種類」「葛藤の過程」を把握することで明らかになっ てきます。

「葛藤の種類」には、「個人対個人」・「個人対団体」・「個人対自然」・「個人対社会的経済的環境」等があげられるといいます。「等」をさらに展開していけば、「個人対国家」というような葛藤もあると思われます。

『破戒』の主人公・丑松の「葛藤の種類」は、具体的にはどのようなものなのでしょうか。

「個人対個人」という葛藤は、丑松と志保、丑松とその父親、丑松と猪子連太郎、丑松と土屋銀之進・・・。「個人対団体」という葛藤は、丑松と学校、丑松と教育界・・・。「個人対自然」という葛藤は、丑松と信州・・・。「個人対社会経済的環境」という葛藤は、丑松と水平社前夜・・・等があげられます。

純文学の場合、この主人公の葛藤は、いろいろな種類の葛藤が複雑にもつれ合って進行する場合がほとんどなので、『破戒』の主人公・丑松の葛藤をあきらかにすることは、それほど簡単なことではありません。

筆者は、ここで、「個人対個人」という葛藤の中から、「丑松と志保」を取り上げてみたいと思います。

ディキンソンは、「葛藤の種類」を決めたあとは、「葛藤の過程」を明らかにしなければならないといいます。

彼は、アリストテレスの言葉を引用しながら、物語には「初めと真中と終り」があるといいます。これを通常、プロットといいますが、プロットは、「提示部」(初め)・「からみ合い」(真中)・「大円団」(終り)から構成されます。

ディキンソンの『文学研究法』で紹介されている手法を使って、「丑松と志保」の間の葛藤を見てみましょう。

『破戒』は、「蓮華寺では下宿を兼ねた。」という言葉で始まります。

「蓮華寺」は、主人公・瀬川丑松の下宿となる寺で、「真宗に属する古刹」のひとつです。蓮華寺の2階の窓から、丑松が教鞭をとる「小学校の白く塗った建物」が見えます。

丑松は、新平民に対する差別から逃れるようにこの蓮華寺に下宿するようになるのですが、その寺に、寺の住職夫婦の養女となった志保がいます。

筆者が中学3年生のとき、視聴覚教育のために、学年全員が映画館に『破戒』を見に行きました。丑松は、市川雷蔵。志保は、藤村志保。藤村志保のデビュー作でした。白黒の映画でしたが、寺の庭の木に隠れるようにして丑松をみつめる志保の姿は印象的でした。『破戒』を読んでいると、映画のいろいろな場面を思い起こします。
丑松は、「霜葉の舞い落ちる光景をながめながら、廊下の古壁によりかかってたっている」志保に語りかけます。志保は、「すこしく顔をあかくしながら」答えます。丑松は、志保の「黒瞳の底」「深い憂い」をみつけます。「新平民」として差別される悲しみや苦しみを知っている丑松のこころは、志保の中にある悲しみや苦しみも見抜くこころをもっていたのでしょう。

「提示部」において、丑松と志保の葛藤は、このような表現で終わります。

丑松は、「追憶のりんご畑」の章で、幼なじみの「お妻」との初恋を思い起こします。二人でりんごとりんごの木の間をあちこちと歩いた、昔の思い出にひたりながら、丑松の脳裏には、「お妻」「お志保」が二重写しになっていきます。

丑松は考えるのです。

「お妻」とのあわい初恋の思い出は、「お妻」が、「自分の素性をしらなかったから」であると。そして、「それが卑しい穢多の子と知って、その朱唇で笑って見せるものがあろう。もしも自分のことが世に知られたら・・・」と考えると、「なつかしさは苦しさに混じって、丑松の心をかき乱す」といいます。

丑松は、「寝る前には必ず枕の上でお志保を思い出すようになった」といいます。丑松は、その都度、丑松が「穢多の子」であることを志保に知られてはならないと思うようになっていたのでしょう。

そんな、丑松と志保の間に、転機が訪れます。

それは、丑松の父親の死でした。丑松に、「新平民であることを明かしてはいけない」と諫めた父親も、人里離れた信州の牧場で、牧夫をしていたのですが、飼っていた牛に襲われ、瀕死の重症を負ってしまい、やがて息をひきとってしまいます。

丑松の父親がなくなったことを知った志保は、丑松からいろいろな話を聞き出します。幼くして母親の死を知ったことを丑松が話すと、志保は涙を流したといいます。志保の母親もこどもの頃になくなったそうで、志保は、「自分の家の零落」を思い出してうなだれます。丑松は、志保に見送られながら、父のいる牧場へと向かいます。
父親のところに帰って来た丑松が最初に耳にしたのは、父親の最後の言葉でした。「丑松に「忘れるな」と伝えてほしい・・・」

しかし、丑松は、自分の出自を隠すことで、「貴様は親を捨てる気か」と何度も自分の中で自問自答するのです。
父親の死をきっかけにして、やがて、丑松が「穢多」の末裔であるとのうわさが小学校の教師の唇にのぼるようになるのです。丑松は、「次第に・・・学校へ出勤するのが苦しくなって」きます。丑松は、「あまりの堪えがたさ」に欠勤するようになってしまいます。小学校では、丑松を狙って、様々な差別語が飛び交います。

丑松は、志保に対しても疑心暗鬼になっていきます。「同じ屋根の下に住むほどの心やすさはありながら、優しい言葉の一つもかけてくれないのであろう。なぜ、そのくちびるは言いたいことも言わないで、固く閉じふさがって、恐怖と苦痛とでふるえているのであろう」。

丑松は、夢の中で、小学校の同僚が、「お志保さん、あなたにいい事を教えてあげる。」といって、丑松の前で、「丑松が隠している恐ろしい秘密をささやいて聞かせるような態度を示」され、あわてふためく自分の姿をみます。

うわさがうわさを呼んで、丑松が「新平民」であるということは、たちまちのうちに丑松が住んでいる世界中にひろがってしまいます。おりしも、丑松が尊敬していた猪子連太郎が暴漢に襲われて死んでしまいます。

藤村は、そのときの丑松をこのように描写します。

「その時になって、初めて丑松も気がついたのである。自分はそれを隠蔽そうとして、持って生まれた自然の性質をすりへらしていたのだ。そのために一時も自分を忘れることができなかったのだ。思えば今までの生涯は虚偽の生涯であった。自分で自分を欺いていた。ああ、何を思い、何を煩う。「我れは穢多なり」と男らしく社会に告白するがいいではないか。こう連太郎の死が丑松に教えたのである。」

丑松は、「今までの自分は死んだ・・・」といいます。そして、丑松は、新しく生きるために、「告白」の道を選択するのです。

丑松は、クラスの生徒を前に、「穢多という階級」について話をします。「穢多」「卑しい階級」であると。近世幕藩体制下の「身分」は、近代社会にあっては「階級」とよばれるのですが、社会によって、相対的に卑しい存在とされている・・・と、告白します。島崎藤村は、丑松に、日本の歴史学の差別思想である「賤民史観」が好んで使う本質概念・実体概念としての「賤民」を使用することはないのです。生徒の前で跪き、「私は穢多です、調吏です、不浄な人間です。」とたたみかけるように語る丑松の心の中にある差別の鉄鎖が、ひとつひとつ壊れていきます。新生への希望が溢れてきます。起死回生というのはこういうことをいうのでしょう。

プロットは、「からみ合い」(真中)から「大円団」(終り)へと移っていきます。

丑松の姿を、丑松の周辺にいる人々はどのように受け止めたのでしょう。

丑松の姿をみて、丑松を批判し、嘲笑し、侮蔑したのは、丑松が生きた世界の「権力者」でした。今日的に言えば、歴史学の差別思想である「賤民史観」を鼓舞する学者・研究者・教育者、そして、「穢多の歴史」を忌避し、穢多であることから逃亡を続ける被差別部落の人々です。

志保は、丑松の告白をどのように受け止めたのでしょうか。

藤村は、「男らしく素性を告白」したと語らしめます。「新平民だってなんだってしっかりしたかたの方が、あんな口先ばかりのかた(志保に丑松が新平民であると耳打ちした教師)よりはよっぽどいいじゃございませんか」。「おとっさんおっかさんの血統がどんなでございましょう。それは瀬川さんの知ったことじゃございますまい。」と言い切ります。志保の瞳は清々しく輝いていきます。

志保は、丑松の伴侶になることを決心するのです。

藤村は、もうひとつの「日本村」(アメリカにある)を目指して旅立ちをする丑松と志保の別れをこのように語ります。

「志保の前に黙礼したは、丑松。清しい、とはいえ涙にぬれたひとみをあげて、丑松の顔を熟視ったは、お志保。たといくちびるにいかなる言葉があっても、その時の互いの情緒を表わすことはできなかったであろう。こうしてこの世に生きながらえるということすら、すでにもう不思議な運命の力としか思われなかった。まして、様々な境涯を通りこして、また会うまでの長い別離を告げるために、互いになつかしい顏と顔を合わせることができようとは。」

プロットの最後、「大円団」・「解決」は、葛藤の結末をしめします(ディキンソン)。

『文学研究法』の著者・ディキンソンは、「作者の思想を知るもっと確実な手がかりは、その作者が描く葛藤の性質とその解決の仕方である」といいます。

丑松の出自の告白に到る、物語の中間部分(「からみ合い」)ではなく、物語の結論部分(解決)こそ、その小説『破戒』の著者の根本思想が明らかになる箇所なのです。

島崎藤村が『破戒』を書いた時代、現在の被差別部落の人々にとって「悪夢」と思われるような明治政府による「棄民政策」が密かに進行していたのです。被差別部落の人々がそれに気がついたときには、すでに遅く、被差別部落の人々(「特殊部落の人々」)は、抜けように抜けることができない、差別の坩堝(るつぼ)の中に身を落とすことになりました。

岩波文庫『破戒』の解説を書いた野間宏も『破戒』の秘密を捉えることに失敗しています。野間は、「藤村はこの『破戒』の主人公に、自分の内面の秘密を託したといわれる」と指摘しながら、野間自身、藤村のその「内面の秘密」を捉えきることができないでいるのです。

『部落学序説』は、その「内面の秘密」を明らかにします。

若宮啓文著『ルポ現代の被差別部落』の中で、「現代の丑松たち」という文章があります。長野県では、「丑松教師」という言葉があるそうです。「いま、被差別部落の出身であることを隠して教壇に立っている多くの教師のこと」を指しているそうです。1970年代中葉、長野県には、被差別部落出身の教師が七、八十人いたそうですが、「このうち出身を明らかにしているのは、ほんの数人にすぎない。あとの大半はひたすら出身を隠し、あるいは「部落」とのつながりを意識的に拒否する、現在の丑松である」といいます。

若宮はいいます。「これは何を意味するのだろうか、丑松の時代からいったい何が変わったというのだろうか」。
若宮は、ある校長の話を伝えています。

結婚して晩年に近づいても、その妻に出自を秘密にしたままの校長の姿を・・・。

彼らの姿は、「丑松教師」の名に値しないと筆者には思われます。

彼らは、学歴も資格もありながら、島崎藤村の『破戒』を誤読し誤解しているのです。「丑松」は、出自を隠し続ける人ではなくて、その葛藤ののち、「穢多」であることを告白し、「穢多」である先祖や父親の生きざま、所与の人生を勇気を持って引き受けて生きていく生き方のことなのです。

ふるさとを捨て、ふるさとから自らを切り離して生きる生き方こそ、部落差別を今日まで温存させてきた本当の理由なのです。

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