2021/09/30

佐藤俊夫と川元祥一と禁忌(続)

佐藤俊夫と川元祥一と禁忌(続)

『部落学序説』とその関連ブログ群の執筆に際して、川元祥一著『部落差別を克服する思想』からしばしば引用してきました。

その理由のひとつに、『部落差別を克服する思想』に対して、川元祥一の「部落学」の研究成果であるとの認識があるのと、そもそも「部落学」ということば自体、川元祥一の創作によるものであるとの認識があるためです。

無学歴・無資格、また「近世幕藩体制下の百姓の末裔」でる筆者は、学歴・資格を持ち、「近世幕藩体制下の穢多の末裔」として、その歴史を解明し、部落差別問題の解決に向けた提言をされている川元祥一氏に対して、そうとうの「敬意」を持ち合わせています。

そのようは川元祥一氏の「胸を借りる」つもりで、「部落学」という土俵の上で論戦をいどんでいるのですが、もちろん、それは公開論争というようなものではなく、無学歴・無資格の筆者の観念的な仮想の論争に過ぎません。

書名の『部落差別を克服する思想』と同じことばが、「この認識こそが部落差別を克服する思想である。」という文章の中に出てくるのは、全243ページ中の第133ページです。

川元は、その著『部落差別を克服する思想』の結論とも受け止めることができる内容を、その書のちょうどまんなかあたりに配置しているということになります。「部落差別を克服する思想」である「この認識」とはどのような認識のことなのでしょうか・・・。

それは、「世界中の感染呪術=触穢意識とその克服」という見出しのことばにもあらわれています。この文章は、わずか7ページに過ぎませんが、その7ページの中に、川元祥一氏の論点が明確に言及されているといえるほど濃縮された内容がつまっています。

川元祥一氏が「部落差別を克服する思想」を明らかにするために援用している科学(学問)は、人類学、しかも、前回とりあげた、アメリカで一般的な学問として成立した文化人類学です。

しかし、川元祥一氏は、文化人類学の「研究方法」についてはほとんど言及されておらず、その「研究成果」の援用にとどまっています。川元祥一氏は、文化人類学の研究成果を援用しつつ、それを最も重要な根拠として「部落差別を克服する思想」を提言しているのです。

彼は、その見出しの中で、「世界中の感染呪術」=「触穢意識」とう等式を定立しています。この等式を正確に表現すれば、「世界中の感染呪術」=「日本の触穢意識」ということになります。

「日本の触穢意識」というのは、日本的な「ケガレに触れると伝染するとする観念」のことです。

彼は、「触穢意識がもつ観念は、それをどのように呼んでいたか定かではない・・・」といいますが、佐藤俊夫著『習俗-倫理の基底-』に出てくる和語の「ヒ」(「非日常的なもの」)と「イミ」(「それに対する態度」)のことなのでしょうが、彼は、「それをどのように呼んでいたか定かではない・・・」と表現して、この「ヒ」・「イミ」について言及することを避けています。

「部落差別を克服する思想」の論点を単純化・明確化するために、問題を複雑にする「ヒ」・「イミ」について言及することを避けたのでしょうか・・・。

彼は、「日本の触穢意識」を「部落差別の原理」であるといいます。部落差別にかかわる諸事象が依存する法則として認識しているといいます。彼は、「部落差別」を存続させ続けている原理としての「触穢意識」は「非合理、不当なものとして克服の対象である」といいます。

川元祥一氏にとっては、「部落差別を克服する」ということは、とりもなおさず「触穢意識を克服する」ということを意味しています。「触穢意識」によって、「人間の存在までケガレの諸事象と同じに見られ、忌避・差別の対象とされた」といいます。

川元祥一氏は、「ケガレに触れると伝染するとする観念」と捨てることによって、差別・被差別の立場をとわず、部落差別からひとびとは解放されると説きます。

川元祥一氏は、ここでも、部落差別の起源は、権力(政治システム・法システム・社会システム)にあるのではなく、民衆の中にある意識(「ケガレに触れると伝染するとする観念」・触穢意識)にあると主張しているのです。1990年代の部落史の見直しの中で主張された政治起源説の否定の傾向に、川元祥一氏も色濃く染まっているのでしょう。

川元祥一氏がそこまで確信するのは、「世界中の感染呪術」=「日本の触穢意識」という前提があるからです。

川元祥一氏は、イギリスの人類学者・フレイザーの説に従って、「未開の信仰」である「世界の感染呪術」は、「進歩的な宗教」である「キリスト教文化」によって駆逐された・・・と主張します。「私は日本の触穢意識を古来から世界中にある感染呪術のひとつと考える」という川元祥一氏は、近代的な思想・宗教によって無化され廃棄された「世界の感染呪術」のたどった経緯と同じ経緯をたどって、「日本の触穢意識」を日本文化の中から取り除くことができるといいます。

「根幹的な解決方法として、非合理的な呪術の克服の道がある・・・」といいます。

川元祥一氏は、「キリスト教文化圏では、このような不合理な信仰としての呪術を、キリスト教という教学をもつ宗教によって克服してきた」といいますが、「キリスト教文化圏」にはない日本においては、「呪術」を全面否定するのではなく、「部落差別の原理としてのケガレへの忌避観と・・・触穢意識を克服する」を目指しながら、その第1歩として、「呪術」を「自然と人間の共存をはたす思想の母体として現代的に再生する」(筆者にとっては?)、具体的には、「忌避・差別の対象とされた」ひとびとがその中ではぐくんできた「さまざまな技術や文化」(地域の危機管理・医学や皮製品細工物などの生活文化・伝統芸能・民俗芸能)を「日本文明・文化の創造者としてあらためて高く評価」することで、「非合理的な呪術の世界を克服する道」をたどることができるといいます。

川元祥一氏は、「そしてこの認識こそが部落差別を克服する思想である。」と断言します。

しかし、川元祥一氏が指摘する「部落差別を克服する思想」という認識は、「呪術」を克服の対象であると認識しつつ、結局はそれを打倒・破棄するのではなく、それと和を結んでなかよくやっていこうという、妥協と矛盾に満ちた提案になっていないのでしょうか・・・。

フレイザーの『金枝篇』の教説から、そこまで断定することができるのでしょうか・・・。

佐藤俊夫は、その著『習俗-倫理の基底-』の中で、フレイザーの理論を、「フレイザーの解釈は・・・あまりにも理詰め・・・あまりにも割り切れすぎ・・・混乱し・・・あまりにも画一的・・・」であると指摘し、このように記しています。

「フレイザーの解釈の根本的な弱点は、彼がタブーを「未開人」のものときめてかかっていることに起因する。しかも彼は未開人を劣れるものとして向こう岸にすえ、自らは優れたる「文明人」の側にたって観察しているのである。さらに、彼は未開人を「未開社会」からまったくもぎはなした「個人」として観察し、しかもその未開人の知的側面のみをもっぱら重視しているのである」。

フレイザーの欠点は大幅に修正されつつあるそうですが、川元祥一氏の「呪術」を克服の対象としつつ、ある面で妥協しつつそれと共存をはかろうとする発想は、「フレイザーの解釈の根本的な弱点」の克服としたなされたものなのでしょうか・・・。

部落差別は、「世界中の感染呪術」=「日本の触穢意識」という等式の中に還元させてしまうことができるのでしょうか・・・。

『部落学序説』の筆者である私は、「日本の触穢意識」は、未開人の「呪術」ではなく、日本の古代・中世・近世・近代・現代に通呈して存在する天皇制の政治システム・法システム・社会システムに内在している「禁忌」ではないかと思います。「禁忌」(タブー)の背後には国家・権力の意志が控えていると思っています。この事実を無視して、部落差別の起源を、「職業」(職業起源説)や「呪術」(宗教起源説)に求めるのは、部落差別を、さらに捉え難い世界へ追いやることにならないでしょうか・・・。

部落差別は、権力(政治と宗教の合体した天皇制)によってつくられたものです。部落差別を政治システム・法システム・社会システムの中に体系的に認識しなおさないと、部落差別を永遠に解消することはできないのではないでしょうか・・・。

それに、川元祥一氏が指摘するように、キリスト教社会は「禁忌」(タブー)を完全に排除も克服もしていなと思われるのですが・・・。キリスト教は、未開社会を、その地方の伝統的な古来の「禁忌」(タブー)から解放(破壊)し、それに代えてキリスト教の「禁忌」(タブー)を強制してきたのではないでしょうか・・・。

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