「岡山藩」における「倹約」の実践例
「岡山藩」の御用学者・熊沢蕃山・・・、他者に対して「倹約」を説くだけではありません。
熊沢蕃山、みずから、その「倹約」を実践するのです。
近世幕藩体制下の身分制社会における「倹約」は、それぞれの「身分」に大きく制約されています。武士身分には武士身分の「倹約」の仕方があり、百姓身分には百姓身分にふさわしい「倹約」の仕方があります。
熊沢蕃山の父は、野尻一利・・・、「代々弓馬の家」でありながら、長い間浪人暮らしをしていたようです。蕃山は、長男ですが、「生活の窮迫」から、300石取の熊沢守久のもとに養子にだされます。しかし、その守久も病死で失った蕃山は、人を得て、寛永11年(1634)、岡山藩主・池田光政の「児小姓役」に推挙されます。
その熊沢蕃山、正保4年(1645)、岡山藩士として、知行300石取りの「側役」に、また、慶安3年(1650)年には、「鉄砲組番頭」、知行3000石の「上士」に抜擢されます。長州藩の支藩である徳山藩の家老は、一番いいときで知行1000石ですから、熊沢蕃山は、近世幕藩体制下の身分としては、かなり上の身分ということになります。
熊沢蕃山、近世幕藩体制下の「岡山藩」の、軍事・警察をつかさどる「非常民」の頂点のひとつに、「岡山藩士」としてかかわるようになったことを意味します。
熊沢蕃山、「岡山藩」の御用学者ですが、その身分は、「岡山藩」の非常民として、「国政」・「軍政」に直接かかわる藩士階級です。
その熊沢蕃山、隠退して、知行3000石の「職録を譲った時の譲状の目録」(『蕃山全集』第2冊)に、岡山藩士としての「軍役の備え」として、このように記したといいます。
鉄砲100梃
弓108張
矢3236本
矢根7782本
のぼり3本
鑓55本
・・・
具足10領
鞍鎧10口
幕2張
馬八疋
船4艘
用金200両
同銀5貫目
其他武具類
・・・
召し抱えていた諸士41人
小者64人
知行3000石の熊沢蕃山の隠退時の総資産です。
後藤陽一著《熊沢蕃山の生涯と思想の形成》によると、一般的な「三千石の知行高相応の軍役」は、次の通りです(『吉備温故秘録』)。
鉄砲6梃
弓4張
鎧5本
諸士3騎
熊沢蕃山、同じ3000石の知行なのに、鉄砲にいたっては通例の16倍、弓は27倍、鎧は11倍、諸士は13倍・・・、「自主的な備え」をしていたといいます。
後藤陽一氏は、「文武二道のつとめこそ士の本領とする蕃山が、軍務を専らとする番頭の重き職分にこたえて、このような軍役・用銀の備えに怠りなかったことは、さすがといわなければならない。」といいます。「岡山藩」の藩士の「家中の経済窮乏のため・・・軍役の軽減」を申し出る藩士の多い中、熊沢蕃山は、「我身に無欲にして、人にほどこす」「倹約」を実践して、自らの説の正しさを証明してみせるのです。
熊沢蕃山の「倹約」をささえていたのは、<農兵思想>です。
近世幕藩体制下の身分制度は、武器を手にして、軍事・警察に関与する非常民(「士一等」)と、武器を手にすることのない常民(「庶人一等」)を区分するものですが、熊沢蕃山、「武士農を別れてよりこのかた、身病気に手足弱く成ぬ」現状を憂いて、「岡山藩」を「武勇格別つよく、真の武国の名に叶ふ」べく、「岡山藩」の「士一等」(「庶人の官にあるのたぐい」を含む)の農兵化をはかり、それを実践するのです。
熊沢蕃山は、その配下の「諸士」・「小者」に対しても、それぞれ耕すべき農地をあたえ、農兵化をはかるのと同じく、その政策を藩全体に及ぼしていったと推定されます。
熊沢蕃山、藩主・池田光政に願い出て、配下の武士を農兵化するのです。
熊沢蕃山、「諸士を率いて八塔寺村に入植し、武士の帰農と、国の境域の防衛にあたらせる」のです。その結果、「自給自足による経済的余裕を得て、これだけ過大な軍役の備えを可能にした・・・」というのです。
「岡山藩」の藩主・池田光政は、熊沢蕃山の、実践に裏打ちされた「学才を治世の基本に活用」した・・・、といいます。「岡山藩」の軍事・警察の頂点である藩主・池田光政は、非常民の農兵化をはかっていったと思われます。軍事にたずさわる非常民だけでなく、司法・警察にたずさわる非常民(同心・目明し・隠亡・穢多)に対しても・・・。
「岡山藩」の「穢多」も、「士一等」に属す身分でありながら、帰農して百姓になった「御百姓」同然の存在として、司法・警察官としての「役務」とその反対給付としての「農地」とその他の家職をあたえられていたと推測されます。
熊沢蕃山にとって、「倹約」とは、近世幕藩体制下の身分と深く結びついていています。熊沢蕃山は、「倹約」に似て、その実、「倹約」にあらざる、「吝嗇」・「器用」・「奢」に対して、痛烈な批判をあびせたものと思われます。
「我身によくふかくして、人にはほどこさず。」・・・、という「吝嗇」。藩士が、自分の立身出世、給録のアップをもとめるが、その職務の備えである「軍役の備え」にこころ用いず、藩主のためにおのが生涯をささげないのは、武士の名に値しない・・・、と考えていたかもしれません。
また、「物をもとめず、たくはへず、あれば人にほどこし、なければなき分に候。」・・・、という「器用」。「軍役の備え」に供すべきものすら浪費し、借財重み破綻に瀕すれば、「軍役の軽減」を申し出るなど、武士としてもってのほか・・・、と考えていたかもしれません。
また、主君からあたえられた職務をまっとうせず、「軍役の備え」のために「たくはへず・・・其用所はみな我身の欲のため、栄耀のため・・・」、それでは、非常民としての名がすたれるではないか・・・、となげく、「岡山藩」の御用学者・熊沢蕃山の嘆くすがたを想像することは決して難しくありません。
「奢て用たらざれば、尤も人にもほどこさず。しかのみならず、家人を苦しめ、百姓をしぼり取、人の物を借てかへさず、商人の物を取て値をやらず。畢竟、穿ゆ(こそどろ)に同じき理をしらで、「奢」は「器用」なる様におもひ、倹約といえば吝嗇と心得候。
為政者としての「倹約」の基本的精神を忘れ、公私を問わず資産を消費し、不足すれば、政治献金や賄賂・汚職に走り、官僚・国会議員としての職務を踏みにじって意に介しない、自らの政策・施策の失敗に対して責任をとることもなく、国民から搾り取れるだけ搾り取ろうと安易な増税に走り、それでもあきたらず国債を発行して国の負債をつみあげる・・・、そんな武士、わが藩には要らない・・・、熊沢蕃山が、そういったかどうかはしりませんが、熊沢蕃山の為政者としての、学者としての「倹約」の精神と実行力・・・、現代の政治家、少しは見習ったらどうでしょう。
「岡山藩」の御用学者・熊沢蕃山の、近世幕藩体制下の「倹約」への理念と実践は、古き時代の遺物ではなく、今日の官僚・政治家、行政マンが見習わなければならない焦眉の課題かもしれません。
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