2021/09/30

長州藩とその支藩の「穢多の類」に対する衣類統制

これまで、数回に渡って、元禄期の、長州藩の支藩・徳山藩の『衣類定』と「徳山藩士卒階級表」に従って、徳山藩の近世幕藩体制下における衣類統制について言及してきました。

これらの史資料は、徳山市立図書館郷土史料室で、誰でも閲覧することができますので、専門家しか知らない特別な史資料ではなく、一般的な史資料であるといえます。

しかし、徳山藩の衣類統制について、いままで、十分に研究されてきたのかといいますと、ほとんど省みられることなく今日に至っているのではないかと思わされます。多くの史資料から、時代が要請するもの・・・、たとえば、部落史に関連していえば、戦後の同和教育の中で主流となっていった「賤民史観」に合致するものだけが恣意的にとりあげられ、それに反する史資料は、例外事項として不問に付されてきました。

この状況は、徳山藩についてだけでなく、全国の諸藩についても妥当するのではないかと思われます。

戦後の同和教育の中では、「士農工商穢多非人」という身分的枠組みが強調されてきましたが、徳山藩の『衣類定』の法規範の分析を通じても明らかになってきましたように、「士」の下に「農工商」、「農工商」の下に「穢多非人」・・・、というふうにはなっていません。こと、衣類統制に関連していえば、「士」の中にも絹・紬を身にまとうことができる階級もあれば、それを禁止されて、木綿・麻の着物のみを強制される階級もあります。「百姓」(農・工・商)についても同じです。

さらに、同和教育の中で、一般説・通説・俗説として採用されてきた、「士農工商穢多非人」という封建的身分制の枠組みの最下層に位置づけられる「穢多非人」に対しても、同様のことがいえます。

幕府の指導の中で、近世幕藩体制下の司法・警察である非常民として一翼をになった、全国津々浦々に配置されたノンキャリアの司法・警察官は、総称として「穢多」という言葉で呼ばれるようになります。長州藩の記録では、「穢多の類」という概念が用いらるようになります。

その「穢多の類」に対する衣類統制に関する、長州藩とその支藩の関連資料を、徳山市立図書館郷土史料室の蔵書・資料で探索していますと、やがて、「穢多の類」に関する衣類統制の実態が明らかになってきます。

元山口県立図書館の研究員・木下明紀さんの話では、近世幕藩体制下の「穢多の類」に関する史資料については、今日の時代的状況の中で、公開されていない史資料も多いとか・・・。「穢多の類」の衣類統制についても同じことがいえるのではないかと思われます。

『毛利家乗』の「定」の中に、「穢多の類」のひとつの身分に対して、このような衣類統制が定められています。

「時節に応じ、袷、綿入、羽織、裏付、上下共に木綿・・・染様は好み次第、えり、袖べり3尺、手拭絹の類、無用の事」。

この衣類統制の内容については、徳山藩の武士身分でいえば、「足軽・中間以下」の身分の衣類統制の内容とほぼ同じです。そして、百姓身分でいえば、圧倒的多数の普通の「百姓」の衣類統制の内容とほぼ同じです。

徳山藩の『衣類定』が出された元禄期の、徳山藩における階級別の人口比は、徳山藩の『藩史』の記載事項から類推するに、次のようにいえます。

「武士身分」33階級は、「家老」から「小膳部」までの15階級、徳山藩ではこの階級を「侍」階級として統計をとっていますが、その数は、約340人・・・。その下の「検断」から「道具の者」までの17階級に属する人々の数は、約450人・・・。「中間・足軽以下」の階級の最後に位置づけられる「荒仕子」の数は、約110人・・・。その「惣人員」、約920人・・・。

「百姓身分」はといえば、「町方」、7500人、「在方」、15700人です。

そして、徳山藩の司法・警察の職務をになっていた「穢多非人」はといいますと、約300人・・・。この300人の中には、「百姓身分」同様、「名字家名持候・・・」人々もいましたので、徳山藩全体を視野にいれて、衣類統制の内容を考えますと、絹・紬の着物・帯・襟・袖・裏を身にまとうことが許されていた身分階級は、「士・農工商・穢多非人」のそれぞれに存在していたということになります。

また、逆に、木綿着物着用を強制された人々は、「穢多非人」だけでなく、「士・農工商・穢多非人」のすべてに渡って存在します。

近世幕藩体制下の司法・警察であった「穢多の類」は、犯罪者および不審人物の探索・捕亡を主な職務としていますが、時として、その職務遂行のため、<隠密>をすることもあります。そのとき、職務遂行上、身にまとうことが許されている衣類の中には、絹・紬の着物も含まれています。

「加賀絹、丹後絹、郡内絹、日野絹、紬等、苦しからず・・・」。

「穢多の類」が、このような絹の着物を身にまとっても、藩の衣類統制上、何の問題もない・・・、というこを意味しています。ただし、「縫金糸、鹿子無用」として、使用できる絹の制限はありますが、その言葉のあとに、「少々似せ薄は苦しからず・・・」とあります。本物はだめだけれども贋作ならお構いなし、ということでしょうか・・・?

ともかく、「穢多の類」の中にも、絹・紬を身にまとうことが許された人々がいたということは無視できません。

「岡山藩」の「渋染一揆」の学者・研究者・教育者の方々が指摘するような、「衣類統制は、身分統制である」という説・・・、武士身分・百姓身分・穢多身分のそれぞれの階級と衣類統制について詳細に検証していきますと、きわめて、歴史の事実をありのまま伝えているのかどうか、あやしくなってきます。

絹の着物・帯・襟・袖・裏を身にまとった「穢多」は、木綿の衣類の着用を強制された、「足軽・中間以下」の身分・・・、普通の「百姓身分」・・・、とどのような関係があるのでしょうか・・・。「岡山藩」の「渋染一揆」の学者・研究者・教育者の方々は、長州藩とその支藩の穢多は、普通の武士・百姓が身にまとうことが許されなかった絹の着物・帯・襟・袖・裏を身に付けることを許され、そのことで区別され差別の対象にされていた・・・、と極論することになるのでしょうか・・・?

長州藩とその支藩の『毛利家乗』の「定」の記録を、現代の部落研究・部落問題研究・部落史研究の学者・研究者・教育者がどのように<処理>していったのか・・・、上杉聰著『これでわかった!大学講座』(解放出版社)をみればよくわかります。

そこには、現代の部落研究・部落問題研究・部落史研究の学者・研究者・教育者の歴史学的な<判断>のあり方が如実にしめされているからです。

この、『これでわかった!大学講座』には「私のダイガク講座」という副題がつけられていますが、この「ダイガク」というのは、上杉聰氏が講師をされている関西大学のことです。この本は、その講義のテキストとして執筆編纂されたもので、大学という高等教育の現場で、どのような教育がなされてきたのか、その典型的な実践事例なのです。

上杉聰氏、「日常生活を規制する差別法の形成」の項でこのように記しています。

「差別が制度となっていく過程・・・、それは、やがて衣服や立ち居振る舞いなど、日常的な生活レベルでの法制化へと進みます。・・・そうした差別法を最初に確認できるのは、・・・1683年の長府藩(現在山口)が出したもので、部落の人々は木綿と麻布以上の衣服を着てはならないというものでした」。

これは、天和3年(1683)の「穢多衣類応時節綿入うへ下タともにもめん、此外帷子ハ麻布可着之、其外一切停止之事」という「定」に由来するものですが、関西大学講師の上杉聰氏、この衣類統制に関する法令、「部落の人々は木綿と麻布以上の衣服を着てはならないというもの・・・」だと断定して、「差別法」、しかも、今日確認できる、近世幕藩体制下における最初の差別法であると断定するのです。

長州藩とその支藩は、全体として一体化されていましたので、長府藩は、長州藩本藩と異なる制度を採用することはほとんどありませんでした。瀬戸内海側の山陽道に位置する徳山藩にしても、飛び地として日本海側に領地を持っていますので、司法・警察制度もほぼ同等のものです。

上記二つの史資料は、山口県で同和教育を担当した教師に配布された、部落史関連史資料集の中に含まれていますので、すくなくとも、同和教育の担当者であれば、簡単に目にすることができた資料です。

上杉聰氏、武士身分や百姓身分が、木綿の着物を強制されても差別ではないが、「被差別部落民」の前身である「穢多」身分に、木綿の着物着用が強制されたのは、差別である・・・、と、主張しているように見えます。そして、最初から、差別された存在であるので、「穢多の類」の中で、絹の着物・帯・襟・袖・裏の着用を許可されていたものがあったとしても、それは、差別されていないという証拠にはならない、むしろ差別を裏付ける資料になる・・・、とでもいうのでしょうか・・・?

筆者も妻も、長州藩とその支藩とは、縁もゆかりもない存在です。26年まえ、この異郷の地に、日本基督教団の牧師として赴任してきたにすぎませんが、上杉氏が指摘する、近世幕藩体制下の山口の地で、「穢多の類」に対して、木綿着物着用の最初の「差別法」が形成された、という主張・・・、今日の部落史研究の学者・研究者・教育者にみられる、差別思想である「賤民史観」に依拠した独断・偏見でしかないと考えます。

筆者、強く疑問に思います。「徳山藩」の武士階級の60%に対する衣類統制、百姓階級の大半に対する衣類統制、それと同等の「木綿着物着用」がなぜ、今日の「被差別部落」の先祖である「穢多」に対する「差別法」になるのか・・・?

『部落学序説』の無学歴・無資格、歴史学の門外漢である筆者、上杉聰氏の見解は、歴史学者のなにもとる「むちゃくちゃな解釈」であると思います。歴史上の事実を無視して展開されてきた、差別思想である「賤民史観」による部落史の洗い直し・・・、それは、部落史の、部落差別完全解消をめざしての見直しではなく、部落差別の拡大再生産の悪しき<差別行為>です。

関西大学講師・上杉聰氏・・・、「岡山藩」の「渋染一揆」についても、このように記しています。

「藍色は、浅黄色とともに各藩で「穢多」の衣類に多く使われた青色系統の色ですが、渋染めも、「非人」や囚人の衣服として差別的に使われてきた経緯があります。この岡山藩のよる差別政策も、やはりゆるんできた差別を維持しようとするものでした。・・・この渋染め一揆は、江戸中期に幕府が前面に立って進めた、差別制度を維持しようとする動きが、ついに多数の部落民衆の手によって阻止せられはじめたことを意味しています・・・」。

そして、「岡山藩」の「渋染一揆」を「差別に対する抵抗運動の最大のもの」として評価します。

上杉聰氏、かたや、長州藩の支藩の衣類統制については、過度にマイナス評価を下し、それに何等抵抗することがなかった長州藩の支藩の「穢多」身分を暗に批判し、かたや、「岡山藩」の衣類統制に関する「岡山藩」の「穢多」の異議申し立てについては、「差別に対する抵抗運動の最大のもの」として過度にプラスの評価を下します。

上杉聰氏、部落史の歴史<研究>に重点を置いたというより、当時の部落解放<運動>に偏向して、そのような結論を下したのではないかと思われます。

『部落学序説』の筆者の目からみますと、戦後の部落史研究における衣類統制の研究が作り出したもの、歴史の事実から遠く隔たった、歴史学的に捏造された<虚像>以外の何ものでもないと思われます。

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