2021/09/30

合羽に使われた渋染め

合羽に使われた渋染め・・・

喜田川守貞著『近世風俗志』(岩波文庫)の中で、喜田川守貞は、その時代、入手できる様々な史資料を駆使して、「渋染」について言及しています。

今回は、喜田川守貞が、「渋染」をどのように定義しているのか、その足跡をたどってみたいと思います。

喜田川守貞が、「渋染」として表現しているのは、「柿渋染」のことです。

「柿渋染」は、「柿渋」を用いた染色法のことです。染料源となる「柿渋」は、「渋」のひとつですが、『近世風俗志』に出てくる、「柿渋」以外の「渋」は、梅の「渋」のみです。

梅の「渋」は、「梅や渋」とよばれていたそうですが、「梅や渋」は、喜田川守貞の説明では、木綿を染めるための染料ではなく、絹をそめる染料として用いられたそうです。「梅や渋」で染められた絹の着物の色は、「赤に黄を兼ねたる色」だそうです。

喜田川守貞は、「・・・云々とある書に云へり。今もこれあるか・・・」と言っていますが、喜田川守貞の『近世風俗志』を読めばすぐ分かることですが、喜田川守貞が『近世風俗志』の衣類に関して文章を書くときに参考にした史資料は、膨大なものがあります。

無学歴・無資格の筆者が、喜田川守貞の衣類に関する種々なる史資料を追跡・確認、衣類の種類と色を自分の目で確認することはほとんど不可能なことです。学歴・資格を持っておられる、「渋染一揆」の学者・研究者・教育者の方には、それができるのかもしれませんが・・・。

喜田川守貞によると、梅の渋で染めらた、加賀の染色は、「加賀梅染」というそうです。喜田川守貞が知っている加賀の染物は、「黒染絹」のことであるといいます。文献上、確認できる、「赤に黄を兼ねたる色」は、今もあるのかどうか・・・、と注を付しているのです。

加賀の梅の渋で染められた絹・・・、それは、「赤」と「黄」を混ぜた「柿色」の可能性があります。松尾芭蕉が身につけていた「薄柿」と同じ系統の色だったのかもしれません。

『近世風俗志』には、例外的に、梅の渋が染料として出てきますが、喜田川守貞が使用する「渋染」は、「柿渋染」のことです。「渋染」は「柿渋染」の省略形です。

喜田川守貞によると、この「渋染」は、さらに略されて、「かきそ」といわれるそうです。「かきそ」というのは、「柿渋染」(かきしぶぞめ)の省略形なのでしょう。喜田川守貞著『近世風俗志』には、「柿衣」という言葉は出てきませんから、「かきそ」を「柿衣」と呼ぶならわしは、喜田川守貞が『近世風俗志』を執筆したころには、『広辞苑』に出てくる「かきそ【柿衣】」という表現は一般的ではなかったのでしょう。

喜田川守貞は、江戸時代の「合羽」(かつぱ)に用いられる木綿の色について言及しているところでこのように綴ります。「木綿には、黒・紺・縹・浅葱・御納戸茶・鉄納戸茶・革色等を専らとし、あるいは渋染のかきそと云うもあり」。

「渋染のかきそ」は、「黒・紺・縹・浅葱・御納戸茶・鉄納戸茶・革色等」と同じ「色」を指している思われます。「柿渋染」の省略形「かきそ」が、ふたたび源の言葉「渋染」と結合された言葉です。筆者の推測にすぎませんが・・・。

喜田川守貞によりますと、雨の日に衣類としての合羽の色は、「黒・紺・縹・浅葱・御納戸茶・鉄納戸茶・革色等」が一般的に用いられたようですが、「渋染のかきそ」は、特別な用途に用いられているようです。

喜田川守貞は、衣類の研究をするときに、「江戸」と「京阪」を比較します。比較検証することで、「江戸」と「京阪」の衣類の特徴を明らかにします。

『近世風俗志』に占める衣類に関する記事が大部であることを考えますと、「江戸」と「京阪」の衣類に関する風俗・習俗・慣習、しきたり・ならわしは、かなり違いがあるのでしょう。

「渋染かきそ」という言葉が使われている「合羽」(かつぱ)については、「江戸」と「京阪」の違いは、極端な差があります。

喜田川守貞によりますと、当初、「武士・医者・僧侶および豪富の市民等は専ら美服を着し、常にも綿服を用ひざる故に、雨中には長合羽を着」ていたそうです。「中民」(当時の中産階級)以下は、「長合羽」を身にまとうことは禁止されていたようです。

しかし、喜田川守貞が『近世風俗志』を執筆していた当時、雨の日の「合羽」(かつぱ)は、一般的に普及し、「今世、江戸の士・民は綿服の者も市中徘徊にも雨中には必ず半身の合羽を着す」といいます。

喜田川守貞は、江戸は広くて、市内といっても道は遠いといいます。風雨の中を歩かなければならないので、武士・町人・百姓を問わず、「衆人これを用ふ」というのです。「もしこれを用ひざれば見やすからず・・・」といいます。

仕事ででかけた商人が得意先にたどりついてみると、雨と風で、衣服はびしょびしょ、髪はみだれて、見ておれない状態になっていますが、木綿製であっても、「黒・紺・縹・浅葱・御納戸茶・鉄納戸茶・革色等を専らとし、あるいは渋染のかきそ」で染め上げられた「合羽」(かつぱ)を身にまとっていると、そのわざわいを免れる・・・、というのです。

喜田川守貞は、「江戸稚女」ですら「茶」色の「半合羽」を着ているというのです。

しかし、喜田川守貞は、「江戸」と比べて、「京阪の市民は雨中といへども市中合羽を着すこと稀なり。」といいます。よほどの「豪富」でもないかぎり、「合羽」を身にまとうことはないというのです。

喜田川守貞は、「江戸」と違って、「京阪」ではなぜ「合羽」を用いる風俗・習俗・慣習がないのか、このように分析します。「風少なきが故なり」。

それでは、雨の中、「京阪」の「士・民」は、何を身にまとっていたのかといいますと、「紙合羽」です。美濃紙に、柿渋を塗った、つまり、防水加工した紙製の合羽を使用していたのです。

「京阪」だけでなく、西日本の諸藩においても、「木綿合羽」ではなく、「紙合羽」が用いられていたのです。「江戸」においては、柿渋染めの「木綿合羽」が、「京阪」と西日本の諸藩においては、柿渋で加工された「紙合羽」がもちいられていたのです。

幕末期、スイスの「特派調査団」として日本にやってきた、エメェ・アンベールは、『絵で見る幕末日本』の中で、日本人の衣類にふれて、「雨の日には、藁の外套かまたは油紙をまとい、ジャワで作っているような竹の皮で作った帽子をかぶっている・・・」。

喜田川守貞が、「京阪」の、雨の日の装いについて言及しているところを、幕末に日本にやってきた外国人の目から見るとそのように写るのでしょう。いうまでもなく、「藁の外套」とは「蓑」のことであり、「油紙」とは「紙合羽」のことであり、「竹の皮で作った帽子」とは「笠」のことです。

「江戸」においては、<木綿合羽に傘>・・・が一般的ですが、「京阪」と西日本諸藩においては、<蓑に笠>・<紙合羽に笠>が一般的であったようです。

「渋染一揆」が発生した岡山藩においても、雨の日の「士・民」の装いは、「蓑に笠」、あるいは、「紙合羽に笠」であったのでしょうか・・・。

そこに、突然、「江戸」の風俗・習俗・慣習である「木綿合羽に笠」が入ってきたとしたら・・・? 「倹約令」といわれながら、岡山の「穢多」にとっては、あらたに出費がかさむ「贅沢」と受け止められた可能性があります。そうでなくても、年貢を差し出すのに四苦八苦しているのに、このうえ、いくら御用のためだからといって、「渋染」(木綿合羽を含む・・・)をあたらしく整えなければならないのか・・・。

無学歴・無資格の『部落学序説』の筆者の「妄想」かもしれませんが・・・。

「渋染一揆」の本質・・・、「権力史観」ではなく「民衆史観」にたって追究しないと、いつまでたってもその本質を把握することはできないのではないかと思われます。

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