2021/09/30

「部落学」から見た島崎藤村

「部落学」から見た島崎藤村


『文学研究法』の著者・ディキンソンは、「われわれが小説を読むときは、われわれと作者との間に暗黙の約束ができ る」といいます。

約束というのは、「作者が語ることを想像上の真実として喜んでうけとりますという」読者側からの約束です。

その約束に対して、作者の方も読者に対して「約束の条件」を守るといいます。ディキンソンは、「約束の条件」を次のように述べます。

「その条件とは(1)物語の語り手として彼は物語の内容と如何なる関係にあるかを明確にする。(2)人物の中でどの人物の心の中に立ち入り、われわれに示してくれるかを明確にする。」

島崎藤村は、その作品である『破戒』の読者に対して、「物語の語り手として」、島崎藤村自身が「物語の内容」(穢多の末裔である丑松の生涯)と「如何なる関係にあるかを明確にする」必要があります。

藤村がそれをどのように表現しているかは、藤村が『破戒』を執筆するときの「視点」(viewofpoint)を見ればわかります。物語の視点とは、「語り手がその物語の架空の世界とどんな関係にあるか、また、その中の人物の心の中とどんな関係にあるか、ということ」(ディキンソン)です。

『破戒』の場合、藤村の「視点」、藤村が旧穢多の末裔である丑松とその世界にどのようにかかわっているかは、言葉の背後に隠されていると思われるのですが、明確な言葉で表現されていない以上、私たちは、藤村の言葉の背後に隠された「視点」を明らかにしなければなりません。

藤村と丑松の関係・・・。

日本の歴史学の差別思想である「賤民史観」を空気のように前提として生きている部落史の研究者や教育者、そして、被差別部落の人々自身も、藤村と丑松の関係を、「差別と被差別」の関係でとらえてきました。藤村の視点は、丑松にむけられた「差別的な視点」であると断定してきました。野間宏は、『破戒』の著者・島崎藤村は、「多くの部落民の人たちを傷つけ、苦しめてきた・・・」といいます。そして、『破戒』という作品は、「厳しい批判を受ける必要がある・・・」といいます。

野間は、藤村によって描かれた丑松像は、藤村のつくり出した観念的な産物以外の何ものでもないと断定します。藤村の描く丑松像には、「部落民としての肉体」・「心理」を認識することができないといいます。藤村の描く『破戒』の丑松は、「藤村が自分の内面を託するために作り上げたられた人物にすぎない」といいます。ここで野間いう藤村の「内面」とは、「藤村の心のなか」にある「部落民を差別する」、藤村の差別性のことなのでしょうか・・・。

野間宏の解説は、用意周到に計画されて執筆された、文豪・島崎藤村の小説『破戒』を、「差別と被差別」という表層的な関係に引きずり下ろし、一片の差別文書に還元してしまう悪しきエネルギーに満ちています。

野間宏も、日本史学の差別思想である「賤民史観」に拘束されていることに気づいていません。野間は、「部落民」は、「人間ならぬ人間とされた」存在であるといいます。野間は、「部落民」は「天皇制によってつくりだされたもの」であると断言します。

野間は、丑松と志保のなかに、共通の悲哀を見いだします。

「天皇制が日本に確立」されていく過程の中での、「明治維新の犠牲者」の側面です。丑松と志保の二人を貫くのは、「同じ時代の犠牲者としての親近感」であるといいます。志保は「下級の士族」の末裔であったが故に、「穢多」の末裔である丑松に同情を持つにいたったとでもいいたいのでしょうか・・・。

島崎藤村は、『破戒』の中で、丑松に対して、一度たりとも、「部落民」という呼称は使用していません。丑松が穢多の末裔であることを「告白」する場面にあっても、藤村は、丑松に、「卑しい階級」とだけ表現させているのです。貴賤・尊卑という概念は、近世幕藩体制下にあっては、実体概念・本質概念ではなく、相対概念・関係概念なのです。身分上の序列だけを「告白」したのであって、野間がいうように、藤村は丑松に「人間ならぬ人間」として、「部落民」であることを「告白」させたりはしなかっのです。

野間宏の島崎藤村批判は、「賤民史観」に依拠する野間の一方的・独断的な藤村批判でしかないのです。

灘本昌久は、丑松の「告白」を、「堂々たる部落民宣言」と表現していますが、島崎藤村は、丑松を「穢多」の末裔として告白させていますが、決して、「特殊部落民」として告白させてはいないのです。

当時、行政の指導で一般的に使用されつつあった「特殊部落民」の背後にあるのは、いわゆる「人種起源論」でした。

明治政府は、日本の民衆を3種に分けて把握しようとしていました。「天子・諸侯」を除いて、つまり、天皇とその皇族、近世幕藩体制下の藩主を除いて、「士以下ヲ分テ三種族」に分類しました。「第一の種族」「士」「第二の種族」「農工商」「第三の種族」「穢多・非人」

明治政府の民衆支配は、「士」・「農工商」・「穢多・非人」として貫徹されるようになります。そして、明治政府は、「穢多・非人」に対して、「人民中ノ最賤族ニシテ殆ント禽獣ニ近キ者ナリ」とします。「死牛馬ノ皮ヲ剥キ・・・」をもって「穢多」と呼ばれたと近世幕藩体制下には見られなかった差別的な賤視を向けていきます。

藤村は、丑松の父親をして、丑松にこのように語らせます。

「・・・朝鮮人、シナ人、ロシア人、または名も知らない島々から漂着したり帰化したりした異邦人の末とは違い、その血統は昔の武士の落人から伝わったもの、貧苦こそすれ、罪悪のためにけがれたような家族ではない。」

しかし、近代日本の社会にあっては、日毎に、「穢多・非人」に対する蔑視の念が強まり差別的な状況がつくりだされていくことを畏れた丑松の父は、丑松に、出自の沈黙を説くのです。

藤村は、穢多の末裔を、「第三の種族」、別名「特殊部落民」とは決して呼ばないのです。

「穢多」の末裔が、「第三の種族」・「特殊部落民」に組み直され、近代日本の身分制度の最下層に貶められていく状況に、島崎藤村は、穢多の末裔・丑松の言葉と振る舞いをかりて、烈しく抗議していったのです。

野間は、丑松と志保の間に、「同じ時代の犠牲者としての親近感」を見いだしました。

しかし、野間は、その「親近感」を、『破戒』の著者・島崎藤村自身も共有していることを認識することができませんでした。藤村と「丑松と志保」との関係を、表層的な「差別・被差別」の関係でしかとらえなかったためです。

「丑松と志保」そして藤村の間で共有されている「同じ時代の犠牲者としての親近感」・・・、非常民の学としての「部落学」は、その「親近感」に、内実を提供してくれます。

『破戒』の著者・藤村と、その主人公「丑松と志保」が共有しているキーワード、それは、「零落」という言葉です。

「零落」とは何か、藤村は、志保の父・敬之進をしてこのように語らしめています。「わが輩の家というのはね、もと飯山の藩士で、少年の時分から君侯の御側に勤めて、それから江戸表へ・・・。ちょうど御維新になるまで。考えて見れば時勢は遷り変わったものさねえ。変遷、変遷・・・。見たまえ、千曲川の岸にある城跡を。あのなごりの石垣が君らの目にはどう見えるね。こう蔦や苺などのまといついたところを見ると、わが輩はもう言うに言われないような心持ちになる。どこの城跡へ行っても、たいていは桑畑。士族という士族はみんな零落してしまった。今日まで踏みこたえて、どうにかこうにかやって来たものは、と言えば、役場に出るとか、学校へ勤めるとか、それくらいのものさ。まあ、士族ほど役に立たないものはない。実はわが輩もその一人だがね。はゝゝゝゝ。」

「零落」とは、「身分や生活状態が下がって、みじめになる」(広辞苑)ことです。

下級武士であった志保の父と同じく、丑松も同じ経験を余儀なくされていました。

藤村は、「親を捨てた穢多の子は、堕落ではなくて、零落である」といいます。「親を捨てる」というのは、「親の歴史を捨てる」・「親が穢多であることを隠す」ことを意味しています。藤村は、それは、身分を下げることになるというのです。島崎藤村の言葉には、かなり意味深長なものがあります。

藤村は、丑松が、その父親が穢多であることを隠すということは、近世幕藩体制下の司法・警察官として仕えてきた父親をはじめとする先祖の歴史を放棄することに同意することになるというのです。丑松が出自を隠すということは、「非常民」であることを捨て平民に帰属することにほかならない、つまり身分を下げることにほかならないというのです。

穢多が穢多の歴史を引き受けて生きる。それは、零落に抗した生き方につながっていきます。

明治政府や権力によって、「第三の種族」としての「穢多・非人」として生きることを強制されているあり様に異議を申し立て、歴史の流れの中に、歴史の真実を訴えて立ち続けることを意味します。

ここに、『破戒』の著者・島崎藤村が、『破戒』の主人公・丑松に期待している姿があるように思われます。

藤村は、『破戒』の序曲から、丑松が、穢多である先祖の歴史を捨てるのではなく、その歴史を引き受けて、所与の人生を生き抜いていく姿で描写すると宣言しているのです。丑松にむけられる藤村の「視点」は、ここにあると思われるのです。

丑松も、志保も、そして『破戒』の作者である藤村も、近世幕藩体制下にあっては、その司法・警察であった「非常・民」に数えられた人々です。「非常」の際には、藩から与えられた十手をかざしてその御用にあたらなければなりませんでした。「非常」のときは、下級武士も、穢多も、庄屋等の村役人も、一緒に、協働しなければなりませんでした。庄屋の末裔である藤村と、下級武士の末裔である志保、穢多の末裔である丑松は、彼らが「非常の民」であるということにおいて否定し難い共通の歴史を共有しているのです。

島崎藤村と「丑松・志保」との関係は、差別・被差別の関係ではなく、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」であることの共有関係なのです。いままで、島崎藤村の『破戒』の差別性を強調するあまり、島崎藤村と「丑松・志保」の間にある深い「共感」が見失われてきました。

水平社運動時の不幸な糾弾によって、島崎藤村の『破戒』は、作者の真意が覆い隠され、単なる差別文章に引き下ろされてしまいました。「穢多」の歴史が失われ、「穢多」が「特殊部落民」というおぞましい世界に突き落とされていく姿を、藤村は、同じ「非常民」として黙ってみていることができなかったのだと思います。

島崎藤村は、『破戒』を書くときに、既に、もうひとりの「非常民」について書く準備をはじめていたと思われます。それは、『破戒』の丑松の生きざまよりも、重厚な苦悩と悲しみに満ちた生きざま・・・、藤村の父親・島崎正樹をモデルとした、丑松と同じ「非常民」である、庄屋であり村役人である青山半蔵の生きざまです。郷里の座敷牢で狂死した藤村の父・島崎正樹をモデルとした青山半蔵の物語は『夜明け前』に結実します。

島崎藤村は、『破戒』に押しつけられた様々な誤解や中傷にもかかわらず、『破戒』を書いたときの「視点」を持ち続け、晩年に、大作『夜明け前』を完成させるのです。

0 件のコメント:

コメントを投稿

『部落学序説』関連ブログ群を再掲・・・

Nothing is unclean in itself, but it is unclean for anyone who thinks it unclean.(NSRV)  それ自身穢れているものは何もない。穢れていると思っている人にとってだけ穢れている(英訳聖書)。 200...