2021/09/30

はじめに

はじめに

『部落学序説』を書きはじめて4ヶ月経過したころ、部落解放同盟新南陽支部から、『部落学序説』のひとつの文書・「被差別部落と姓」について差別文書であるとの指摘がありました。

しかし、その論点は、『部落学序説』の筆者としては、部落解放運動のこれまでの「常識」を覆すものであり、どう理解していいのか、ためらいの思いをもちましたが、部落解放同盟新南陽支部の担当者の方は、口頭で、「『部落学序説』は、第3章までの近世篇で終わっておくべきであった。それを勝手に近代篇まで続けて書きはじめたので止むを得ず批判して執筆を中断させることになった・・・」と言っておられましたが、当初、その抗議に対して、『部落学序説』第4章を破棄することにしました。

しかし、『部落学序説』の筆者としては、納得することができず、部落解放同盟新南陽支部の文書・口頭での申し入れについて検証を重ねました。その結果、被差別部落の地名・人名に関する取り扱いについては、部落解放運動・同和行政の中で実施されてきた地名・人名に関する取り扱い方を踏襲するのが妥当と判断しました。それで、『部落学序説』第4章以下の執筆を再開したのです。

その際、第4章の記述を、「権力」の側からではなく「民衆」の側からの視点・視角・視座に徹することにしましたので、部落解放同盟新南陽支部から批判のあった既述の第4章は、『部落学序説』(別稿)として再掲することにしました。

そして、1年が経過しましたが、部落解放同盟新南陽支部は、その後、『部落学序説』の筆者に対する批判・抗議を継続することはありませんでした。『部落学序説』の論述は、「きれいごとに過ぎる」・・・、という批判に対しては、筆者が書くテーマを予告して、「きれいごとでない・・・」論述とはどういう論述なのか、部落解放同盟新南陽支部から「参考」を求めたのですが、一切、応答はありませんでした。

そのテーマは、『部落学序説』(付論)の「汚れについて」というテーマです。
 1.汚れという言葉の意味
 2.穢多と汚れ
 3.身分と糞尿

その論述に関心を示されたのは、部落解放同盟新南陽支部ではなく、ブログ『蛙独言』の著者・田所蛙治氏をはじめとする京阪神の部落解放同盟の方々でした。

この1年、『部落学序説』の筆者に対する、部落解放同盟新南陽支部からの接触はほとんどありませんでした(当方からコンタクトをとったことはありますが・・・)。部落解放同盟新南陽支部は、『部落学序説』の筆者が、第3章で終わらず、第4章を、その後、1年間に渡って継続していることに問題を感じ続けてこられたのでしょう。

なにを思われたのか、1年を経過した10月に入って、1年前の批判を再び展開されはじめました。

昨年(2005年)5月14日に、『部落学序説』の執筆を開始するに先立って、2年前から、その論文の概要を20部作成して、大学教授・高校教師・宗教家・新聞記者の方々に配布していました。執筆を計画している『部落学序説』の内容について、感想と意見をお伺いするためでした。

『部落学序説』の執筆計画は、当初から、第3章で終わらず、第4章から第7章までを含んでいました。『部落学序説』の構成は、執筆の初期の段階で公表していた通りです。

第4章 解放令批判
第5章 水平社宣言批判
第6章 同対審答申批判
第7章 部落差別完全解消への提言

『部落学序説』は、その概要に基づいて論述が展開されています。『部落学序説』執筆の計画・立案は、筆者の独創によるものです。部落解放同盟新南陽支部の方々も、「常民・非常民論」、「新けがれ論」、「賤民史観批判」などの解釈原理をかかげて、部落差別問題を論じていくことなど、想像すらしていなかったのではないでしょうか。

筆者の『部落学序説』が、部落解放同盟山口県連とはなんら関係なく開始されたものであることは、現在の部落解放同盟山口県連・宮川委員長に連絡をとってみられればすぐわかります。

『部落学序説』の執筆を公開したあと、部落解放同盟新南陽支部の方々が便乗してこられたに過ぎません。時には、『部落学序説』の執筆を中断して、「島崎藤村論」をとりあげるよう要求されたりしましたが、それは、『部落学序説』の執筆計画に既に組み込まれているものを先取りして文章化するようにという要望でした。

「ブログの性格上、順不同で文章化しても、あとで編集しなおせば済むので、『部落学序説』の執筆計画に固守する必要はない・・・」というのが、部落解放同盟新南陽支部の方々の意見でした。

『部落学序説』執筆に、部落解放同盟新南陽支部の影響を加味したいというより、部落解放同盟新南陽支部の運動方針と、『部落学序説』の内容との間に「齟齬」(見解の相違)がないかどうか気になられたのでしょう・・・。「齟齬」があるかないかの、その判断は、極めて早急でした。『部落学序説』を書きはじめて4ヶ月後、部落解放同盟新南陽支部は、その結論を出されたのです。

その結論というのは、99%は問題がないが、残りの1%に差別性がみられるので、『部落学序説』の第4章以下の論述を中止するように・・・、という要請として受け止められるものでした。

その1%というのが、『部落学序説』の筆者が、被差別部落の地名・人名に対してとっているひとつの姿勢にありました。

筆者は、『部落学序説』は、歴史学・社会学・民俗学・宗教学・法学・政治学・・・などの学際的研究として遂行しています。当然、歴史資料も取り扱うことになりますので、被差別部落の地名をとりあげる必要も出てきます。また近世幕藩体制下の司法・警察である非常民としての「穢多」について言及するとき、「穢多村」の在所としての「地名」だけでなく、「穢多村」の庄屋・畔頭などの名前と共に「穢多頭」・「長吏頭」の名前がでてきます。

『部落学序説』の筆者としては、過去の部落解放同盟による被差別部落の地名・人名の取り扱いに際して、「差別文書」として指摘された論文を検証して、その指摘を受けないで、なおかつ、部落差別の完全解消につながる提案を論文を書き続ける方法を模索してきました。

それが『部落学序説』本文執筆に先立って明らかにした、被差別部落の地名の「相対座標」です。もういちど説明しますと、近世幕藩体制下の徳山藩の山陽道沿いの4箇所の穢多村(日本海側の飛び地をのぞいて)を東西南北に位置づけて、徳山藩東穢多村・徳山藩西穢多村・徳山藩南穢多村・徳山藩北穢多村と呼ぶものです。

この相対座標で、被差別部落を特定するには、徳山藩領図(地図)と徳山藩穢多村の在所に関する史料が必要です。それらは、徳山市立図書館の郷土史料室を尋ねれば簡単に知ることができます。

その労をとらないで、「東山藩東穢多村はどこなのだろう・・・」と自前の前知識と先入観で特定しようとすると、「徳山藩」=「徳山市」を暗黙のうちに想定し、徳山市の一番東に位置する同和地区指定された被差別部落を想定することになるでしょう。いわゆる「久米」の被差別部落です。

しかし、徳山藩の「東穢多村」は、徳山市の一番東にある「久米」の被差別部落のことではありあません。なぜなら、徳山藩領と徳山市の行政域とは全く異なるからです。それに、近世幕藩体制下においては、筆者が相対座標でいう「東穢多村」は「徳山藩領」であって、一方、徳山市の一番東にある「久米」の被差別部落は長州藩本藩に属します。行政上全く異なる場所を指しています。

歴史を無視して、「みそもくそもいっしょ」に受け止めるひとがいたとすると、『部落学序説』の筆者の徳山藩の「東穢多村」に関する記述は事実無根、筆者の単なる推測・幻想・・・であるという批判が生れてくる場合もあるかもしれません。

最近になって、被差別部落のひとといえども、山口県内の被差別部落の地名・在所について知らない場合が多いのではないか・・・と思うようになっています。

姻戚関係とか、仕事の関係、部落解放運動の関係で、交流のある被差別部落はあるかもしれませんが、どの運動家も、山口県内のすべての被差別部落に精通しているわけではないのです。

『部落学序説』執筆のきっかけとなった、山口県北の寒村にある、ある被差別部落の古老に対する聞き取り調査の場所となった未指定地区は、部落解放同盟山口県連の運動のテリトリーの枠外の被差別部落でした。

部落解放同盟新南陽支部の方々が持っている山口県の被差別部落に関する情報と、『部落学序説』の筆者が、近世幕藩体制下の史料をもとに、自分の足で尋ね歩いた被差別部落に関する情報とは、「被差別部落」という概念の外延と内包に大きな違いをもたらしているということは、当然といえば当然過ぎることです。論文執筆のために史料・伝承を漁る以上に、被差別部落の所在の特定とその歴史を知るために多くの時間を割いてきたからです・・・。

『部落学序説』の筆者の頭の中にある「被差別部落」は、近世幕藩体制下の司法・警察であった非常民として、空間と時間を超えて、場所と歴史を超えて、普遍的に存在していた、今日「被差別部落」という概念に集約されてしまった「穢多」の在所のことです。つまり、『部落学序説』の描く「穢多村」は、部落解放同盟新南陽支部のある旧徳山藩北穢多村に還元しつくしされることは本質的にありえないのです。

『部落学序説』の章立て・内容を、部落解放同盟新南陽支部の部落解放運動の枠組みの中に縮減させようとする試みは、『部落学序説』の筆者に対する不当な介入でしかありません。

部落解放同盟新南陽支部のブログ『ジゲ戦記』は、部落解放同盟新南陽支部の部落解放運動の本質を示しています。その名称通り、所詮、かりものでしかありません。部落解放同盟新南陽支部は、部落解放運動のまねごと・・・、それに終始してきたのではないでしょうか。

『部落学序説』の筆者の、部落差別を完全解消に追い込みたいという熱意は、部落解放同盟新南陽支部の及ぶところではありあません。

部落解放同盟新南陽支部の「当事者-部落民の自主運動を否定するような論法におちいっている」という批判の根拠になっている、被差別部落の地名の取り扱い方は、戦後の部落解放運動の中で、部落解放同盟が主張し続けてきたことではないでしょうか。被差別部落の地名を不用意に取り上げているということで、部落解放同盟から差別事件として糾弾を受けた学者・研究者・教育者も少なくありません。被差別部落の「地名」をタブー視しつづけ、被差別部落の「地名」を部落研究・部落問題研究・部落史研究に際しても禁忌状態におき続けてきたのは、とりもなおさず、部落解放同盟自身です。

部落解放同盟新南陽支部は、その地方の末端に位置づけられるとはいえ、『部落学序説』の筆者が、被差別部落の地名を「相対座標」で表現することを、筆者の差別性のあらわれとして、「当事者-部落民の自主運動を否定するような論法」と批判し、筆者の「一貫した主張そのものの前提までもゆがめることになる」と主張するのはどういうことを意味するのでしょうか・・・。

被差別部落の地名は、現在の被差別部落の住人に許容された独占的に処分可能な固有の権利などではありません。被差別部落の「地名」は、「地名」である以上、何らかの意味合いを持っているものです。単なる通俗的・一般的な語源論で斟酌すべきものではありません。すべての被差別部落の伝承に歴史の核(歴史上のほんとうの意味)が隠されているのと同じく、被差別部落の「地名」にも、現代の学者・研究者・教育者がたどりつけていないほんとうの意味が内在されていると思われます。日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」に裏打ちされて、従来、被差別部落の「地名」に関する研究は禁忌状態におかれてきましたが、それは、『部落学序説』の筆者からみると、部落差別完全解消のための道のり上の大きな障害になったと考えられます。

被差別部落の「地名」は、一般的市民・国民の共有財産でもあるのです。

被差別部落の「地名」は、解明されるべき豊富ななぞに満ちています。被差別部落の「地名」を、語源論と歴史学的研究によるだけでなく、民俗学や歴史的社会学の手法によって明らかにし、被差別部落の「地名」の中に刻印されたほんとうの歴史を解明することも可能なのです。

しかし、現代の部落研究・部落問題研究・部落史研究は、そのことを容認する環境にあるのでしょうか。また、部落解放運動は、その研究を受け入れる状況にあるのでしょうか。また、日本の社会は、それを研究や運動を受け入れるに充分なほど人権感覚が成長しているのでしょうか。

それを判断の材料に加えると、『部落学序説』は、方法論的に、被差別部落の「地名」表記に際して、「相対座標」に徹することが最適であると思います。

『部落学序説』は、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」を撃つことを目的として執筆しているため、その「賤民史観」に依拠してきた部落解放運動の担い手の一部からは、「部落民の自主運動を否定するような論法におちいっている」という批判が生じる可能性は多分にあります。「賤民史観」の批判は、差別・被差別を超えて根源的な批判に徹することを使命としているからです。

しかし、このブログ『被差別部落の地名とタブー』においては、『部落学序説』の筆者と、部落解放同盟新南陽支部の方々とのやりとり(単発的・非継続的・一言居士的ことばのやりとり)は捨象して、「被差別部落の地名とタブー」について総合的・包括的な解明をこころみ、部落研究・部落問題研究・部落史研究における被差別部落の地名のより実り豊かな取り扱い方を追求してみたいと思います。

0 件のコメント:

コメントを投稿

『部落学序説』関連ブログ群を再掲・・・

Nothing is unclean in itself, but it is unclean for anyone who thinks it unclean.(NSRV)  それ自身穢れているものは何もない。穢れていると思っている人にとってだけ穢れている(英訳聖書)。 200...