2021/09/30

<少岡>と<垣ノ内>

<少岡>と<垣ノ内>

<高佐郷の歌>に出てくる、
<少岡>・<垣ノ内>・<山部>・<皮張場>・<高佐郷>・<高佐郷中>という言葉は、山口県文書館の部落史研究を専門とする研究員によって、多くは被差別部落に関する<地名>と認定され、この<高佐郷の歌>は、被差別部落を歌った地名入りの歌として認知されるようになります。

この<高佐郷の歌>が発掘されてから23年後、高佐郷を含む『むつみ村史』<高佐廻り地名記>が収録される際に、全文削除されてしまいます。

『むつみ村史』には、同和教育・同和対策事業について、10数行の短い説明が記載されているのみ・・・。「昭和44年同和対策審議会を設立、昭和48年同和教育推進委員会を設立し、同和対策事業や同和教育事業を推進してきた・・・」とありますから、<高佐郷>内の被差別部落においても、同和対策事業が展開されたのでしょう。

古は<高佐郷>に含まれていた<吉部郷>には、浄土真宗の<長門国北穢多寺>があります。<高佐郷>は、近世幕藩体制下の司法・警察である非常民としての<穢多>の姿を明らかにするのに最適な場所・・・、しかし、その情報は、<高佐郷の歌>に見られるように、削除され、衆目に曝されることを忌避される傾向にあります。

なぜ、郷土の<誇り>を歌った<高佐郷の歌>が、現在の<高佐郷>の歴史と伝承から削除されるようになったのか・・・? 『部落学序説』とその関連ブログ群の筆者の推定では、<高佐郷>の末裔の方々が、<誇り>ある歴史と伝承が、日本の近代歴史学の差別思想である賤民史観にからめ捕られ、被差別の悲惨さを物語る<屈辱>の歴史・伝承へとおとしめられていくことに耐えがたい思いをもたれたからではないかと思われます。

<賤民史観>という差別的なあらしが通り過ぎていくのをじっと待っている・・・。

そして、再び、<高佐郷の歌>が郷土の<誇り>の歌としてうたうことができる日がきたなら、<高佐郷>の末裔の方々は、再び、その歴史と伝承として、<高佐郷の歌>を刻みこむことになるでしょう。

筆者、山口県立図書館の研究員の方から、筆者の『部落学序説』とその関連ブログ群で執筆している内容を証明する多くの史資料が死蔵されていると聞かされています。そして、<部落史研究の方向性が変わることがあれば、やがて、公開される日がやってくる、そのとき、あなたの主張していることの正しさが証明される・・・>と。

筆者、その日をイメージしながら、この文章を書いていますが、今回とりあげるのは、<高佐郷の歌>の最初の1節<少岡ハ垣ノ内>・・・。

山口県文書館の研究員の方は、最終的には、<少岡>と<垣ノ内>は<地名>であると判断されましたが、ここでいう<地名>とは何なのでしょうか・・・?

筆者の手元にある、<高佐郷>の<地名>を綴ったものに、『防長地下上申』(享保12~宝暦3年)、『防長風土中進案』(天保12年頃)、『山口県風土記』<明治8年の大小区制>『高俣村郷土史』(大正7年)がありますが、<小村>・<村内小名>・<字地・小字地>のいずれにも、<少岡>・<垣ノ内>は出てきません。

近世・近代・現代を通じて、<高佐郷>の<少岡>・<垣ノ内>は、<地名>として登場してくることはありません(山口県文書館の研究者あるいは郷土史家によって、出版される段階で削除されてしまったともあるでしょうが・・・)。つまり、<少岡>・<垣ノ内>を<地名>として、それを手がかりに<高佐郷>の被差別部落にはたどりつくことができないことを意味しています。

それなのに、山口県文書館の研究者は、最終的には<少岡>・<垣ノ内><地名>と断定しています。山口県の部落史研究の中枢である山口県文書館の研究員によって、<少岡>・<垣ノ内>が被差別部落にかかわる<地名>と断定されることによって、『むつみ村史』の記述から<高佐郷の歌>が抹消されてしまいます。

<少岡><垣ノ内>・・・、それは、<地名>なのか<地形>なのか・・・、あらためて検証してみることにしましょう。

<少岡>は、『ふるさとの唄 むつみ村』(1962年)<高佐廻り地名記>を入手する前までは、筆者、この読みを<少なき岡>と読んでいました。インターネットで検索していて、<少なき岡>という言葉に遭遇したからです。

松浦武四郎は蝦夷を北海道と命名した人で、彼が二十歳の時に高千穂を訪れた際の紀行文を天保14(1843)年に書き上げています。その中に次のような文を見ることが出来ます。<眞名井といへる細き流れを越て高天(タカマ)原と名付たる小山あり。いと少なき岡なれども樵夫も恐れをなして立入る事なき故、樹木繁茂したり。此岡の中にて折により管弦の音聞こゆる時あり。若もさよふの時は里人共は家内に慎みかくれて、一人も其辺へ立寄ものもなく高天原の神遊びと尊み恐るゝよし也・・・>。

それを根拠に<少岡><少なき岡>(すくなきおか)と読んだのですが、『ふるさとの唄 むつみ村』<高佐廻り地名記>を入手したことで、<少なき岡><少し岡>と訂正することになりました。

<高佐廻り地名記>には、<少岡>は、次のような形で出てきます。

<少し岡は垣之内>
<少し岡は水ヶ峠>
<少しの岡は塔の本>

<水ヶ峠><地名>に出てきますので、上記の表現は、<地形>をもって<地名>を表現している文章である可能性があります。ということは、<地形><地名>はひとつのもであって、<少し岡><垣之内>は同一場所を表現しているに過ぎないということになります。<少し岡>は、地名<垣之内>の属性を示す言葉ですので、<少し岡>を訪ねることで<垣之内>にたどりつくことができることを意味します。

しかし、何をもって、<岡><少し岡>と判定することができるのでしょう。

<高佐廻り地名記>には、<少し岡>だけでなく<岡>そのものも頻出します。

<岡は武稽古馬場広き>
<岡は片又大境>
<岡はお恐ろしきいぎの平>
<岡に大社の宮ぞあり>
<岡は往還通り筋>

<岡>の大きさを推定するために人工物と比較しますと、<岡に大社の宮ぞあり>の表現から察するに、神社のある岡は<少し岡>には該当しない・・・、と想定されます。<少し岡>・・・、言葉から想像される以上に小さな土地のようです。

高橋文雄著『続・山口県地名考』によりますと、<岡>について、次のような説明があります。

「岡。オカ。丘(最近とくに団地名などに多く使われる)とも書き、県下至る所にある地名で、単に岡というものだけでも148ヶ所あり、これを上下、東西、前後に区分したり、あるいは地形、状態などによって分けたものなどを合わせると数千ヶ所にもなる。その主なものだけでも、岡田・岡村・岡山・岡原・岡ノ辻・岡畑・岡平・岡畠・岡河内・岡垣内・・・。オカ(岡、丘)の語源を『大言海』は「峰処(オカ)ノ義トイフ」といい、地方によると「尾根、山の背」のこともあるが、普通には「小高い所」のことをいう。」

それで筆者、<高佐郷>の国土地理院の2万5千分の1の地形図、航空写真・衛星写真を入手して、<高佐郷>の<小し岡>探しをはじめたのですが、結論からいいますと、それらを用いて特定することはほとんど不可能・・・。

こういう場合、自分の足で旧街道を歩いて<少し岡>を探すに限ります。近世幕藩体制下の街道を旅する旅人の目線から見ると、古文書に出てくる地名・・・、現在地図や文献上で確認することができない地名も視野に入ってきます。しかし、その<少し岡>・・・、数は膨大・・・。視界に入る<小高い所>を見ては<あれが問題の少し岡・・・?>と試行錯誤を繰り返すことになります。

山口県文書館の研究員の方、<□□□□□□>と伏字にして<地名>と注をふる必要がどこにあったというのでしょう・・・? 現代人の一般的感覚で<地名>ととらえたとき、<高佐郷の歌>に出てくる<少岡>は、永遠に見つけることができな謎の地名になってしまいます。山口県文書館の研究員の方、<高佐郷の歌>に出てくる、被差別部落の地名とおもわれることばを伏字にし、そして言葉の種類を異なるものにして、<高佐郷の歌>に歌われている近世幕藩体制下の<穢多村>から、あとに続く研究者の目から隠している・・・、と思われます。

<高佐郷の歌>に限りません。山口県の部落史研究の中でとりあげられる被差別部落の地名については、すべからく、不特定多数の<差別者>から、山口の被差別部落の人々の<人権を守る>ために、このような仕掛けが施されています。

それで、<高佐郷の歌>に出てくる<少岡>を特定するために筆者が採用したのが、<民俗学>の研究成果・・・。

民俗学の父・柳田國男と、柳田國男民俗学の流れを組みつつ、自然・環境を視野にいれながらあらたな民俗学を構築した野本寛一の研究成果・・・。

山口県文書館の北川健先生・・・、従来の山口県文書館の研究者の<少し岡><□□□□□□>と伏字で表記することをやめ<少岡>として実名表記することを決断しています。その論文の末尾にこんな解説が・・・。「地名の表記は、今後の学術研究の継承と進展のため符号表記から歴史的地名表記に変えた・・・」。

<符号表記から歴史的地名表記に・・・>、それは、<符号表記から現在の住所と地名表記に・・・>変えたのではないことは確認しておく必要があるでしょう。

<少岡ハ垣ノ内>・・・

<少岡><垣ノ内>であるとしますと、<少岡>から<垣ノ内>にたどりつくことはかなり困難・・・。よって、<垣ノ内>を確定することで<少岡>を確定・・・、そのあと、最初に戻って、<少岡ハ垣ノ内>という言葉が具体的にどこをさしているのか確定する必要があります。

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『部落学序説』関連ブログ群を再掲・・・

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