2021/09/30

紀州藩の穢多と衣類

紀州藩の穢多と衣類

『部落学序説』の本論の執筆を中止して、付論として、「百姓の目からみた渋染・藍染」についてアトランダムに思いつくまま執筆してきましたが、ときどき、筆者が<百姓>などとかっこつきで留保しないまま百姓という言葉を使用することについて、「なぜ差別語を使用するのか・・・」、と抗議してこられるひとがいます。

「百姓」という言葉が差別語であるのかないのか・・・、筆者は、これまで、あまり関心を払うことがなかったので、その批判に応えるために必要な十分な資料を持ち合わせてはいません。

インターネットで「百姓」という言葉を検索してみますと、インターネットの記事の中には、「百姓」という言葉を「差別語」・「差別用語」に加えている文章も少なくありません。なんと、「めくら」・「どもり」・「白痴」・「乞食」・「屠殺」と同類語として扱われています。百姓の末裔である筆者の視点・視角・視座からしますとこの記事の著者、おそるべき言語感覚の持ち主のようです。

その著者の方の説明では、「百姓」という「差別語」・「差別用語」は、「百姓」の「状態や職業そのものが侮蔑の対象とされたもの」だそうで、死語ではなく、現代においても通用する言葉のようです。

『広辞苑』で「百姓」という言葉をひいてみますと、「百姓」とは、「①一般の人民・公民、②農民、③いなか者をののしっていう語」とあります。『広辞苑』も、「百姓」という言葉を「誹謗中傷・罵詈雑言」として認定しているということでしょうか・・・。

「百姓」という言葉は、「田舎者」に対する「誹謗中傷・罵詈雑言」のひとつである・・・。

『広辞苑』で、「田舎者」というのは、「①田舎の人。田舎育ちの人。②物を知らない粗野な人をさげすみ、馬鹿にしていう語」とありますから、「百姓」という言葉、「農民」に対する「誹謗中傷・罵詈雑言」の言葉だけでなく、「物を知らない粗野な人」・「一般の人民」に対する『誹謗中傷・罵詈雑言』のことばであるようです。

この『広辞苑』のことばの説明に、主観的判断を加味して説明してくれるのが、奥山益朗著『罵詈雑言辞典』でしょう。

「農業を営む人々や農作業のこと。また田舎者を罵る言葉ともなっている。江戸時代には身分は上位に置かれていながらも、あまり恵まれていなかったらしい。「百姓」が罵語になっているのも、町人から見て貧しく、無教養だったということからだろう・・・」。

奥山益朗氏、「百姓」という言葉が「罵語」とされる理由に、奥山益朗氏が理解する限りでの江戸時代の身分制度を根拠に、「・・・らしい」・「・・・だろう」と推測・推論しておられるのですが、「百姓」と「町人」を比較して、江戸時代の「百姓」「町人」より、「貧しく、無教養だった・・・」とする見解は、いただけない・・・。

『広辞苑』で、「百姓」の対語「武士」をひもといてみますと、「武士」ということば、「士農工商」の「農」に対して「百姓」という言葉が「誹謗中傷・罵詈雑言」が用いられるのと同じ意味合いで、「士」に対して「武士」という言葉が「誹謗中傷・罵詈雑言」として用いられることはなさそうです。

『広辞苑』では、「士」という言葉には、「学徳を修め、敬重すべき地位にある人・・・」という意味が含まれているそうですから、「士」という言葉は、最初から「誹謗中傷・罵詈雑言」として使用されることが排除されているのでしょう。

奥山益朗著『罵詈雑言辞典』には、「武士」という見出しはありません。

「三一」(さんぴん)について、「「三一侍」の略。江戸時代に最も下級の若党を卑しめて呼んだ言葉。給与が一年に三両一分の扶持を「さんぴん」と呼んだもの。」と説明しておられますが、奥山益朗氏の発想には、<武士は武士、貧しさからそのように罵倒されることはあっても、それは、無教養からではない・・・>という判断が前提されているように思われます。「武士」と「百姓」という言葉に対する語感の違い・・・、近世幕藩体制下の語感とは異なる、近代中央集権国家における「天皇・皇族・華族・士族・平民」という近代的身分制度の価値概念を反映しているように思われます。

インターネットの世界においても、『広辞苑』・『罵詈雑言辞典』と同じ用法が前提とされているようで、筆者が、「百姓」の視点・視角・視座・・・、という表現を用いると、「百姓」の視点・視角・視座を、この世の中の価値観に対して屈折した考えとして非難されることになるのでしょうか・・・?

現代の言語学者が、「武士」の立場に偏重して辞書・辞典を編纂している結果であって、「百姓」の立場からそれを編集しなおせば、「武士」という言葉を『罵詈雑言辞典』に加えることもやぶさかではないでしょう。

筆者は、武器を携え他者に危害を加えることがない「常民」の立場から、「殺生与奪」の権を持つ「武士」を「ひとごろし」として認識される場合もすくなくなかったのではないかと思います。

筆者、先祖代々、「百姓」の家柄です。筆者の妻の家も同じ「百姓」の家柄です。

先祖代々、「人を屠する」、軍事・警察に関与してきた非常民ではなく、武器を持たず、人をあやめるころもしなかった常民の家柄です。「百姓」であることに、「常民」であることに、誇りを持って生き抜いてきているのです。それが、筆者の中に、「百姓の視点・視角・視座」を構築させる大きな要因になっているのです。

つまり、「百姓」・「常民」である筆者にとって、「武士」・「非常民」の世界は別な世界の話しです。

現代の一般国民にとって、現代の軍事・警察に関与する非常民である自衛隊・警察の世界・・・、どちらかいいますとブラックボックスの世界です。外側へ漏れくる情報をもとに、垣間見えるその姿を認識することはあっても、すべての史資料を自由に閲覧して、史資料に則して、現代の非常民を批判・検証、認識して把握することは最初から不可能です。

しかし、「明治は遠くなりにけり」どころか、「昭和は遠くなりにけり」と言われる今日にあっては、近世・近代における、軍事・警察に関与してきた非常民に関する史資料は、当時の人々が知り得なかったことすら知り得ることができるようになっています。「過去」の歴史、現代に直接かかわりがないことがらとして・・・。

紀州藩『城下町警察日記』・・・。

紀州藩の「穢多」役・「非人」役身分の人々・・・、近世幕藩体制下の尾張・紀伊・水戸の御三家のひとつ、紀伊の城下町の治安維持のために活躍していた「穢多」身分・・・、現代の部落史の学者・研究者・教育者が「被差別部落民」の先祖と同定し「賤民」とラベリングする人々の職務上の業務日記です。

その当時、誰も見ることができなかった、司法・警察の内部資料です。

この紀州藩『城下町警察日記』・・・、出版されて久しくなります。出版されたのが、2003年5月30日ですから、あと少しで、丸5年を迎えます。その間、特筆すべき研究・論文が出されなかったのは、なにを意味するのでしょうか・・・。

筆者の、百姓の視点・視角・視座からしますと、紀州藩『城下町警察日記』に記された、800頁を超える膨大な司法・警察の内部資料・・・、戦前・戦後を通じて、部落史の学者・研究者・教育者がその研究の前提としてきた、「穢多は、差別された賎民であった・・・」とする「賤民史観」のもとでは、その個々の記録も、また、城下町における司法・警察業務全体についてもことば化することに困難を覚えているしるしだと思われます。

荒磯の岩に押し寄せ砕け散る波のように、この紀州藩『城下町警察日記』・・・、部落史研究上の大きな岩として、部落史の学者・研究者・教育者の前に立ちはだかっているのではないかと思われます。

こういう場合、従来の部落史研究の学者・研究者・教育者が自己保身のためにとってきた方法は、「部落史における例外事項・・・」として、一刀両断に切り捨てて、問題を部落史研究の視野の外に追いやることでした。そして、部落史を、「武士」・「百姓」の複眼的視点から見ることなく、「武士」という権力者の視点から、「被差別民」として、「穢多」役・「非人」役を「賤民」として描く方法でした。

そのような似非歴史研究家の前では、紀州藩『城下町警察日記』・・・、自らの世界を開陳することなく閉ざしてしまうことになるのでしょう。

紀州藩『城下町警察日記』に記されている司法・警察に関する状況・・・、紀州藩主から徳川幕府将軍になった徳川吉宗の時代、紀州藩の司法・警察制度は、江戸幕府の「城下町」に移植され、やがて全国津々浦々に浸透していくことになるのです。

その紀州藩における「穢多」と「衣類」について、紀州藩の「穢多」が身にまとっていたという「紋羽織」について検証することにしましょう。

【筆者注】
「めくら」・「どもり」・「白痴」は、人間の身体・精神の疾病状態を、「乞食」・「屠殺」は、人間の生活・職業的側面などの一部・部分をとらえて、その人の全人格を表現しようとするもので、いずれも典型的な差別語。「百姓」という言葉を、「めくら」・「どもり」・「白痴」・「乞食」・「屠殺」と同類語とみなす著者の言語感覚にあきれます。

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