2021/09/30

「習俗・儀礼としての禁忌」

「習俗・儀礼としての禁忌」

しかし、『習俗-倫理の基底-』の著者・佐藤俊夫が採用しているような、「感覚・信念としての禁忌」から「習俗・儀礼としての禁忌」へ論を展開していく方法に妥当性があるのでしょうか・・・。

私は、「禁忌」(タブー)の淵源は、個人の「感覚・信念」ではなく、社会の「習俗・儀礼」にあるような気がします。

なぜなら、「禁忌」(タブー)は、人間の「心理」を規制する装置というよりは、人間の社会的「行為」を規制する装置であると考えられるからです。

この世の中に、ひとりの人間しかいないとすると、そのひとの行為を規制する「禁忌」(タブー)は存在しないといえるでしょう。朝から夜まで、何を考え、どのような行動をとるか、自由です。生きていくために自然を相手に、どんな草が食べられ、どんな草が毒になるのか、経験的に「禁忌」(タブー)が発生していく場合もありますが、その「禁忌」(タブー)は、単純素朴なものです。

しかし、人間がふたり以上になりますと、必然的にひととひととの関係が発生してきます。おのずと、それぞれのひとの「行為」は制限が課せられるようになります。共に生きる・・・、ということは、ひとりで生きていくときと違って、大幅にその「行為」が制約され、なんらかの拘束を受けるようになります。自然を相手にした「禁忌」(タブー)だけでなく、人間を対象にした「禁忌」(タブー)が発生するようになります。

私は、「禁忌」(タブー)は、ひとを対象にした「禁忌」(タブー)において、よりその本質をあきらかにしてくると考えますので、「禁忌」(タブー)は、人間関係、社会、文化、国家などの「権力装置」がつくりだすものであると考えます。

すでに『部落学序説』で言及してきましたように、「けがれ」は、「気枯れ」と「穢れ」の二重定義のことばであると論証してきました。「気枯れ」は習俗的逸脱であり、「穢れ」は法的逸脱であるのですが、習俗的逸脱も法的逸脱も、日本の社会と歴史を考察すれば、その「けがれ」の管理は、ときの権力(天皇制)によって行われているのがわかります。

権力の象徴たる「天皇」によって、「けがれ」とされたものが「けがれ」です。法的逸脱としての「穢れ」は、それを成立せしめた法的制度が崩壊したあとも、民衆のあいだに「穢れ」として残る場合があります。それが、時間と空間を越えて、歴史と社会を越えて継承・伝播されていくとき、「穢れ」は「気枯れ」として習俗的逸脱に再編成されていくことになります。

習俗的逸脱も、その発端は法的逸脱が存在していたと考えることができます。

「禁忌」(タブー)を考察する方法としては、佐藤俊夫が主張する「感覚・信念としての禁忌」から「習俗・儀礼としての禁忌」へ論を展開していく方法より、「習俗・儀礼としての禁忌」から「感覚・信念としての禁忌」へ論を展開していく方法の方に妥当性があるように感じられます。

もちろん、佐藤俊夫はそういいきったあとで、そのあと、それを追いかけ、それを包含するように、このように記しています。

「われわれは個人の感覚と社会の習俗とをならべて、ここではまず個人の感覚が社会の習俗のもとである点に注目しようとするのであるが、しかし一方からいえば、個人のそのような感覚を決定しているのはじつは社会の習俗であるともいわねばならない」。

そして、佐藤俊夫は、「禁忌」(タブー)は、「個人の感覚と社会の習俗とのからみあい」として認識します。

部落研究・部落問題研究・部落史研究に関連していえば、部落差別問題にともなうさまざまな「禁忌」(タブー)は、「個人の感覚と社会の習俗」として存在するといえます。部落差別にともなう「禁忌」(タブー)には、「感覚・信念としての禁忌」「習俗・儀礼としての禁忌」との相互補完的なふたつの側面があるのです。

部落差別の完全解消のために、部落差別にまつわるさまざまな「禁忌」(タブー)を取り除かなければならないとしますと、「禁忌」(タブー)は、「個人の感覚」「社会の習俗」の両方から取り除かれる必要があるということになります。

その「禁忌」(タブー)は、代々の権力によって、民衆に強制され、ときの流れの中、「社会の習俗」として受け継がれ、その「社会の習俗」の中で「個人の感覚」としての「禁忌」(タブー)が養成されてきたのですから、部落差別にまつわる「禁忌」(タブー)は、権力の意志によって、取り除こうとすれば取り除くことができるものであるといえます。

社会における人間の行為規範のひとつとしての「習俗」は、「国家権力」と関係のないところで繁茂しているのではなく、「権力」の「習俗」に対する殺生与奪権のもとに成立しているのです。極論すると、「権力」は「習俗」を自由に操作することができるし、してきたのです。「権力」はいつも、その「習俗」を政治的に意図的に利用してきたといえるでしょう。

国家権力の及ばない「習俗」を想定することは、底知れぬ幻想の中におのれを沈めることになります。国家権力の目的は、常に、民衆が、国家権力の予期する「禁忌」(タブー)を守り、それを内面化・精神化させて、「日常・日常」、または、「常・非常」を自律的に区別する「感覚・信念」を養成することにあります。

筆者には、すべての「習俗」・「禁忌」(タブー)の背後に、国家の意思が反映し、通底されていると思わされるのです。

部落差別もその一事例に過ぎません。

佐藤俊夫は、フレイザーの研究成果を紹介して、「タブーが最も厳格に守られるべき」存在として、「王・酋長・祭司など」の権力者をとりあげています。中央政府である「王」、地方行政である「酋長」、そしてその権力装置を精神的・文化的に支える宗教家である「祭司」、彼らはみずから「禁忌」(タブー)の担い手として、「禁忌」(タブー)につかえ、その民衆にその「禁忌」(タブー)を流布・伝播・強制していくのです。支配者である権力者はみずから「禁忌」(タブー)をみにおびつつ、被支配者である民衆に「禁忌」(タブー)を強制していくのです。

支配する権力は、支配される民衆との間に、双方向に「禁忌」(タブー)を設定し、権力を民衆から隔絶します。その「禁忌」(タブー)は、『部落学序説』の筆者が指摘する、近世幕藩体制下の軍事・警察に関与する「非常民」(武士・同心・目明し・穢多・非人・村方役人)と、その支配下にある「常民」(百姓)との間に設定された「禁忌」(タブー)に酷似します。

佐藤俊夫は、「習俗は「正常」をよしとし「異常」をあしとするのであるが、これは一方では中庸と正道とを守って極度と変態とを避ける穏健でもあるが、また一方では凡庸と卑俗とに安んじて非凡と卓越とを顧みない因循でもある。」といいます。

「習俗では「特徴」あるものの一切が-独自性とよぶべきよい意味の特徴も、変態性とよぶべき悪い意味の特徴も、一しょくたにして忌避され敬遠されることが多い。変態性を拒否するまではよいのであるが、そのついでに独自性までも排斥されるのであっては、習俗はもはや悪習とよぶほかはない」。

この佐藤俊夫のことばこそ、「禁忌」(タブー)の本質と、その限界を物語っているのではないかと思わされます。

近世幕藩体制下において、百姓が、百姓一揆のかたちをとって、藩権力の不正と圧政を指摘、そのことが藩権力の認めるところとなったとしても、その法的闘争は、当時の慣習(しきたりとならわし)によって、「中道と正道」を逸脱した・・・ということで、火付・強盗・殺人をおかした凶悪犯とおなじように、百姓一揆を指導した庄屋・名主は死刑という極刑を言い渡されているのです。

佐藤俊夫は、「習俗はこの意味での悪習に陥ってまでも、あえておのれの「型」を固執しようとする。ここでわれわれは、それほどまでに習俗を守らせようとする社会を問わねばならない。」といいます。その社会というのは、「外と内とをへだてる境界」によってしきられた「閉鎖的なワク」であり、その社会の権力者は、「そのワクがくずれて内と外との交通が自由になる」・・・、つまり、「閉じた社会」が壊されることを恐れるというのです。「閉じた社会」「閉鎖的なワク」を破壊する可能性のある要因は「一しょくたに禁ずるのである」。それが習俗の背反すなわち「変態」でも、それが習俗の超克すなわち「独創」であっても・・・。

「感覚・信念としての禁忌」「正常・異常を区別する」ことに依拠しているが、「習俗・儀礼としての禁忌」は、「正常・異常を区別する」ことをたてまえとしながら、それは、必ずしも「正常・異常を区別する」ことを保障しないというのです。

近世幕藩体制下の司法・警察である非常民としての「穢多・非人」は、「閉じた社会」(村)を「外と内とをへだてる境界」(村境)によってしきられた「閉鎖的なワク」(封建的身分制度)に常民である「百姓」を閉じ込め監視する「保安警察」( Sicherungspolizei )としての役割を担っていたと思われます。「成文法」だけでなく「慣習法」・「習俗」による「禁忌」(タブー)の番人であったと思われます。近世幕藩体制下300年間に渡って、職務として担ってきた「禁忌」(タブー)の番人は、それゆえに、常民である「百姓」とは異質な「禁忌」(タブー)を担わされた(例えば別火別婚)のではないかと思わされます。

部落差別の淵源につながる糸をたぐりよせていくとき、部落差別もまた、この「禁忌」(タブー)にたどりつくのではないかと、想定されます。

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