2021/09/30

「感覚・信念としての禁忌」

「感覚・信念としての禁忌」

『部落学序説』執筆に際して、佐藤俊夫著『習俗-倫理の基底-』に学ぶところが多いのですが、佐藤俊夫の理論を全面的に踏襲しているわけではありません。

『部落学序説』の参考文献としてあげたすべての資料・書籍は、すべて批判・検証の作業を経たのちに、『部落学序説』の執筆に際して、紹介と引用を行っています。佐藤俊夫の『習俗-倫理の基底-』とて例外ではありません。

佐藤俊夫著『習俗-倫理の基底-』は、「習俗の本質」としての「禁忌」について、詳細な分析と総合によって体系的な解明をしている貴重な論文です。『習俗-倫理の基底-』をくりかえし読めば読むほど、学問の奥深さと発想のすばらしさにしばしば驚きと尊敬の思いをもたざるをえないのですが、しかし、反面、それが体系的な解明を指向すればするほど、体系化されずに残された部分・・・がクローズアップされてきます。

たとえば、佐藤俊夫がその論文の執筆過程で採用する、「禁忌は日常・非日常を区別する感覚・信念である」という定義からみて、佐藤俊夫にとって、「日常」・「非日常」という用語は、「禁忌」という概念の定義用語として極めて重要なことばであると思われます。

しかし、『習俗-倫理の基底-』を「日常」・「非日常」ということばの組み合わせにぶれが発生しているのに気付かされます。

「日常」・「非日常」の組み合わせの他に、「日常」・「非常」という組み合わせも存在します。佐藤俊夫は、この「非常」ということばを、「日常をはみだす」ことであると解釈します。つまり、佐藤俊夫にとって、「非常」は「日常」からの逸脱である・・・というのです。

昔、『習俗-倫理の基底-』の佐藤俊夫のことばを追跡していて、佐藤俊夫は、「非日常」と「非常」の違いについて気付いているのではないか・・・、しかし、その差異を確定することができず、「日常と非日常・・・いろいろに呼び分けることができようが要するに、自己の能力の限界の内にあるものとそれをこえて外にあるものとを直感的に識別し、その前者を採択しその後者を忌避する心理である。」と、ことばの「呼び分け」、つまり差異の認識を徹底することなく、「要するに・・・」と途中で中断してしまいます。

日常・非日常、常・非常・・・、このことばの差異を明確にしなければならないのではないか・・・、それに気がついたときが、『部落学序説』で、「日常・非日常」と「常・非常」を明確に区別するようになっていくきっかけでした。

それは、当然といえば当然のことで、人間の行動の規範となるものは、習俗だけでなく、法・道徳・慣習・宗教等も存在するわけです。佐藤俊夫は、「法律・道徳その他の禁止のひとつひとつの基底には、じつにひそかにタブーの禁止が控えているように、われわれには思われてならない。」といい、「タブーの禁止は道徳・法律・宗教・・・と分化した以降もなおそれぞれの基底にひかえている、もっとも基本的な禁止の尺度といわなければならぬ。」といいます。

佐藤俊夫は、「禁忌」は、習俗だけでなく、法・道徳・慣習・宗教などのすべての行動規範に通底して存在していると主張しているのです。人間の行動を形式的に規制するものとし、習俗と法律という軸を考えるとき、習俗は、「日常・非日常」で呼び分け、法律は、「常・非常」で呼び分け得る可能性を示唆しているのです。

佐藤俊夫は、そのあたりの研究を、『習俗-倫理の基底-』の執筆後の課題として残した・・・のかもしれません。もしかしたら、そのこともすでに、佐藤俊夫によって研究され、公表されているのかもしれません。残念ながら、無学歴・無資格の筆者には、佐藤俊夫の論文を探索して読む能力はありません。

佐藤俊夫の禁忌に関する体系的な論述に存在するちいさなほつれ・・・、『部落学序説』の筆者である私にとっては、佐藤俊夫の研究成果と課題を明らかにするきっかけとなり、佐藤俊夫の『習俗-倫理の基底-』を、『部落学序説』執筆のための基本的かつ重要な論文たらしめる契機となったのです。

筆者と佐藤俊夫著『習俗-倫理の基底-』の間にある距離を明らかにしたうえで、佐藤俊夫の禁忌論に注目していきたいと思います。

あらためて、「タブー」とは何かを問いましょう。

佐藤俊夫によると、「禁忌」には、2種類の「禁忌」があります。ひとつは、「感覚・信念としての禁忌」で、もうひとつは、「習俗・儀礼としての禁忌」です。「両者はほとんど分離すべくもなく一が他を予想してはいるが、しかしなおかつ両者は区別せられまた区別せられるべき」であるといいます。佐藤俊夫は、「禁忌」の研究上の方法論として、まず、前者の「感覚・信念としての禁忌」をあきらかにし、そのあと後者の「習俗・儀礼としての禁忌」との関連を明らかにしようとします。

その際に登場してくる「禁忌」に関する定義が上述の定義です。

「禁忌は日常・非日常を区別する感覚・信念である」。

佐藤俊夫は、「日常」と「非日常」を、「正常」と「異常」ということばで峻別します。そしてこのように説明します。

「「タブー」とは、まさに正常と異常とを区別し、そして正常をえらび異常をさける、個人の感覚・・・に与えられる名である」。

この命題は、「個人の感覚」「社会の習俗」ということばに置き換えることによって、「感覚・信念としての禁忌」の対極にある「習俗・儀礼としての禁忌」についての命題にもなります。

佐藤俊夫によると、「正常」においては、真善美・偽悪醜という価値が適用されますが、「異常」においては、相対的な真善美も偽悪醜から、絶対的な真善美・偽悪醜(「極端」)が感じられるようになる・・・といいます。「タブー」は、「不安で危険な「極端」は避けて、安心で穏当な「中庸」を守ろうとする」といいます。

そういう意味では、「タブー視」ということばは、「不安で危険な「極端」は避けて、安心で穏当な「中庸」を守ろうとする」精神のいとなみのことなのでしょう。

佐藤俊夫は、「正常・異常」について、わかりやすく、次のように説明しています。

「個人が社会の習俗を守るということは、自分ひとりだけ風変わりなことはしないでなるべくまわりの皆のしているようにしようという気持ちであり、慣れないことをするまい・型やぶりをするまい・仲間はずれになるまい・人なみになろう・・・という気持ちからであるが、これはそうすることがなんとなく安心がいくからであり、逆にそうしないことがなんとなく不安だからである。ここには「正常」( noamal )と「異常」( abnormal )とを区別し、そして正常をよしと是認し、異常をあしとする心理が働いているということができる。まわりの皆がそうしている習俗が正常なので、自分もまたその正常をとるということなのである」。

倫理学の佐藤俊夫が描く、「禁忌」(タブー)を生きる人間の様相は、歴史学の阿部謹也が描く「世間」を生きる人間の様相と極めて酷似しているのに気付かされます。

阿部謹也は、その著『学問と「世間」』で、「現在わが国の学問は大きな危機を迎えている。・・・それは・・・研究主体としての個の未成熟に起因する問題である。・・・個人と社会の間には「世間」があり、それが個人の行動を規制しているのである。・・・学生は必ずしも自分がやりたいと思うテーマを選ぶことができない・・・学生が自らテーマを設定しても教師がそれを認めないこともめずらしくはない。・・・わが国の知識人たちは「世間」の中で生き、「世間」を相手としてものを書き、「世間」と距離をとることができない。それどころか「世間」の存在そのものにすら気がついていない場合が多いのである。」と言っていますが、この「世間」、「禁忌」(タブー)ということばに置き換えれば、「世間」の本質がよりはっきりとみえてくるのではないでしょうか。

「現在わが国の学問は大きな危機を迎えている。・・・それは・・・研究主体としての個の未成熟に起因する問題である。・・・個人と社会の間には「禁忌」(タブー)があり、それが個人の行動を規制しているのである。・・・学生は必ずしも自分がやりたいと思うテーマを選ぶことができない・・・学生が自らテーマを設定しても教師がそれを認めないこともめずらしくはない。・・・わが国の知識人たちは「禁忌」(タブー)の中で生き、「禁忌」(タブー)を相手としてものを書き、「禁忌」(タブー)と距離をとることができない。それどころか「禁忌」(タブー)の存在そのものにすら気がついていない場合が多いのである」。

日本の学者・研究者・教育者は、この「禁忌」(タブー)に四方八方から、上から下から拘束・制限されているのだとしたら、日本の学問も教育も明日はないような気がします・・・。阿部謹也が危惧している「現在わが国の学問は大きな危機を迎えている。」という事態は予想以上に、日本の学問・教育の深刻な末期症状を呈しているのかもしれません。

「フーコーはその「世間」を否定し、ヨーロッパのインテリを自立させようとした。」といいます。フーコーを読みながら、「世間」に埋没し、「禁忌」(タブー)の中を生き続けるフーコーの信奉者は、フーコーの学問のなんたるかを知らないやから・・・なのかもしれません。

佐藤俊夫はこのようにいいます。

「タブーは宗教か呪術かというような問題にだけ焦点があつまって、現代社会とはほとんどまるで無縁のようなもののように考えられがちなのである。もしも本当に現代社会と無縁なのであれば、タブーの問題などはじめから考察に値しない。だが、タブーは現代にとってもけっして無縁ではない、とわれわれは考える」。

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