2021/09/30

百姓と質入れ

百姓と質入れ・・・

成松佐恵子著『庄屋日記にみる江戸の世相と暮らし』・・・、それは、無学歴・無資格の筆者にとっては、非常に魅力にとんだものです。

本の至るところに、成松佐恵子氏が歴史学の研究者としての心血を注いで作成されたと思われる「表」が挿入されています。『庄屋日記にみる江戸の世相と暮らし』の本文からだけでなく、添付された多くの「表」からも、多くの示唆を受けます。

本文で触れられていないことがらを、この「表」から推察し、本文の内容をより豊かに解釈することもできます。

成松佐恵子著『庄屋日記にみる江戸の世相と暮らし』は、渡辺尚志著『江戸時代の村人たち』同様、近世幕藩体制下の「百姓」の実態を学習しようとするものにとっては、必読の書です。特に、筆者のような、無学歴・無資格のものにとっては、両書は、かけがえのないものです。

成松佐恵子氏は、「質入された衣類の内容」の項で、庄屋の家筋で、「質屋業」を営んでいた西松家の古文書から、「質入された品物」の中から、「衣類品だけを取り出して」、「質入れ品の内容(文政10-11年)」という「表」を紹介されています。その「表」は、「人名・日時・内容」から構成され、21人の「質草」、83品目の詳細が列挙されています。

成松佐恵子氏は、「袷一点のような場合から、一〇数点に及ぶ品数を、いちどきに質草にしたものまでさまざまなものである。圧倒的に多いのが袷・綿入・羽織など・・・」で、中には、「絹織物」・「花色の棹物」(無地で、淡藍色に染めた女ものの絹反物)も含まれたいたといいます。

「質屋を利用して借金するような、いってみれば生活苦に陥ったと思われる農民が所持していたものなのである。男女とも、麻・木綿に限るといった服装の規制は、野良着に関してならともかく、すでに守られていなかったことはこれで証明されよう」。

成松佐恵子氏によると、「見落としがちな史料」(ここでは、質屋業を営む西松家の質草の記録)が、近世幕藩体制下の「農村では人びとの衣服は木綿と麻に限られていた、といった従来の衣服史では明らかにしえない当時の実態をうかがう」ことができる「重要な根拠になり得る」といいます。

質屋業の成松家は、他村の百姓に、「衣類六品」(木立反物3、女夏帯1、男向反物縮織1、羽織1)を「一貫一〇〇文」で売却したり、「古着屋」に売却しています。

成松佐恵子氏によりますと、「見落としがちな史料」は、質入れに関する史料だけではありません。

「天保一〇年(1839)年の暮、村内の藤三郎方に盗賊が入り、衣類など相当数を盗み取られる事件があった。」として、その被害内容を列挙しています。「女物綿入5、うち太織、縮緬など絹もの3、男物ゴロフクレン帯など帯3筋、羽織男女1点ずつ、男物羽織本綿もの1、そのほかに木綿の反物や襦袢・・・合わせて25点・・・」。

被害は、役所に届けられ、取り調べを受けることになりますが、「とくに非難を受けることなく聞き入れられた・・・」といいます。百姓が着ることを許されていない絹の織物・反物を所有しても、なんらとがめだてを受けていない・・・、というのです。

成松佐恵子氏は、「生活に余裕のある」百姓家にしても、「生活苦に陥ったと思われる」百姓にしても、所有している衣類の中に、絹の着物や反物が含まれていた・・・、ということは、「農民の衣類は木綿と麻に限られる」という、近世史の一般説・通説・俗説に違うというのです。

無学歴・無資格の「百姓」の末裔でしかない筆者は、成松佐恵子氏の卓見に感服しつつ、成松佐恵子氏の視点・資格・視座は、「百姓」は「百姓」であっても、「庄屋」の末裔のそれでしかないと考えてしまいます。

庄屋・西松家に質入れした、上記21人の百姓は、何のために、その衣類を質入れしたのでしょうか・・・? 成松佐恵子氏が指摘するように、「生活苦」・・・? もし、「生活苦」であるとすれば、その「生活苦」をもたらしたものは何なのでしょうか・・・? 質入れした百姓の家に病人が出て治療費がかさんだとか、一家の働き手を失って生活に困窮をきたしたとか、それとも、渋染一揆の「穢多嘆書」の中で指摘されているように、不作のため年貢の穴埋めをする必要があったとか。

近世幕藩体制下においては、女性の着物は、結婚したあとも女性の財産として保障されていました。結婚後の生活の現実と、結婚前の生活との間にギャップが生まれるのも珍しくなかったようですから、「生活苦に陥ったと思われる」・・・、百姓家から、妻の結婚前の着物・反物が出てきても別に不思議ではなかったと思われます。それは、盗品を取り調べる役人にとってもなんら問題はなかったものと思われます。

それに、質屋通いをする人々は、そもそも、「生活苦に陥ったと思われる」人々だったのでしょうか・・・?

近世幕藩体制下の長州藩の枝藩である徳山藩の記録をみますと、「凶作不熟」のおり、質屋に質入れする質草もなく、飢えて倒れていった百姓の数はおびただしいものがあります。質屋通いをすることができるということは、質草にすることができる、それ相当の資産を持っている・・・、ということを意味しますから、同じ「生活苦」が理由であったとしても、その内容を詳しく精査すべきであると思われます。

明治以降はいざ知らず、近世幕藩体制下の「質屋」は、民衆・庶民にとって身近な金融機関だったと思われますので、それを踏まえた、解明が必要であると思われます。

岡山藩渋染一揆の際の「穢多嘆書」の中に出てくる、「凶作不熟の其砌・・・持合たる衣類ニても質入御年貢皆済致候」という文言は、渋染一揆をおこした、近世幕藩体制下の司法・警察に携わった非常民としての岡山藩「穢多」の、ある種の経済的豊かさを表現したものであるとも解せるのです。

『江戸時代の村人たち』の著者・渡辺尚志氏は、庄屋が質屋業を兼業する意味を、「2章・村の借金」で明らかにしています。その解釈の可能性は、成松佐恵子著『庄屋日記にみる江戸の世相と暮らし』の「表」の中にもちりばめられています。

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