2021/09/30

忘れ去られた同心<悲話>

忘れ去られた同心<悲話>・・・?


近世史に関する書物を紐解いていますと、
「武士」支配の人びとを指すことばとして、「武士階級」・「藩士階級」・「諸士」・「御家人」・「陪臣」が使用されています。また、「役人」という言葉が使用されています。他にも、「郷士」なども使用されています。

これらの言葉は、どのような関連性があるのでしょうか・・・?

筆者の、この問いに光を当ててくれたのが、西島勘治著『御仕置帳にみる足軽・中間・陪臣の実像―長州藩の場合―』という論文です。

西島勘治氏は、「武士階級」を定義して、「苗字・帯刀を認められた人々」と定義しています。

長州藩の本藩と支藩の史資料の中から、「苗字」を持つことを許された人々、「帯刀」を許された人々の姿を探索してみますと、実にいろいろな階層の人々が存在しているのに気付かされます。近世幕藩体制下の司法・警察である非常民は、その末端の組織まで、「非常」のおりは、「帯刀」が許可されます。

「武具」を携帯する(帯刀する)ことができる人々のことを「武士」というのであれば、無学歴・無資格の筆者などには、よく理解することができるのですが、「武士階級」は、漠然とした、一般的概念であって、「近世幕藩体制下においては先祖は武士でした・・・」と聞かされても、それだけでは、「先祖」がどのような「先祖」であったのかは、理解することができないのではないか、と思わされます。

西嶋勘治氏は、「武士階級」は、さらに、「藩士階級」と非「藩士階級」に分かれていた・・・といいます。その場合、さらに、「藩士階級」は、「上級藩士」と「下級藩士」に区別され、「上級藩士」は「諸士」と呼ばれ、「下級武士」は「御家人」と呼ばれていたそうです。

近世幕藩体制下の司法・警察である非常民として活躍した「同心」は、「武士階級」といっても、「下級武士」の「足軽以下の身分」の「御家人」に帰属します。

西嶋勘治氏は、「上級藩士」(諸士)と「下級藩士」(御家人)の間には、「どうしても越え難い<階級的差別>が存在していた」といいます。「下級藩士」は、「いかに藩政の一翼を担わされていたとはいいながら、諸士の領域には一歩たりとも踏み込むことは許されなかった・・・」といいます。

「もし、この領域が侵害されるような事態に至ったときは・・・追込・過料・召放といった処分」がとられます。「御仕置」では、「偏に身分を忘れ緩怠の至り・・・」とか、「品を超えたる致方・・・」とか、「諸士之作法を真似候仕方・・・」とか、「不弁差別不心得・・・」とか、「下級藩士」にとっては、「屈辱」的と思われるような言葉が投げつけられます。

長州藩では、「御家人」という概念は、「藩士階級」だけでなく、非「藩士階級」に属する人々にも適用されます。それは、「陪臣」といわれる人々で、この「陪臣」と呼ばれている人々は、藩の「職階制」からはずされた人々のことです。簡単にいいますと、「藩士階級」を返上して、その役を下り、与えられた土地に帰農した人々のことです。

長州藩のいろいろな史資料から、この「陪臣」・・・、元「藩士階級」でありながら、「藩士」としての役を下りて、帰農して、百姓同然の暮らしをしている人々のことです。この「陪臣」、近世幕藩体制下においては、百姓同然の暮らしをしているといっても、「武士階級」は「武士階級」ですから、その髷は武士のまま、百姓同然の野良着を着て農作業をすることになります。

『部落学序説』の筆者は、この「陪臣」、「武士階級」でありながら「百姓」同然の農人として生きている人々を指して、「<御>百姓」という言葉が用いられたのではないかと思っています。

この「陪臣」、無役の元「藩士階級」ではありますが、非常時の場合は、「帯刀」して治安維持に従事することが求められます。しかし、通常の治安維持活動は、要求されることはありません。

「役」という概念は、「藩士階級」(上級藩士・下級藩士)だけでなく、「目明し」・「穢多」・「非人」・「村方役人」、「郷士」にも及びます。「目明し」・「穢多」・「非人」・「村方役人」は、場合によっては、「苗字・帯刀」が許されますので、おおざっぱな概念としての「武士階級」あるいは「準武士階級」に属することになります。この場合、同じ非常民といっても、戦時下の軍事ではなく、平時の司法・警察に関する「役」のみが要求されます。

「下級藩士」(御家人)の「足軽」の中から、「同心」が選抜されることになるのですが、この「同心」も、他の足軽同様、与えられた「役」に対して、その「任務の遂行に当っては、「その節を尽す」ことが厳しく求められ、しかも職場の内外を問わず、目付の下役としての下横目が常時巡回監視しており、法度に違背するような行為は、いかに細な事柄にせよ見逃すことなく摘発・・・」されたといわれます。

近世幕藩体制下の司法・警察である非常民として、治安維持の現場で活躍した、「穢多」役、「非人」役の<上司>である「同心」が、どのような状況に置かれていたのか、どのようにして、「その節を尽」していったのか、考察してみましょう。

「同心」に関する伝承(名和弓雄著『十手・捕縛事典』)によりますと、「同心」が身に着けていた「平時の服装」は、「羽織袴」です。

「羽織」の色は「黒色」と指定され、「与力」のように「色物」の「肩衣」(上着)の着用は許されませんでした。「与力」が身に着けたいた「肩衣」(上着)の色は「茶色」・・・。

「同心」は、「与力」の「茶色」の「肩衣」(上着)を身にまとうことを夢見ても、それはかなわぬ夢でした。しかし、幕末になると、「与力」が身にまとうものは、「肩衣」(上着)から、同心と同じ「羽織」に変えられ、その色も、「同心」と同じ「黒色」のみになりました。

このことはどう受け止めたらいいのでしょうか・・・?

「与力」は、格下げされて、「同心」と同じ服装、「黒羽織」を身に着けるように強制されたのでしょうか・・・?

幕末期は、近世幕藩体制から近代中央集権体制への移行期です。長い間鎖国によって、国内政治のみに関心があった幕府と諸藩は、開国によって、諸外国からいろいろな影響と圧力を受けるようになります。世情不安定が、近世幕藩体制下の司法・警察である非常民(与力・同心・目明し・穢多非人・村方役人)の職務に重くのしかかってきます。

幕末期、「与力」が、「与力」の特権、「同心」に許されなかった「茶色」の「肩衣」(上着)を身につけることを禁止され、「同心」と同じ服装、「黒羽織」と「袴」を身につけるようになったのは、身分の格下げではなく、世情不安によって増加する犯罪に対処するため、常日頃から、犯罪を未然に防ぐための予防措置に力を入れるようになったためであると思われます。

つまり、近世幕藩体制下の司法・警察である非常民(与力・同心・目明し・穢多非人・村方役人)の衣類は、身分制度上の身分をより明確に区別するためというより、犯罪者の探索・捕亡に即応し、機動力を高めるために仕立てられたものでした。

近世幕藩体制下の司法・警察である非常民(与力・同心・目明し・穢多非人・村方役人)の身につけた衣類は、その職務遂行上の「制服」のようなものでした。

「同心」の着物は、「走る時や、捕者の際に、裾さばきが自由であるように縫ってあった」そうです。つまり、素材とか、色とか、デザインとか・・・、ではなく、その職務を遂行する上での「制服」としての機能をもっていたものでした。機能重視の服装として、「袴をつけぬ着流しに、巻羽織というスタイル」が採用されたといわれます。

テレビの時代劇に出てくる「同心」のスタイルです。

犯人の逮捕のために、犯人を追いかける・・・、そのために、履いていたものは、「紺足袋に雪駄」でした。

「同心」は、「黒羽織」に「紺足袋」・・・。「紺足袋」の「紺」は、近世幕藩体制下の岡山藩で発生した「渋染一揆」の学者・研究者・教育者が、「差別の色」・「人をはずかしめる色」とする藍染の濃色・「紺」色です。

「同心」は、市中見廻りをするときは、「雪駄」を履いていましたが、「同心」より、身分の高い「与力」は、「平時の服装」の場合は、「裏白の紺足袋」と「草履」でした。「捕者出役の服装」の場合は、「紺足袋」に「草鞋がけ」でした。つまり、「与力」には、「草履」・「草鞋がけ」は認められていましたが、「同心」にさえ許されていた「雪駄」は許可されていませんでした。

「草履」より「雪駄」の方が高価ですし、品格があります。

しかし、「与力」の場合も、「紺足袋」を履くことが常であったということですが、「同心」だけでなく、「与力」の場合も、「岡山藩」の「渋染一揆」の学者・研究者・教育者が、「差別の色」・「人をはずかしめる色」とする藍染の濃色・「紺」色が用いられています。

もし、大江戸の街を、「与力」と「同心」が一緒に歩かなければならないとすると、どうなるのでしょうか・・・? 身分の高い「与力」が「草履」を履き、「同心」が、「草履」より贅沢品である「雪駄」を履いていることになります。近世幕藩体制下においては、身分を区別するための<形式>が重んじられていますので、その時は、身分の貴賎に合わせて適宜調整が行われます。

どういうことかといいますと、「礼を失する」おそれがある場合、「同心」の供をしていた「仲間」(ちゅうげん)が、帯にはさみ持っていた「同心」の「草履」を差出し、「同心」は、その「草履」と、それまで履いていた「雪駄」を履きかえるのです。

もし、「同心」の供をしていた「仲間」(ちゅうげん)が、「草履」を用意していなかったり、なにかの都合で、「同心」が供の者なしで出かけていたりした場合、どうなるのでしょう・・・? 「同心」は、「礼を失する」ことがないように、「雪駄」を脱いで裸足にならなければなりません。

晴れた日ならまだしも、雨の日は・・・?

雨の日も、「同心」は、「礼を失する」ことがないよう、雨に中、裸足にならなければなりません。

「与力」がはくことがない「雪駄」を、「与力」より低い身分の「同心」がなぜ、「雪駄」を履くことを許されたのでしょう。

「同心」は、「与力」以上に、現場でその職務を遂行することになりますので、「草履では、雨の時難義だし、高下駄では、切磋の捕者の時に困るので・・・」、「雪駄」を履くことが許されているのです。

「岡山藩」の「渋染一揆」の学者・研究者・教育者の方々は、伝承に伝えられた、「与力」・「同心」の衣類・履物、色・・・について、どのように、受け止められてきたのでしょうか・・・?

「与力」も「同心」も、身につけていた衣類は、近世幕藩体制下の司法・警察である非常民としての職務(役)を遂行するためのものでした。「与力」・「同心」の身につけていた衣類は、ただ単に身分を示すものだけでなく、その職務を遂行するに相応しい衣類として特別に仕立てられたものでした。今日でいう、警察官の制服のようなものです。

「岡山藩」の「渋染一揆」の関連史資料にでてくる、雨の日に、「見知候<御百姓>」にであった「穢多」が下駄を脱いで、「礼を失する」ことがないようにする様・・・、「同心」の所作と極めて類似しているとは思いませんか・・・?

『部落学序説』の筆者の目には、「同心」の所作も、「穢多」の所作も同じ類のものであると思います。筆者は、「同心」の所作の中にも、「穢多」の所作の中にも、身分上の「悲話」を読み込むこあとはありません。

なにしろ、「同心」も「穢多」も、おなじ、近世幕藩体制下の司法・警察である非常民ですから・・・。

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