2021/09/30

渋染の木綿羽織を身にまとった人びと

渋染の木綿羽織を身にまとった人びと・・・

喜田川守貞は、『近世風俗志』で、「酉の年大火事」の話を載せています。

喜田川守貞は、「酉の年と云へるは明暦3年なり。」と、その話の末尾で補足説明をしていますので、「酉の年の大火事」というのは、一般的に、「明暦の大火」と呼ばれている大火事のことです。

筆者は、小・中・高を通じて、自他共に認める<歴史音痴>でした。今も、その弊害なきにしもあらず・・・、です。

筆者が、『部落学序説』で、「渋染一揆」に関して論評をはじめるやいなや、「渋染一揆」の学者・研究者・教育者から、筆者の解釈は、「渋染一揆」の一般説・通説・俗説に反すると批判をされています。批判だけならまだしも、1年数ヶ月に渡って、金沢大学法学部教授・仲正昌樹氏が、『ネット時代の反論術』(文春新書)で研究対象にしている「理不尽な言い掛り」(筆者は、非難中傷・罵詈雑言とよんでいますが・・)にさらされてきました。

今回、半知半解のまま、「明暦の大火」について触れますと、またまた、「理不尽な言い掛」にさらされることは必定です。

金沢大学・仲正昌樹教授は、インターネット上の論争で、問題が複雑化するのは、「答えはひとつと思い込んでしまう人がなぜか非常に多い」ことに起因するといわれます。「自分の専門分野・・・においては、答えはひとつじゃないんだということが分かっている先生たちも、そこから少しはずれると見えなくなる・・・」といいます。特に、「社会科学的な問題設定で意見を言うときに、断定的な表現をしたくなる・・・」といいます。その「先生たち」の「本音」の発露です。

「渋染一揆」研究において、当時の権力者側の史資料(文献史学が依拠する史資料の多くは、権力側に偏った視点から記録されたものが多い・・・)に依拠しすぎますと、まるで、藩権力の代弁者のように、その説を繰り返すことになります。

しかし、筆者は、無学歴・無資格・・・、そのような、歴史学的訓練を一切受けていません。諸藩の史資料にかえて、被支配者側の百姓・町人、あるいは、同じ支配者といっても、下級武士のそれから学ぶことは、いささかもやぶさかではありません。

しかも、今日の「渋染一揆」の学者・研究者・教育者に対する反動から、『近世風俗志』の著者・喜田川守貞を絶対視することもありません。

近世幕藩体制下の池田藩の御用学者の衣類に関する洞察と、『近世風俗志』の著者・喜田川守貞の衣類に関する洞察との間の類似性を認識することも、無学歴・無資格の筆者には、何の制約もありません。

「明暦の大火」についても、手持ちの資料で十分です。

『広辞苑』で、「明暦の大火」を引きますと、次のように出てきます。「明暦3年(1657)正月一八~二〇日、江戸市街の大部分を焼き払った大火事。消失町数八〇〇町。死者一〇余万人。本郷丸山町の本妙寺で施飢餓に焼いた振袖が空中に舞いあがって大火の因をなしたといわれ、俗に振袖火事と称された・・・」。

日頃、お世話になっている『広辞苑』なので、批判はしたくないのですが、この説明、なにとなく違和感を感じてしまいます。『広辞苑』の説明では、消失したのは、江戸市民の住む800町、江戸の市民100000人・・・。ところで、江戸城や武家屋敷は、諸藩の武士とその家族は・・・、と思ったりします。

納得いかないので、古~い『平凡社百科事典』を開きますと、「明暦の大火」で消失したのは、江戸城西丸・大名屋敷500・旗本屋敷770・寺社300・蔵9000余・橋60・町屋400町・片町800町、そして、死者は、107046人・・・、と記されています。

『広辞苑』の「江戸市民の住む800町」というのは、『平凡社百科事典』の「片町800町」とイメージがだぶったりします。『広辞苑』の説明は、「明暦の大火」で焼失したのは、江戸の周辺部分だけであって、江戸城を核とする中心部分は難を免れた・・・、というイメージを与えます。

町人・百姓だけでなく、武士も大きな被害と尊い人材をうしなったしまった・・・、と推測されるのですが、「渋染一揆」の学者・研究者・教育者は、「岡山藩の渋染一揆と、江戸の大火事と何の関係がある、火事について触れるなら、岡山藩の火事について言及しろ。他藩の大火事の記録を参照するのは、考証学のルールに反する・・・」と、筆者をまたまた非難してこられるかもしれません。

しかし、筆者は、岡山藩の「渋染一揆」と岡山藩の「大火事」との因果関係に関心をもっているわけではありません。

筆者が関心をもっているのは、「渋染」・「柿染」と「火事」との関係です。

『近世風俗志』が語る「酉の年大火事」の中に、「渋染の木綿羽織」を身にまとった人びと・・・が、出てくるのです。それは、当時の民俗学者・喜田川守貞の集めた伝承のひとつですが、「庶民」の伝承を軽んじて省みないのは、「渋染一揆」の学者・研究者・教育者のおごりです。

無学歴・無資格の筆者に、喜田川守貞の「伝承」を「文献」で確認してから「物申せ・・・」と言われても、筆者は、根っからの無学歴・無資格、熊沢蕃山のいう「無学の平人」に過ぎません。「無学の平人」という言葉に秘められた反骨精神を共有しているといっても、それは、無学歴・無資格の典型である筆者、要望にお応えするには力にあまります。

「渋染」・「柿染」と「火事」との関係を考察するに、筆者は、喜田川守貞著『近世風俗志』に依拠する以外に、「渋染」・「柿染」と「火事」との関係を考察するすべがありません。

喜田川守貞は、「明暦の大火」における、「浅野因幡守」と「井伊掃部頭」、そして、その配下の武士集だが身にまとっていた衣類について言及しています。

そこにこのようなことばがあります。

五万石の浅野因幡守、藩主ではあるけれども、その節、「足軽どもの着し仕り候ごとくなる茶色に、ふすべたる革羽織に紋の付たるを着用あられ、家中にても五百石三百石ほどづつ取り候騎馬役の侍どもまで、残らず柿染の木綿羽織に大紋を付け着し仕り候。」といいます。井伊掃部頭も、「同前の羽織」を身に付け、その家臣の「侍」も、「皆々木綿羽織を着し仕りたることに候。」といいます。

喜田川守貞が、この記事を書いたのは、約100年後のことですが、手に汗を握るような描写です。

「伝承には、誇張がつきものだ・・・」とも言われますが、江戸の町を襲った、空前の「酉の年大火事」・・・。100000人の武士・町人・百姓が、荒れ狂う炎に巻き込まれ、あるいは、降りかかる火の粉が家と衣類に燃え移り、非業の死を遂げていく中、降りかかる火の粉をものともせず、江戸の城下を守ろうとする武士の一団がいた・・・、その武士たちの多くが身にまとっていたもの、それは、「渋染の木綿羽織・・・」

「非常民」としての備え、怠りなかった浅野因幡守と井伊掃部頭と、その家臣団・配下の者が身にまとっていたのは、防水・防火のための「火事装束」・・・。「酉の年大火事」のあと、「渋染の木綿羽織」をはおって、火の難を避け、江戸城下を守ったという話は、うわさとなってたちまちに、関東一円、日本全国に広がり、諸藩は、非常時の備えとして、「渋染の木綿羽織」を備えることにしたのであります。

それどころか、「火事装束」としての「茶色の革羽織」(値、一着三両)は、「中間風情のものまで」浸透していくのでございます。「武家方の足軽・若衆」だけでなく、「町人」も・・・、さらには、この世を捨てて出家した僧侶までも、常日頃から「火事装束」を整え、非常の備えとした・・・という、頃は酉年の大火事を機会に、流布いたいました「火事装束」としての「木綿渋染」についてのお話し・・・、あとがよろしいようで・・・、まずは、これまで・・・。

下手な講談の拍手にまじって、近世幕藩体制下の岡山藩の「渋染一揆」の学者・研究者・教育者の方々から、またまた野次が飛んできそうです。「伝承をうのみしないで、文献で証明しろ!」

文献、文献・・・と、はなはだうるそうございますな・・・。もうすぐ、春がくるゆえ、拙者、梅の枝にとまってなく鶯にならって、伝承、伝承・・・とさえずることにしましょうか・・・。

0 件のコメント:

コメントを投稿

『部落学序説』関連ブログ群を再掲・・・

Nothing is unclean in itself, but it is unclean for anyone who thinks it unclean.(NSRV)  それ自身穢れているものは何もない。穢れていると思っている人にとってだけ穢れている(英訳聖書)。 200...