2021/09/30

繊維産業の町に生まれて

繊維産業の町に生まれて・・・


『部落学序説』の筆者である私は、無学歴・無資格です。そして、先祖伝来、「百姓」の末裔です。

今回、その「百姓」の視点・視角・視座に立って、『禁服訟嘆難訴記』(岩波近代思想大系第22巻『差別の諸相』収録分)に出てきます、次の文章を批判・検証してみたいと思います。

「此度倹約筋取〆方、御百姓一統へ厳敷申渡候ニ付、穢多共一同へも右に准じ、衣類無紋渋染・藍染ニ限り候義、勿論之事ニ候」。

この文章に出てくる「無紋渋染・藍染」について、各種辞書・事典・史料・論文を参照して批判・検証した論文に、住本健次著《渋染・藍染の色は人をはずかしめる色か 「渋染一揆」再考》という論文があります。

住本健次氏の研究成果は、その論文を読んでいただくとして、無学歴・無資格の筆者は、自らの保有する史資料の乏しさを知りつつ、今回、手持ちの史資料を用いて、「渋染一揆」再考の中核ともなる「無紋渋染・藍染」について、あらためて、批判・検証を展開してみたいと思います。

筆者は、岡山県児島郡琴浦町に生まれました。今は、岡山県倉敷市児島琴浦町になっていますが、琴浦町は、今も昔も、繊維産義の町です。

筆者の生れた頃は、「町内に、ミシンの音の聞こえない家はない・・・」と言われたほど、至るところで、ミシンが踏まれていました。男も女も、ミシンを踏む姿はめずらしくありませんでした。

筆者も、母の内職のミシン踏みの音を聞きながら育ちました。やがて、カタカタという足踏み式ミシンの音から、電動式ミシンの音に変わって行きましたが、当然、琴浦町の町全体は、繊維産業の関連企業があふれていました。

筆者の同級生にも、縫製工場や染色工場の社長や工場長のむすこ・むすめが少なくなりありませんでした。

通っていた琴浦西小学校の東側に下村川が流れていました。その上流には、染色工場が数社ありました。同級生のおとうさんが経営されている工場です。その染色工場、当時は、生地を染色したあとの排水をその下村川にそのまま放流していました。そのため、下校時に、その下村川が、青や赤や黄色に、絵の具を流したように染まって流れていく光景を見ていました。

その当時は、公害とか環境汚染とか、そういう感覚に乏しく、琴浦町に住む大人もこどもも、その光景を見て、「わが繊維の町の繁栄の姿・・・」として認識していたのではないかと思います。

琴浦西小学校のすぐ側を流れる川、昨日、真っ青な色をしていたかと思うと、今日は、真赤な色をして流れている・・・、という光景は、決して珍しくなかったのです。

しかし、その下村川の河口付近に行きますと、河口周辺は、紺色の染料の染まり、魚や貝は死に絶え、その死骸と染料の入り混じった腐敗臭がしていました。

染める前は、無色(白色か、それに近い色・・・)の布は、化学染料でそめあげられると、とてもきれいないろいろな色の布になります。

近代以降の日本における繊維の染色は、化学染料が使用されるようになったのですが、古代から近世幕藩体制下においては、当然、化学染料はなく、自然の染料を用いて、染色が行われていました。

「渋染一揆」の史資料の中に登場してくる「渋染・藍染」は、草・木・花を用いて行われていました。自然に存在する草・木・花を採集、加工して、染料として用いるのです。

現代社会では、趣味や民芸品の生産の領域で、草木染めとして行われているのとほぼ同様の方法で染色が行われていました。

筆者のこどもの頃は、近所のおばあさんが、古いタライに水をはり、染料を入れて、古い、色あせた着物を染色しなおしている光景を何度も目にしました。おばあさんの着物は染色し直されて、孫の着物として再生されていたのです。

今回は、そんな、岡山県琴浦町に生まれて育った筆者の、しかも、無学歴・無資格の筆者の経験と、染料・染色に対する「前理解」を踏まえながら、「渋染一揆」の「無紋渋染・藍染」について、それが何を意味していたのか、考察してまいりたいと思います。

筆者は、すでに、『部落学序説』で、《誤解された渋染一揆》と題して執筆しています。重複はできるかぎり避けることにして、今回は、「無紋渋染・藍染」にのみ限定して論述してまいりたいと思います。

『部落学序説』は、すでに、第5章・水平社宣言批判に入っていますので、「部落学序説付論」として執筆することにしました。

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