2021/09/30

部落差別になじまない、岡山藩主・池田光政の政治理念と実践

部落差別になじまない、岡山藩主・池田光政の政治理念と実践

前回、「岡山藩」の藩主・池田光政の藩政にかかわるときの基本的な姿勢について言及しました。

「私」の利益追求を排し、「公」の利益追求に徹し、「領分の下々百姓までこつじき(乞食)ひ(非)人もなく、国あんおんに治」めることである・・・、との自説を明らかにする岡山藩主・池田光政の藩政の基本方針・・・、「岡山藩」の「渋染一揆」の学者・研究者・教育者の方々からは、「それは、藩主の建前であって、本音ではない。本音は、「両山乞食」に見られるように、乞食・非人を制度化して差別したではないか・・・」と反論されるかもしれません。

しかし、《熊沢蕃山の生涯と思想の形成》の著者・後藤陽一氏は、藩主・池田光政の、藩民から、「一人の乞食や非人も出さない・・・」(部落史の学者・研究者・教育者がいうところの「賤民」)という藩政の基本方針は、実践によって裏打ちされていた・・・、と指摘します。

承応3年(1654)7月、「岡山藩」の藩主・池田光政の藩政理念の「真価を問われる」ような事態に遭遇します。

「岡山藩では旱魃に続く大洪水」が発生、そのとき甚大な被害がでます。「流出崩壊の家屋」、「士屋敷439軒、歩行・足軽屋敷573軒、町屋433軒、農家2284軒」、「荒廃した田畠、高1万一六六〇石余」、「流死者156人」、「そのほか各地の橋・池・井堰・堤などの破壊おびただしく、かつ引きつづいて起こった大飢饉では、餓死者3684人を数えるという未曽有の大災害に見舞われた・・・」のです。

そのとき、後藤陽一氏は、藩主として「天与の試練」として受け止めた池田光政は、みずから「陣頭指揮」にあたって、「罹災民の救恤と災害復旧」のために全力をそそぐのです。相次ぐ、旱魃・洪水・飢饉の深刻さは、藩主・池田光政の思いをはるかに超えていたため、結果的には、多くの藩民を失うことになったようですが、その過程において、岡山藩主・池田光政がどのような治世をしたか・・・、後藤陽一氏は、詳しく紹介しておられます。

藩主・池田光政、「罹災民の救恤」だけでなく、「飢人の救恤」のために、岡山藩の米蔵を開放、「一粒の米をも残さず放出し、不足の分は他国米を買入れたり、大阪蔵屋敷の蔵米を取り戻して」、それにあてたといいます。

その施策の中で、罹災していない「小百姓」のことが問題になります。偽って、被災者のための「救済米」にあずかろうとするものが出てきますが、藩主・池田光政、「小百姓らの偽りを警戒するあまり救恤にもれる者があってはならない・・・」といったといいます。

以前、北九州市で、生活保護の不正受給を阻止するために、ほんとうに生活保護が必要な人々がそれを受給できず、食べるものもなく、孤独死した・・・、という事例が何度も報道されていましたが、<いずれが現代で、いずれが近世か・・・>、筆者、判断に迷うような事例があいついでいます。

日本の現代の政治・・・、近世幕藩体制下の岡山藩の藩主・池田光政の、基本的政治理念、「私」を退け、<公>に徹し、「領分の下々百姓までこつじき(乞食)ひ(非)人もなく、国あんおんに治」めることであるとの姿勢に、はるかに及ばない、と、筆者は思うのです。

岡山藩主・池田光政、「だまされ候ては米少のついゑにて候、人を殺事大きなる為に悪事にて候・・・」といったといいます。

生活保護の不正受給を排除するため、その申請を厳しくしたため、生活保護を受けることができずに孤独死・餓死していく・・・、それを、岡山藩主・池田光政の視点からみますと、藩政の瑕疵によって、政治的に「人を殺事」と同じであり、「悪事」である・・・、というのです。

現在の日本の政治家・官僚・行政担当者・・・、「官」にありながら、「国民」の利益のためではなく、おのれの「私」的利権の追及にあけくれ、「国民」の税金や年金を湯水の如く浪費して、なんら非難されることも処罰されることもなく、「逃げ得」を決め込む姿勢は、近世幕藩体制下の岡山藩主・池田光政の、「私」的利権を排し、「公」に仕え、「領分の下々百姓までこつじき(乞食)ひ(非)人もなく、国あんおんに治」めることを大事にする姿勢とはまったく正反対の姿勢です。

現代の政治・・・、近世幕藩体制下にあっても、悪しき政治そのものです。岡山藩主・池田光政がいう、「国を守り民を治めるの職分」を忘れ、武士の奢り高ぶりのつけを、藩民に対する過酷な課税によって切り抜ける・・・、まつりごとの「天命」に反する、典型的な悪しき政治、そのものです。

旱魃・洪水・飢饉の被害を前に東奔西走する岡山藩主・池田光政をまのあたりにして、近世幕藩体制下の「穢多」は、どのようにふるまっていたのでしょうか・・・? 

『部落学序説』の筆者としては、「岡山藩」の史資料を直接閲覧できる場所に身を置いていないので、史資料をあげて説明することはできませんが、長州藩の枝藩である徳山藩における、旱魃・洪水・飢饉の最中、当時の「穢多」身分の人々がどのようにふるまっていたのか、その史資料から、「岡山藩」のそれを類推するに、「岡山藩」の「穢多」は、当時の司法・警察官として、「岡山藩」の諸士と共に、罹災者・飢餓人などの救済活動に、「庶人の官にあるのたぐひ」として、全力を尽くしてあたっていた・・・、と想定することは決して難いことではありません。

「庶人にして官にあるのたぐひ」に帰属する、「岡山藩」の「穢多」は、「岡山藩」の藩主・池田光政の「仁政」の手であり、足であったと思われます。

そのことを証明する史資料は、「岡山藩」の史資料にもかならず残っているはずです。

いままで、部落研究・部落問題研究・部落史研究の学者・研究者・教育者によって、そのような史資料の発掘が遅れてきたのは、たとへ発掘されたとしても、「部落史研究の例外事項」として、部落史研究の視野から遠ざけられてきたのは、部落研究・部落問題研究・部落史研究の学者・研究者・教育者の中に、無意識的に、潜在的に存在する、差別思想である「賤民史観」が強く影響していたためではないかと思われます。

かっての戦争時のように、多くの日本の学校教師は、その教え子に、「お国のためにその命をささげよ」と教え、善意と使命感から戦場へと送り出し、尊いこどもたちの命を散らしてきました。そのとき、学校教師は、どのように戦前を清算し、戦後の教育にかかわっていったのでしょうか・・・?

教科書に、黒い墨を塗って糊塗してきただけのでしょうか・・・?

戦後の同和教育・解放教育についても同じです。善意と使命感から、同和対策事業・同和教育事業にかかわってきた日本の学校教師・・・、特定の政党や政治団体、運動団体の「非難中傷・罵詈雑言」を前に、沈黙したり、その足跡を、墨で塗りつぶし、自己を免罪するような愚をおかしてほしくないと思います。

大切なのは、不都合なことを墨で塗りつぶすことではなく、戦後の同和教育の中で何が行われていたのか、真実を明るみにだし、後世のために、真の人間教育、人権教育が何であるのかを明らかにすることではないでしょうか・・・?

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