2021/09/30

木綿の「藍染」と「渋染」の用途の違い

木綿の「藍染」と「渋染」の用途の違い・・・

「言葉」というのは、時代と共に変化します。

同じ「言葉」を使用していても、時代が変わると、その「言葉」の意味内容も変わってしまう・・・、ということは決してめずらしいことではありません。

そのため、歴史学の学者・研究者・教育者は、その「言葉」の歴史的変遷を考慮しつつ、研究をすすめ、論文を執筆します。

しかし、変化するのは、「言葉」だけではありません。「色」も時代と共に変化します。染色技術の進歩は、この世の中に、新しい色彩をもたらします。その「色」は、流行色として、多くの人びとにもてはやされます。「色」は、時代と共に絶えず、変化し、様変わりしていくのです。

それは、岡山藩の「渋染一揆」の史資料に出てくる「渋染・藍染」についても同じことがいえます。今日、「渋染・藍染」として一般的にしられている色と、「渋染一揆」一揆の時代の「渋染・藍染」の色が同じ色であるという保障はどこにもありません。仮に、「渋染・藍染」の木綿生地が現代まで保存されていたとしても、それは、時の流れの中で変色したり、色褪せたりして、昔の色を伝えているとは限りません。

『女重宝記・男重宝記』(教養文庫)の中に、雨漏りで「藍染」の衣類にしみができた場合の、そのしみの落とし方が記されています。

「紅染(もみそめ)、藍染(あいそめ)などに漏雨(もりあめ)のかかりたるは、塩湯にてすすぐ」。

「藍染」の衣類というのは、「雨」にあたると、変色しやすい・・・、という欠点を持っているようです。

同じ、『女重宝記・男重宝記』の中に、「藍のもの落とす」(脱色する)方法が出てきます。酸性染料の「藍染」を脱色するには、アルカリ性の「石灰水(いしばいみず)にて煮れば落つるなり。」とあります。

つまり、「藍染」の木綿は、晴・曇天の日にふさわしい生地であるといえます。もちろん、生地の織り方によって、雨にあたってもほとんど影響を受けない織り方もありますが・・・。たとえば、筆者の生まれ故郷である、岡山県児島郡琴浦町は、学生服の町ですが、学生服の生地などがそれにあたります。

それにひきかえ、「渋染」は、雨にあたったくらいでは、しみになったり、変色したりしません。

『女重宝記・男重宝記』には、「茶染めを落とすには、酒にて煮れば落ちるなり。」とあります。アルコールに浸して加温すれば脱色する・・・、というのですから、渋染の木綿生地は、防水加工された木綿生地になります。用途は、雨天用の衣類・火事装束・・・などです。

「藍染」の木綿の衣類が、晴天・曇天用の衣類なれば、「渋染」の木綿は、雨天・災害用の衣類である・・・、ということになります。

近世幕藩体制下の岡山藩が、その「穢多」に、「渋染・藍染」をセットで「統制」しようとしたのは、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての、配置された村の治安維持につとめるためには、晴天・曇天の日だけ、御用を勤めればいい・・・、というわけではありません。

場合によっては、雨や雪、集中豪雨や台風のときに、「非常民」として出動しなければならない場合が生じます。そのとき、意味を持つのが、「藍染」の衣類ではなく「渋染」の衣類です。「渋染」は、水と火の粉から、「非常」時に、「非常」民として、その職務を遂行する「穢多」の身を守ることになるのです。

無学歴・無資格の筆者が、そのようなことを書くと、『部落学序説』の読者の方から、またまた、「独断と偏見」、「妄想」であると批判されることになるかも知れません。

木綿の「無紋渋染」がどのような意味をもっていたのか、史資料を踏まえてご紹介申し上げる前に、近世幕藩体制下において、「渋染」とは何であったのか、そして、「渋染」という方法で染色された木綿の色はどんな色であったのか、近世幕藩体制下の衣類に関する<民俗学者>である、喜田川守貞の「渋染」に関する定義を一瞥してみましょう。

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