2021/09/30

地名に関する禁忌

被差別部落の地名の表記方法に関する問題について、雑誌『地理』(第36巻1号・1981年1月)に掲載され《部落問題の地理学的研究と地名表記の問題点》という文章があります。

この文章の執筆者は、灘本昌久というひとです。

彼は、こぺる編集部編『部落の過去・現在・そして・・・』(阿吽社)の中で、次のように自己紹介しています。「私は1956年生まれで、満32歳。2人の子持ちです。私はまったく部落の外に生まれて育ちました。父方も母方もみな部落民ですから、血統的にはサラブレッドのような「賤民の後裔」なんです。父方の祖父は融和事業で村には顕彰碑がたっています。母方の祖父は、大阪の豊中水平社の創立者です・・・」。

彼は、京都大学文学部歴史学科で現代史を専攻され、現在、京都産業大学文学部教授をされておられる方だそうですから、《部落問題の地理学的研究と地名表記の問題点》という文章は、「被差別部落出身者」であると同時に、高学歴・高資格の灘本昌久によって書かれた文章であるということになります。

この文章は、地理学的研究における地名の取り扱い方について論じたものですが、この文章には、灘本昌久の部落研究・部落問題研究・部落史研究の学者・研究者・教育者としての「理屈」と、「被差別部落出身者」としての「感情」の両方が滲み出ています。

灘本昌久は、学者・研究者・教育者としての地理学的研究における地名の取り扱い方についての一連の考察を、「理論」とよばないで、「理屈」と呼んでいるところをみると、灘本昌久は、「被差別部落」の地名の取り扱いかたについて、まだ自他共に納得させる方法にたどりつけていないということを示唆しています。

『広辞苑』によると、【理屈】というのは、「①物事のすじみち。ことわけ。②こじつけの理由。現実を無視した条理。また、それを言い張ること。・・・」だそうですから、灘本昌久は、学者・研究者・教育者による被差別部落の地名の取り扱い方については、①ではなく、②の意味でとらえていると言えるのではないかと思います。

灘本昌久が「理屈」と呼んでいるところのものは、次のような見解です。

「基本的には部落の地理学的研究で部落を対象とした場合でも、地名は極力記すべきであり、みだりに伏せるべきではないと考えている。そのことによって、当該地域に不利益が生じる可能性がゼロとはいえないが、それは部落問題を問題として考えはじめた途端にさけられない危険性である。研究に限らず、例えば、ある部落が部落解放運動に立ち上がることは、すなわち内外に自分たちが部落民であることを宣言することにほかならず、そのことによって生じるある種の「危険性」は論文で地名が表記されることの比ではない。しかし、そうした危険性をゼロにする方法はないわけで、あるとすれば部落問題をいっさいとりあげないことに帰結する以外にはない」。

灘本昌久は、そう綴ったあと、「しかし、理屈でそう割り切ったとしても・・・」と文章を続けています。

灘本昌久は、被差別部落の地名の取り扱い方について考察しておきながら、それは、「理論」ではなく「理屈」でしかない・・・と言っているのです。

「基本的には部落の地理学的研究で部落を対象とした場合でも、地名は極力記すべきであり、みだりに伏せるべきではないと考えている。」と考察した、その直後に、「そのことによって、当該地域に不利益が生じる可能性がゼロとはいえないが、それは部落問題を問題として考えはじめた途端にさけられない危険性である。」と、警告とも悲鳴ともとれることばを発しています。

灘本昌久の発想では、「被差別部落に不利益が生じる可能性」を無視して被差別部落の地名を実名記載するか、それとも、「被差別部落に不利益が生じる可能性」を極力避けるために「部落問題をいっさいとりあげないことに帰結する」か、二者択一の道しかない・・・と考えられます。

灘本昌久の発想を前にすると、被差別部落出身ではない学者・研究者・教育者は、前者を避け、後者を選択せざるを得ないでしょう。ほとんどのひとが無関心を決め込む部落差別問題にかかわる学者・研究者・教育者のほとんどは、あえて「被差別部落に不利益が生じる可能性」のある方法を採用するとは思えないからです。

灘本昌久は、具体的な事例をあげてこのように記しています。「ある公共図書館で古地図などの展示会を開催したところ、その片隅に「穢多村」と描かれているのが見つかり問題化したことがある。実際には、その旧「穢多村」には、現在さまざまな同和事業に基づく住宅や病院、会館などがたちならんでおり、古地図に「穢多村」と出ていたところで今さら実害などあろうはずもないのだが・・・」。

そう発想する理由は、先に紹介した文章に出てくるように、「ある部落が部落解放運動に立ち上がることは、すなわち内外に自分たちが部落民であることを宣言することにほかならず、そのことによって生じるある種の「危険性」は論文で地名が表記されることの比ではない。」という認識が働いているからです。被差別部落の地名を、学者・研究者・教育者が実名記載するよりも、被差別部落の中で部落解放運動を展開する方が、「被差別部落に不利益が生じる可能性」が大きいというのです。

『部落学序説』の筆者の目からみると、両者をそのように単純に見ていいのかどうか・・・、検証する余地なしとは思えません。学者・研究者・教育者が、その論文に被差別部落の地名を実名記載することは、文書として、全国的に拡散した形で永遠に残すことになります。しかし、全国の部落解放運動の中には、その記録をいっさい残さない形での運動もなしとしないからです。その場合、灘本昌久が指摘しているような、「ある部落が部落解放運動に立ち上がることは、すなわち内外に自分たちが部落民であることを宣言することにほかならず、そのことによって生じるある種の「危険性」は論文で地名が表記されることの比ではない。」という認識は事実とまったく反した内容になってしまいます。

灘本昌久もその可能性があることを認識しているからこそ、「理論」ではなく「理屈」としてしか思えないのでしょう。

彼の感じている「理屈」としてのわりきれなさは、『京都の部落史』(全10巻)の地名表記に関する言及の中で明らかにされています。その書においては、「明治19年臨時穢多非人調書」にとりあげれている被差別部落の地名は「あまりにも網羅的であり、また一覧性も高いので・・・郡名だけを残して村名以下を省略してしまった」といいますが、その結果、「歴史資料としては使いようもないもの」になってしまったといいます。

灘本昌久は、「冷静に考えれば、史料に出てくるのは古い地名であり、現在に及ぼすようなものではない・・・」とくりかえし表現していますが、彼は、被差別部落の地名の実名記載について考察を重ねた結果、「部落問題研究で祿をはんでいる私たちのようなものでさえ、確固たる方針が出せないのだから、人様に提言などできた筋合いではない・・・」と思考を中断してしまいます。

そして、当時、若干35歳の灘本昌久は、「被差別部落に不利益が生じる可能性」を無視して被差別部落の地名を実名記載するか、それとも、「被差別部落に不利益が生じる可能性」を極力避けるために「部落問題をいっさいとりあげないことに帰結する」か、というジレンマを克服して、「若い世代の研究者諸氏」が「具体的な地区を対象としてのフィールドワークに基づいた研究」を期待して、その文章を閉じているのです。

而立と不惑の間にある灘本昌久が耳順の思い(若い研究者の研究に耳を傾ける)を語るのは、どううけとめていいものやら・・・。

灘本昌久が、被差別部落の地名の表記方法に関する問題について考察を重ねながら、それを総体として「理屈」としてしか表現できないのは、「被差別部落」のひとびとの中に、「部落の地名表記に関する過剰な反応」が存在しているからです。現代の部落差別は、「現在もしくは過去に部落に居住していたかどうかによって、部落民としての血統を擬制的に確認」する差別システムですから、「部落地名総鑑」などによって「被差別部落の在所をしめした一覧表」として流布されるようになると、就職・結婚時に被差別部落のひとびとに不利益をもたらしかねないというおそれがあるからです。

灘本昌久は、「被差別部落」のひとびとの中には、被差別部落の実名記載について、「感情をいたく刺激され」るひともいるというのです。灘本昌久は、被差別部落出身者としての側面から、そのような感情を「自然な感情」として無条件に受容しているようです。運動団体が、その素朴な、被差別部落の「自然な感情」を、部落解放運動の中でストレートに反映することについては批判的なようですが、灘本昌久自身、被差別部落出身者として、その「自然な感情」に深くとらわれているのです。

灘本昌久の、学者・研究者・教育者であるがゆえに持っている「理屈で割り切った結論」と、被差別部落の出身者であるがゆえにもっている「個々の部落住民の感情」とは、「差別の現実が消えない限り、なかなか一致するものではない。」といいます。

部落差別の完全解消への道は、被差別部落の具体的な地名・人名・歴史・文化に言及することなく可能なのか、それとも、被差別部落の具体的な地名・人名・歴史・文化に言及していくなかで、部落差別の完全解消が可能になっていくのか・・・、若干35歳の灘本昌久は、その考察すら中断し、放棄し、その精神的葛藤から遠ざかってしまったようです。

《部落問題の地理学的研究と地名表記の問題点》という小論文は、『部落学序説』の執筆計画をたてている段階で、すでに目にしていました。灘本昌久のかかえたジレンマを想定しながら、無学歴・無資格の筆者がない知恵をしぼりだして考え出したのが、被差別部落の地名の絶対座標(実名)を避け、被差別部落の地名と地名の相対座標として表現するという方法でした。

『部落学序説』の中で、近世幕藩体制下の長州藩の有名な「穢多寺」の写真を掲載しています。掲載してから相当長い月日が経過するのですが、どなたからも差別であるという指摘はありません。山口県の浄土真宗のすべての寺院を訪ねれば、その寺がどこのあるのか判ってしまいます。それでも、今に至るまで差別的であるとの批判はありませんでした。長州藩の四カ所の「穢多寺」・・・、それは東西南北に配置されていますので、筆者のいう相対座標で「長州藩東穢多寺」・「周防国東穢多寺」というのは、長州藩の被差別部落の歴史を少しく調べれば、その寺が聞光寺であることはすぐにわかります。『部落学序説』の筆者としては、聞光寺と表現して、被差別部落のひとびとや、そのとりまきの学者・研究者・教育者の神経を逆撫でするよりは、相対座標で「長州藩東穢多寺」・「周防国東穢多寺」と表現する方がよりベターであると考えたのです。

『部落学序説』の筆者である私は、「部落地名総鑑」の実物を一度も目にしたことはありません。

「部落地名総鑑」に、被差別部落に関するどのような情報が、どのような方法で掲載されているのかまったく知りません。そのため、「部落地名総監」問題について、批判検証の方法がないのです。「部落地名総監」がなんであるのか確認しないで、部落地名総監について論じるのは、批判検証の名に値しないと思います。

被差別部落の住所が、リストの形で全国に配布される・・・


各地方の、被差別部落のある地域においては、いわずもがなであっても、その被差別部落の地名が全国的に知れ渡る・・・、ということに、「感情をいたく刺激され」、「過剰な反応」を示す被差別部落のひとが存在しているであろうことは想像に難くありません。

以前にも書いたことですが、筆者が20数年棲息している山口県下松市では、過去、同和対策事業が行われた地域というのは、3箇所あります。AとBとCです。

しかし、一般的には、下松市の被差別部落は一カ所であるといわれています。灘本昌久が、被差別部落出身の学者・研究者・教育者として採用した「郡名だけを残して村名以下を省略・・・」式の方法で、山口県の被差別部落の多くは、被差別部落を含む大字名の被差別部落として表現されています。

筆者は、山口県下松市の小さな教会に赴任して日の浅いころ、大字の全所帯の名簿を入手しました。それは、下松市の行政が作成したもので、「住所・地番」・「世帯主名」・「通称・番地」が掲載されています。「住所・地番」というのは、正式名称で、「通称・番地」というのは、通称にあたります。

問題は、その通称に、上記A・B・Cの被差別部落名が記載されているということです。

名簿そのものは、「住所・番地」順にならんでいます。

あるとき、部落解放同盟の方と、その名簿を分析したことがあります。ゼンリンの住居地図で、その番地を確認して、マーカーで色分けをしていくのです。すると、意外な結果に驚いたのです。被差別部落名Aの記載された地番は、ゼンリンの地図上では、A地区を越えて、Aの周辺地域のD・E・F・・・にも存在していたのです。

可能性とした考えられたのは、被差別部落Aというのは、地図上のAという地域のことではなく、Aという地域の住人とされた「被差別部落民の集合概念」であるということでした。ゼンリンの地図上のA・B・Cには、混住化がすすみ、一般地区のひとびともその地域に住んでいるのに、その名簿においては別の通称名が記されている・・・という驚くべき結果でした。

部落解放同盟の方は、山口県では、このような名簿は広く出回っており、部落解放同盟の方もなすすべがなく放置されているといっていました。

「部落地名総監」において、下松市の被差別部落がどのように記載されているのか、見たことがないのでわかりませんが、それを見て、「このひとはAに住んでいたから、被差別部落出身である」とか、「このひとはAに住んでいるから、被差別部落出身である」と安易に判断することは、どのような意味合いにおいても大きく判断がくるうことになってしまいます。

『部落学序説』の筆者である私には、農村部の被差別部落と違って、都市の農村部は、日本全国、下松市の被差別部落とおなじような状況にあるのではないかと思われます。被差別部落の固有の「地名」でもって知られている被差別部落の外延と内包は大きく異なっているのに、「部落地名総鑑」などでは、いぜんとして、「地名」が被差別部落の実態を伝えているように表現されているのではないかと、推測せざるを得ないのですが、なにしろ、「部落地名総鑑」を見たことがないので、推測の域を脱しません。

被差別部落の地名を「禁忌」(タブー)状態におくことは、被差別部落の都市化、混住化、住居表示変更、区画整理事業などによって、あいまいにされた被差別部落の中に移り住んだ、あるいは、行政によってその中に算入された、被差別部落出身者ではない一般のひとも、被差別部落住民として他者の差別的なまなざしの対象にされている・・・、そのことを許す結果になっているのではないかと思います。

そういう意味では、「部落地名総鑑」を差別文書として葬りさる前に、「部落地名総鑑」によって具体的に誰が、どのように被害をうけることになるのか・・・、精確に検証する必要があります。「部落地名総鑑」の地名の不精確さの解明は、「部落地名総鑑」の価値を著しく減少させるものになるのではないかと思われます。

灘本昌久のいう、被差別部落の地名の実名記載について、「理屈」も「感情」もともに持ち合わせていない筆者は、冷徹に、被差別部落の地名にまつわる「禁忌」(タブー)を取り除いていくのみです。

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