2021/09/30

「賤民」つくらぬが岡山藩主・池田光政の統治理念

「賤民」つくらぬが岡山藩主・池田光政の統治理念

「岡山藩」の御用学者・熊沢蕃山を、300石取の「下士」の家柄から3000石の「上士」の職に抜擢したのは、藩主・池田光政の独断によるところが大きいようです。

《熊沢蕃山の生涯と思想の形成》の著者・後藤陽一氏によりますと、藩主・池田光政による熊沢蕃山の重用に対して、「岡山藩三老中」のうち池田出羽は、「熊沢が事がてん不参由、何事やらん数々申聞候へ共、一ツもやくに立事無之候」と不満をのべた・・・、といいます。

「蕃山の意見は理解できないものが多く、まったく役に立たぬ・・・」というのですが、藩主・池田光政は、老中・池田出羽に対して、藩主の「志をたすけて」、藩主と「同心同徳」を持つことを「切望」するのです。

藩主・池田光政によって、熊沢蕃山の「学問」は、「岡山藩」の「国政の機軸」にすえられるにいたるのです。

「岡山藩」の3老中のうち、2人の老中は、藩主の方針を容認し、1人の老中が、その方針に異議を唱えた背景には、当時の、「岡山藩」における「倹約」について、二様の見解があったものと思われます。

藩主・池田光政は、「諸士倹約を守、軍用を専仕候様こと申付候へ共・・・」、藩内には、「家中の士の軍役のつとめの、ことにおろそかにされている・・・」現実のあることを指摘し、「倹約」の本旨を徹底し、「国を守り民を治めるの職分」を尽くすように訴えています。

藩主・池田光政は、国用・軍用にあたる、藩の要職たちが、身をもって藩内の諸士の模範とならなければならないのに、「倹約」を忘れ、「近年家中のてい道をはなれ、家職おこたつて遊山気ずいにのみおぼれぬ」と、「家中の士風の頽廃」を嘆き、戒めているのです。

藩主・池田光政は、藩主として「仁政」を行うには、「諸士」「倹約」の徹底を避けて通ることができないというのです。

「岡山藩」は、最初から、「倹約」について、二様の考え方が存在していたのです。「倹約」の精神に徹し、「士一等」(武士身分)が、「国を守り民を治めるの職分」・「家職」に励む道と、「家職おこたつて」贅沢三昧の生活に堕する道と・・・。藩主・池田光政は、後者の立場に立つ、「士一等」は、華美と贅沢に走り、家計破綻し、借財を重ね、非常の時になにの役にも立たない状況にある・・・、というのです。

慶安3年(1650)のことです。

「倹約」の趣旨を、藩主と共に共有できない「諸士」は、藩主と「同心同徳」にあらずというのです。藩主の説く「倹約」の趣旨に反するものは、「岡山藩」の藩政に携わる藩主と「同心」ではなく、「岡山藩」の藩政が指向する「仁政」とは「同徳」ではない・・・、と厳しく「家中」を戒めたというのです。

その岡山藩主・池田光政、池田光政の「仁政」をこのように語ったといいます。

「当国を我等に被仰付候を、私の国と少も不存候」。

池田光政が、その統治を委ねられた「岡山藩」31万石は、池田光政にとって、「私の国」ではない・・・、というのです。「私の国」なら、藩主の意のままに、藩政を行うことができるが、池田光政にとって、「岡山藩」は、「私の国」ではなく、「領国の政治」を行うためにあずかっているに過ぎない・・・、というのです。

「岡山藩」の藩政は、藩主とその家臣団の「私」によってに左右されるべきものではなく、「公」のために担われるべきものであり、藩政にたずさわるものは、法度に従って、「正路」をまっとうしなければならないというのです。

池田光政、「岡山藩」の藩政は、そのまつりごにあずかる「諸士」は、「倹約を守、軍用」に専念し、「国を守り民を治めるの職分に「天命を恐れ」る志を新たにする」必要があるというのです。

「岡山藩」主・池田光政の「仁政」は、「私」を排し、「公」に徹するがゆえに、「領分の下々百姓までこつじき(乞食)ひ(非)人もなく、国あんおんに治」めることであるといいます。

『部落学序説』の筆者、「百姓」・「常民」の視点・視角・視座から一連の文章を書いていますが、近世幕藩体制下の外様大名・池田光政の考える政治理念・・・、現代の党利党略・私利私欲に走る、官僚・政治家、そして、行政機関の担当者・・・、その腐敗と頽廃、職務逸脱の実態を、マスコミの報道を通じて知るにつけ、現代の政治家・行政担当者は、近世幕藩体制下の一地方大名のそれにはるかに遠く及ばない・・・、と考えてしまいます。

藩政の目標とするところは、「私」を排し、「公」に徹するがゆえに、「領分の下々百姓までこつじき(乞食)ひ(非)人もなく、国あんおんに治」めることである、と主張する藩主・池田光政の政治理念には、「格差容認」という姿勢はありません。封建的身分制度という枠組みの中にあっては、その限界があるものの、武士が奢りたかぶり、農工商の百姓身分を虐げ、搾取することを禁じているのです。

藩主・池田光政、「岡山藩」の藩政においては、「百姓」が、こころおきなく「百姓の耕作」ができるよう、その「落着き」をはかるのが、「諸士」のつとめであるというのです。「一人の乞食や非人を出さない」政治・・・、「岡山藩」主・池田光政が、藩内の「百姓」(農工商)から「名君」と慕われる所以です。

熊沢蕃山も、池田光政から預かった知行3000石の地において、その家来に、土を耕させます。武士は本来「農兵」であるという蕃山の主張があるのですが、蕃山とその家来・・・、自ら、「士一等」「庶人の官にあるのたぐひ」を含む)にありながら、「庶人一等」のなりわい(農)を共有するゆえに、「岡山藩」の農政における諸問題の解決に着手します。

「熊沢蕃山」が自らの実践を踏まえて、藩主・池田光政に、藩内の農政に関する諸問題に対して、「廃止ないし中止・修正」を必要とすることがらとして、「国中迷惑仕候」として、次の諸事項を提言したといいます。

一、新田・水ぬき等の諸普請の中止
一、<郡中の百姓に対する高金利の貸付け禁止>
一、在横目・作奉行の廃止
一、田畑上中下の札の廃止
一、在々願い書の廃止
一、耕作人武士に対し笠ぬぎ、じぎ(辞儀)仕り候事の廃止
一、昔なききびしき法度の廃止
一、衣類・刀・わきざし等御法度の修正

「百姓」が「耕作」をしているとき、つまり、「百姓」身分が、その本来のつとめである「耕作」をしているときは、「岡山藩」の「武士」は、「百姓」に対して、「笠ぬぎ、辞儀仕り候・・・」ように強制できないというのです。身分制度の形式的遵守・虚礼の廃止・・・、ということでしょうか・・・。

『部落学序説』の筆者、その視点・視角・視座からしますと、戦前・戦後の部落研究・部落問題研究・部落史研究の学者・研究者・教育者の方々が主張されるような、「士」の下に、屈従と隷属を強いられたという「農工商」像は、歴史の実像からほど遠い、彼らが作り出した「共同幻想」でしかないと考えさせられるのです。

しかも、「岡山藩」主・池田光政、「領分の下々百姓までこつじき(乞食)ひ(非)人もなく、国あんおんに治」めることを藩政の政治理念とすると宣言するわけですから、池田光政の頭の中には、「百姓身分より一段低い身分である、穢多非人を置いて、百姓身分より更に下の身分がいるということで自らを慰めさせた・・・」という愚民論的発想はつゆも存在していなかったと思われます。

「一人の乞食や非人を出さない」ことを「仁政」と考える、「岡山藩」主・池田光政は、藩内における「乞食」・「非人」を含むひとびとを、「賤民」として制度化し、近世幕藩体制下の必要悪として「身分外身分」、「社会外社会」としておとしめるなど、発想することだにしなかったでありましょう。

「一人の乞食や非人を出さない」、という池田光政の政治理念・・・、もし、今日の「岡山藩」の「渋染一揆」の学者・研究者・教育者が主張するように、「岡山藩」の藩政においても、当初から、人民支配のために、「百姓」より一段低い身分、差別され抑圧された民(「賤民」)が必要であったとし、「賎民制度」の存在を強弁するのは、池田光政の藩政理念を、まっこうから否定することになると思われます。

『渋染一揆論』の著者・柴田一氏が、池田光政の「穢多も一統わが百姓」ということばを解して、「光政は、部落差別政策どころか、逆に部落差別を許さず、積極的にそれをなくしようとさえしている・・・」といいますが、『部落学序説』の筆者の視点・視角・視座からしますと、柴田一氏の「はじめに部落ありき」、「はじめに穢多ありき」、「はじめに賤民ありき」・・・、という発想自体、歴史の事実に反すると思われるのです。

池田光政の「穢多も一統わが百姓」・・・、ということばは、「岡山藩」主・池田光政が、今日の、部落史研究の学者・研究者・教育者が信じて疑わない「賤民思想」・「賤民史観」の全面的否定のことばなのです。彼らは、近世幕藩体制下において、「私」を捨て「公」に生きると、藩政を行うと宣言をした池田光政ですら、「被差別部落」の人々と、その先祖・末裔を<差別>するために捨ててかえりみないのです。

安政年間の「岡山藩」の「穢多」・・・、「岡山藩」における封建的身分制度の中にあって、「庶人一等」(百姓身分)に属しながら、「庶人の官にあるのたぐひ」として、「士一等」(武士身分)に加えられて、近世幕藩体制下の司法・警察官として、非常民として生きてきたであろうことは、「岡山藩」の藩主・池田光政、その御用学者・熊沢蕃山の政治的発言、藩政理念を踏まえても、筆者、そう断言できます。

「岡山藩」の藩政の歴史を無視し、近現代において、「士農工商穢多非人」という封建的身分制度をアナクロニズム(時代錯誤)的に適用し、差別思想である「賤民史観」によって、「特殊部落民」・「被差別部落民」の前身とみなされる、近世幕藩体制下の司法・警察である「穢多」を、「賤民」としてラベリング、歴史の上においても、排除と疎外をもって報いてきた、部落研究・部落問題研究・部落史研究の学者・研究者・教育者のいとなみは、歴史学、あるいは歴史研究の名に値しない、極めて悪質な<差別発言>・<差別行為>です。

特に、「岡山藩」の「渋染一揆」研究の、学者・研究者・教育者が、戦後の同和教育・解放教育の教材として提供してきた「渋染一揆」理解・認識は、それ自体が差別的なものです。

「私」を捨て、「公」に生き、「領分の下々百姓までこつじき(乞食)ひ(非)人もなく、国あんおんに治」めることを藩政の政治理念とした、「岡山藩」の藩主・池田光政・・・、今日の「部落史」・「渋染一揆」の差別的な研究を続ける学者・研究者・教育者に対して、草葉の陰から、「岡山藩」の藩政・身分統制・衣類統制についても、<わが意とは異なる・・・>と嘆いているのではないでしょうか・・・。

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