2021/09/30

<高佐廻り地名記>緒論

<高佐廻り地名記>緒論

1.文献

①高佐村国大由来境目書(『地下上申』)・②吉部村石高由来境目書(『地下上申』)・③長門国奥阿武郡高佐邑風土物産記(『風土注進案』)・④長門国奥阿武郡吉部邑風土物産記(『風土注進案』)・⑤高俣村村誌(『山口県風土記』)・⑥吉部村村誌(『山口県風土記』)・⑦『むつみ村史』・⑧波多放彩編『ふるさとの唄・むつみ村』・⑨北川健著『防長風土注進案と部落の歴史』・⑩北川健著『山口県の部落解放の文芸と歴史』・⑪北川健著『山口県の文芸の中の部落の歴史』(『いのち11』)・⑫北川健著『防長風土注進案と同和問題』・⑬桜の森の桜谷においでの瀬織津姫さま(『梨の木平の桜』)・⑭布引敏雄著『長州藩被差別部落成立の一形態 <垣之内>地名を手がかりとして』・⑮古島敏雄著『明治大正郷土史研究法』・⑯日本歴史地名大系36『山口県の地名』・⑰西村睦男編『藩領の歴史地理―萩藩―』

2.執筆年代

<蔵田家文書><奥書>には、この<高佐廻り地名記>がつくられた年号が記載されています。<嘉永7年>(1854)。しかし、現在残されている<高佐廻り地名記>は原本ではなく写本です。この写本がつくられたのが<安政5年>(1858)。現在のところ、<高佐廻り地名記>の成立年代について立証することができる傍証はありません。

執筆されたのは、<高佐廻り地名記>の<64>番目に<逸も霜月初の申>とありますから、11月。その月の終りに<嘉永7年><安政元年>と改元されます。

3.執筆者

<奥書>によりますと、執筆者は、嘉永7年73歳であった吉岡順平。号は祐永。筆者、<高佐郷>の歴史について寡聞にして、吉岡順平の社会的地位に関する情報をもちあわせていません。『むつみ村史』の記述から類推するに、吉岡家は、<給領庄屋>であったと推定されます。その写本をつくった人は、当初、<高佐廻り地名記>が発掘された当時は、<藤田安治郎>とされていましたが、『むつみ村史』では、<蔵田安治郎>と改訂されています。しかし、この<蔵田安治郎>についてもいかなる人物であったのか特定することができません。

古文書の本文批評の原則のひとつに、他の史料によって立証することがむずかしい案件については難解な読みを優先するという原則がありますが、その原則に立つと、写本を残した人物は、<蔵田安治郎>ではなく<藤田安治郎>ということになります。『むつみ村史』が、部落差別に関する記事を削除・隠蔽する傾向があるところを考慮しますと、この<藤田安治郎><高佐郷>の穢多身分であった可能性も排除できません。

この吉岡順平作<高佐廻り地名記>を今日まで残したのは、<蔵田家文書>のひとつとして収集・保存した阿武郡大庄屋蔵田家が大きく貢献していることは間違いありません。

執筆者の帰属する社会層は、執筆者の吉岡順平、その写本を残した<藤田安治郎><高佐廻り地名記>を残した大庄屋・蔵田家・・・、そのいずれも、近世幕藩体制下における、司法・警察の職務を果たした<非常民>(非常の民)です。

4.文学類型

7・5調で綴られた詩文。郷土史家は、7・5調から逸脱した表現は、<写本にあたり、地名に数カ所の誤字を生じ、難解である・・・>といいますが、最終的には<どうにかまとまったものにした・・・>といいます。そのとき、この<高佐廻り地名記>が詩文であるとの認識はあまり強く持っていなかったようです。<9>番の、<中に大川・往還筋、 宿の人馬も賑はしや>は、原文は、<中に大川往還筋に郷家あり、宿の人馬も賑はしや>ですが、7・7・5・7・5となっており、乱れが生じています。筆者は、<中に大川往還筋に、○○○○○○○郷家あり、宿の人馬も賑はしや>が本来のことばではないかと想定しています。

執筆者の吉岡順平は、<高佐廻り地名記>を最初から最後まで創作したのではなく、執筆に際して、いくつもの伝承を組み込んだと思われます。<高佐郷>の<穢多>を歌っていると思われる部分は、山口県文書館の北川健先生が独立したものとして抽出した通り、他の部分と異なって、かなり完成度の高いものになっています。相当長い期間伝承として語り伝えられた歌なのでしょう。

<高佐廻り地名記>が公表される際に、<原文>と郷土史家による<注・解釈>が区別されていません。たとえば、『ふるさとの唄』では、『むつみ村史』では削除されることになる、<20>番の<非人と食(非人徒食)の歳の宿>という注は、写本をつくった藤田安治郎がつけた注なのか、それとも、郷土史家が活字にする際につけた注なのか、必ずしも明確ではないからです。<非人>は、たとえば、火事で家を喪失した村人も<非人>に数えられる場合があります。<食><乞食>(<こつじき>を含む)のことですが、それらをも含めて<徒食>と表現するのは、注を付した者の差別的なまなざしのあらわれ。おそらく、郷土史家の筆になる注なのでしょうが、<写本>の作成者による注と郷土史家による注は明確に区別する必要があったと思われます。

5.歴史的背景

『むつみ村史』<高佐廻り地名記>についての紹介文の中に、<地名と歴史を織りこんだもの・・・>であるとの表現がみられますが、そのことばの通り、<高佐廻り地名記>、<65>の4行詩の中に、<高佐廻り地名記>の執筆された時代、また、その中に組み込まれた伝承がつくりだされた時代を彷彿とさせる表現がいたるところに見え隠れします。

伝承の中には、古代・中世・近世初期を想定さえることば・表現を確認することができますが、<高佐廻り地名記>が執筆された時代状況については、豊富な表現がみられます。主なものは、天保一揆後の淫祠解除(<いんしときのけ>と読む。筆者は<いんしかいじょ>を40番において<解除(かいじょ)なしたる古所の宮>として読む)、黒船による開国と長州藩の攘夷の動きなどが、<高佐廻り地名記>に時代性を添えています。<42>番に

少し岡は水ケ峠 
不動の堂より詠れば
嘉永六年相生の
松の噂も高佐ごや

とありますが、<嘉永六年相生の>は、原文は、<嘉永六から相生の>です。そのままでもよかったのですが、<嘉永六>というのが<嘉永六年>のことであることを強調するために<嘉永六から><嘉永六年>と読み替えました。嘉永6年は、アメリカの軍艦4隻が浦賀にやってきて日本に開国をせまった事件があった年。長州藩ではその年の8月、<異国之説大行、人気騒然>という状態に陥ります。このことばは、高佐郷の北の隣村。<29>番に<後は広き宇生賀村>とうたわれている<宇生賀村>の医師・古谷道庵の記録です。<長州藩域に伝わった風聞は、実態以上に誇張して伝えられており、民衆が非常な恐怖心をいだいていた・・・>(小田国治編『山口県の歴史』)といいますが、<高佐廻り地名記>の執筆者・吉岡順平の対応はいたって冷静です。<嘉永六年相生の松の噂も高佐ごや >と<噂>に過ぎないと、<噂>に付和雷同することをたしなめています。

長州藩は、嘉永6年、幕府の命を受けて、<相模国警衞を担当し、国元から相模国へ軍事動員がなされ、対外防衛の実践的取り組みが開始>(上同書)されます。<攘夷>を主張する長州藩は、長州藩の軍事力強化をはかり始めます。長州藩と石州藩の国境の村・<高佐郷>も、その軍事力強化の空気がただよってきます。

<50>番には、<今は白崎は賑わしや 上の大炮御稽古場>と歌われ、<攘夷>のための大砲・銃器の訓練がなされ、<51>番では、<御紋幕打ち御上覧 陣笠揃ふて西目峠>と、そこに長州藩の部隊が実戦配備され、 非常事態にあったことをうかがいしることができます。同じ非常民であるといても、<警察>と<軍事>とでは、大きな違いがあります。

<淫祠解除>については、<4番>の<古木の松に杉檜、若宮御社に引並び、龍神様ぞましまする、牛馬の守りありがたや>、 <41>番の<昔由緒のある宮で、解除なしたる古所の宮、詣ふでも気おふ鈴の音、柏手絶えぬ五社参り>、<65>番の<宮居に積もる冬の月、末永々と往く年も、豊作続く高佐郷、五穀繁昌地名の記 > などにみられます。

<淫祠解除>は、天保2年の百姓一揆が大きく影響しています。長州藩は藩財政の逼迫からすくうため米価を操作しようとします。豊作になると米価がさがり、藩の収入が減少することを防ごうとして、長州藩の役人(武士階級)は、<龍神>を故意に怒らせて<風招き>(加持祈祷によって台風を引き寄せる所作)をしようとしたことが百姓に発覚、村内あげての長州藩批判に発展します。長州藩のいたるところで百姓一揆が勃発、長州藩の<上役>(藩士)は、武士支配の<下級>役人・<穢多>にすべての責任を押しつけてしまいます。そして、いたるところで<穢多>の屋敷が襲撃されます。いまでいう、民衆による警察署・派出所の襲撃です。

あとで処罰されたのは、高佐村近辺では、<吉部村の一揆指導者弥右衛門ら3人>で、<死刑あるいは獄中で病死>したといわれます。しかし、<死体は保存された上で、さらし首となった>そうですが、<地元の人びとによって義民としてまつられ>ているとか・・・。

天保・百姓一揆で大きな衝撃を受けたのが、長州藩・・・。村田清風は、<御家と御国を百姓蹴立て候口惜しさ>を語って、長州藩の藩政改革に着手します。<百姓一揆>を再発させないため、<荒畠地の租税廃止>で百姓の経済的負担を軽くするとともに、<淫祠解除>(いんしときのけ)政策を実施します。<淫祠>とは、長州藩の許可しない神々をまつることを禁止すること。たとえば、百姓一揆で摘発され処刑された農民を義民として祀ることなど・・・。明治以降の<国家神道化>のひな型を長州藩は、<民衆支配>の方法として確立していくのです。

<荒畠地の租税廃止>は、<16>番の<岸高村の高面所 >、<46>番の<森地の田地高面処>、<53>番の<森地の田地高面所>などにみられる<高面所>・<高面処>は、税金(石高)の免除された農地・・・、という意味です。

しかし、<高佐廻り地名記>においては、<41>番<昔由緒のある宮で、解除なしたる古所の宮、詣ふでも気おふ鈴の音、柏手絶えぬ五社参り>のことばのように、藩から<解除>されても、なお村人によって崇拝の対象にされ続けてきたようです。

山口県文書館の北川健先生(現在山口大学講師)によると、長州藩の中で、この淫祠解除に抵抗した地域に、<高佐郷>があるとか・・・。迫り来る<外圧>に対応するためとはいへ、民衆の間で信頼されこころのよりどろことなってきた神社を<淫祠解除>するなどもっての他・・・、という思いがあったのでしょう。しかし、藩の<分断政策>によって、宗教者である<神主>と一般民衆<百姓>の間に楔が打ち込まれます。結局<神主>は、藩に追従して、藩による人民支配の方策としての<淫祠解除>を受け入れてしまいます(明治になって、その功績から、<百姓>身分から<士族>階級になる・・・)。日本の宗教者・・・、権力追従指向は、長い歴史があるようです。

<淫祠解除>は、近代に入ってからも続けられます。<全国的に大規模な神社の統廃合>が行われたのは明治39年のこと・・・。神社は、<日露戦争後の国民の統合>の必要性から、<神社は我が国体と相連契して・・・忠君愛国の思想と相一致して国運の隆替に関するものなり>と(木京睦人著『明治末期山口県の寺社整理について』)とされたのです。

<国運の隆替>・・・、時を同じくして、近世幕藩体制下の司法・警察であった<穢多村>は、<日露戦争後の国民の統合>のための<負の存在>に追いやられるのです。<天皇御領>の非常民としてその歴史を生き抜いてきた、<高佐郷>の<穢多村>の末裔たち・・・、日本の近代中央集権国家・明治天皇制国家の犠牲者として、<天皇の恩恵によって生かされる民>のひな型としての<特殊部落民>にされていくのです。<天皇制>に誇りをもっていた民が、<天皇制>から切り捨てられていく・・・。部落差別は、本質的にはそのような側面をもっていますが、<高佐廻り地名記>に織り込まれた<高佐郷>の人々の生活を読み取っていきますと、<高佐廻り地名記>では、近代的部落差別は片鱗すら存在しない・・・。

少し岡は垣之内
山部は穢す皮張場
長吏の役は高佐郷
何そ非常のあるときは

ひしぎ・早縄・腰道具
六尺二歩の棒構ひ
旅人強盗せいとふし
高佐郷中貫取

筆者が<高佐郷の歌>とよぶ、<11>番、<12>番のことばは、<高佐郷>の最も中心的な部分<高佐本郷>の歌です。その<高佐本郷>は、大正中期まで、その機能をもっていました。しかし、大正7年村役場が移転、大正9年には駐在所が移転、その他法務局の出張所など公官庁があいついで移転して、急速に衰退していきました。意図的につくりだされた<被差別>・・・、そこから、<吾々がエタである事を誇り得る時が来たのだ。吾々は、かならず卑屈なる言葉と怯懦なる行為によって、祖先を辱しめ、人間を冒涜してはならぬ・・・>という水平社宣言のことばに呼応して、<水平運動>が起こっていきます。

6.字句の解釈

別稿とします。

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