2021/09/30

「渋染一揆」の時代の「木綿」の生産・流通事情

「渋染一揆」の時代の「木綿」の生産・流通事情

酒井一氏は、『兵庫県史』第3編「近世」・第6章「幕藩体制の解体」・第1節「商品経済の深化」の中で、このように記しています。

「幕藩制の危機は十九世紀はじめには広範に噴出しはじめた。ひとつは幕藩領主の財政危機の深化である。幕府の年貢収取量は、寛政の改革期以降も一貫して低下し、一段と財政の窮乏が進んだ・・・」。

その財政危機は、当時の物産の生産・流通機構にも大きな影響を与えたようです。

諸藩は、藩内の主要産物を「藩営専売」として、最大の利潤を追求しようとします。そのために、諸藩が採用したのは、「国産」の産物を原料として出荷するのではなく、付加価値をつけて出荷しようとします。そして、流通機構も、「問屋」による中間搾取を廃して、江戸などの巨大市場に直接出荷しようとします。

消費市場の物価の動向を見て、最大の利潤をあげるために、「藩営専売制による消費市場への国産品の直積み」をしようとします。

その結果、衰退と後退を余儀なくされたのが、「大阪問屋」でした。

天保13年(1842)大阪町奉行の調査では、「米・塩・木綿・実綿・繰綿・蝋・紙など14品目について減少」が確認されます。元文元年(1736)から化政期(1804~1829)まで、大阪市場での取引高は「上昇傾向」にあったのですが、「財政危機」に直面した諸藩は、「文政・天保期」(1818~1843)にかけて、藩内の主要物産を「藩営専売制」にすると同時に、大阪市場を敬遠し、直接、巨大市場・江戸へ「直積」していくのです。

「姫路藩」は、「文政6年」(1823)、「姫路藩国産木綿」(「姫路木綿」)の江戸市場への流通経路を確立した・・・、といわれます。姫路藩は、「姫路木綿」の藩専売制によって、「木綿・・・300万反では実に24万両の金子を江戸から姫路へ流入させる」ことになったといいます。

この時点の姫路藩の専売品としての「木綿」は、喜田川守貞のいう「もめん」(綿織物)のことで、その原材料としての「きわた」は専売の対象ではありませんでした。

しかし、姫路藩は財政基盤の強化をはかるために、「もめん」(綿織物)だけではく、「実綿」・「繰綿」(「きわた」)「篠巻」・「綛糸」(綿糸)をも専売の対象にします。姫路藩は、「木綿」(材料としての「きわた」、綿製品としての「もめん」)の生産・流通に関してすべての段階を管理下におき、「木綿」の藩専売制を確立していくのです。

当時の農学者によると、「海手にて作る綿は性よく、上品・・・」だそうです。

姫路藩は、藩全体で、「畑地と新田を中心に」「木綿」の栽培に取り組み、畑作の6~8割が「木綿」の栽培に充てられます。

近隣の諸藩での「木綿」の生産と流通の藩専売制の導入は、やがて「岡山藩」にも影響してくることは当然といえば当然でしょう。

ただ、筆者、無学歴・無資格故、「岡山藩」の木綿の生産と流通に関する史資料をほとんどもちあわせてはいません。一般資料、あるいは、「岡山藩」の近隣諸藩の木綿生産と流通に関する史資料から類推するにすぎませんが、「岡山藩」の藩民が、それまで着ていた「麻」の衣類にかえて、「木綿」の衣類を着るようになったのは、一般的には、元禄期(1688~)であるといわれています。

しかし、実際の木綿の栽培は、それに先立って栽培されます。「岡山藩」の記録では、天和3年(1683)に「木綿実」(種綿あるいは繰綿である「きわた」)に対して5貫目の運上金が課せられています。貞享元年(1684)には、「綿実」(「きわた」)出荷のための問屋組合(「座」)が結成され、元禄元年(1688)には、特定の問屋への独占が実施されます。

元禄9年(1696)には、「岡山藩」は、「藍玉」(藍染めのための染料)も統制の対象にして、「もめん」・「きわた」・「藍玉」に運上金を賦課します。

しかし、「木綿」(「きわた」・「もめん」)全般に対する「岡山藩」の統制が徹底されるとおもいきや、「岡山藩」は、元禄17年(1704)には、運上金の対象から「木わた」・「もめん」をはずします。

なぜ、「岡山藩」は、元禄期に盛んになってきた「木綿」(「きわた」・「もめん」)の生産と流通に関する奨励を抑えることになったのか・・・、「岡山藩」の史資料に乏しい筆者は、そこに藩政の意志を読み取ってしまいます。

「岡山藩」の御用学者であった熊沢番山は、「木綿」の栽培を、「田木綿」「畑木綿」「田作木綿」「畑作木綿」)に分類します。当時、「岡山藩」は、農地の不足に悩んでいました。「田」で、米にかえて綿を作ることを許可するかどうか・・・。熊沢蕃山が「岡山藩」の御用学者の隠退を申し出た明暦3年(1657)に執筆したといわれる『大学或問』の中で、藩内で有力になりつつある、「田作木綿」の奨励の輩とこのような問答をしています。

【問】世間に人多く成たる故に、田にも木綿(きわた)を作るなるべし。米を作るよりは木綿(きわた)にては百姓の勝手もよし・・・。

【答】近年は倹約の法きびしく、士已上歴々迄も木綿(もめん)を着す。農工商の富有人も木綿(もめん)を着する故に、木わたを多く作るなり。木わたを作りて年貢を出しよくば、いよいよ高免になりて畢竟民のためにならず。田木綿やめて、免少し下がるとも・・・つかえにはならず。・・・田に木わた作らず・・・」。

熊沢蕃山の「岡山藩」に対する影響は、少なくないものがあります。筆者は、「岡山藩」が、「木綿」(「きわた」と「もめん」)を運上金の対象から外した背景には、「岡山藩」が、「田」はあくまで「米」の生産場として認識し、その「田」を綿作りに転用することを断念したことがあると推測します。

「岡山藩」の「渋染一揆」の原因となったとされる「倹約御触書」に出てくる「木綿」(「もめん」)の藩民に対する強制は、熊沢番山没後150年後の、藩財政の危機に直面した姫路藩が、姫路木綿の生産・流通機構の改革によって、藩財政の建て直しを図った時代の潮流と深く連動していると思われます。

「岡山藩」が、姫路藩の「木綿」の専売化によって、藩財政再建に成功した事例を目の当たりにして、それに<追従>しはじめた理由のひとつに、姫路藩と違って、「畑作木綿」ではなく、「岡山藩」の「沖新田」をはじめとする広大な干拓地における「木綿」(きわた)の栽培、「田作木綿」に成功したことがあげられるのではないかと思われます。

「岡山藩」は、「木綿」(「もめん」・「きわた」)の藩専売制と流通革命に成功して藩財政を再建した姫路藩のあとを追うように、弘化元年(1844)「木綿」(きわた)の藩専売化、嘉永5年(1852)「繰綿」(「きわた」)の専売化、そして安政4年(1857)「藍」の専売制に踏み切ります。

「岡山藩」が、「渋染一揆」の原因となったとされる「倹約御触書」を発布した安政2年(1855)には、「岡山藩」は、児島湾干拓地における新田での綿栽培、また児島半島の機業地帯における、「姫路木綿」(「もめん」)にならぶ「備前木綿」(「もめん」)の生産と流通の専売化に本格的に着手するのです。

無学歴・無資格、歴史学の門外漢である筆者、「岡山藩」の「渋染一揆」の学者・研究者・教育者達の発想とは異なり、「岡山藩」の「木綿」(「きわた」・「もめん」)政策は、藩主・池田光政、その御用学者・熊沢番山の時代の「封建的身分制度の維持」を主眼とした木綿政策と、安政2年の「倹約御触書」が出された当時の「岡山藩」の「木綿」(「きわた」・「もめん」)政策とは、まったく異質のものであると認識します。

前者が、「封建的身分制度の維持」を目的としているものであるとすると、後者は、「封建的身分制度の維持」を一部断念しても、藩財政の危機的状況からの脱出優先のために採用された非常時の藩財政改革であったと認識します。

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