2021/09/30

山部は穢す皮張場

山部は穢す皮張場

<高佐郷の歌>の第2句です。

1962年『ふるさとの歌 むつみ村』<高佐廻り地名記>で公表されて以来、この第2句の<山部><山部>として表記されています。

おそらく原文は明確に<山部>で、<山辺>と読まれる可能性はほとんどないのでしょう。

筆者、この第2句を前に、<山部><山辺>の違いについて思いを馳せざるを得ません。これが、最初から<山部>ではなく<山辺>であったなら何の問題も感じることはなかったでしょうから・・・。

民俗学の柳田國男は、その著書『地名の研究』の中で、<地名そのものから、大凡発生の時期を推測し得られる>と語っていますが、<山部><山辺>のいずれをとるかによって、<大凡発生の時期を推測し得られる>場合もあれば、それを逸する場合もあります。

これまでの<高佐郷の歌>の解釈者は、<山部><山辺>として解釈しているようです。それは、地形に根ざす地名であって、それ以上の何ものをも意味していないと・・・。

この<山部>・・・、山口県文書館の研究者の間では、<地形>として評価されたり<地名>として評価されたり、<高佐郷の歌>の一般読者の差別性を考慮して、伏字にされたり、原文通りに表記されたり、23年間紆余曲折を経てきました。結局、1985年、<地名>であることが確認され、原文通り漢字表記されることに落ち着きました。

しかし、<高佐郷>の村の住人たちは、近世幕藩体制下の<被差別部落>の在所に直結する<山部><地名>として、部落史の学者・研究者・教育者によって確定されたことで、その研究結果を忌避、その村史から<高佐郷の歌>そのものを削除してしまいます。

1985年時点では、<山部><地名><皮張場><地名>ではなく一般名詞として認識されていたようです。

そう認識する理由は何なのでしょう・・・?

無学歴・無資格、文学的素養皆無の筆者、韻文・詩文についてはほとんど解釈能力をもっていません。小中高を通じて、国語で<5>をとったのは中学3年生のとき、国語の中島先生から・・・。あとは、韻文・詩文の解釈の問題で常に誤答・・・、成績はいつも<4>とまりでした。

そのときの苦手意識から、60歳を過ぎた今も韻文・詩文の解釈には自信がありません。

少岡は垣ノ内
山部は穢す皮張場
長吏の役は高佐郷・・・

筆者、<誤答>をおそれず、<山部>について、あらたな解釈を提示すれば、それは、<地名>用語ではなく、<人事>用語であると・・・。

確かに、<高佐廻り地名記>は、その歌の末尾にこのように歌われています。

逸も霜月初申は
宮居に積もる冬の月
末永々と行く年も
豊作続く高佐郷
五穀繁盛
作る地名記

高佐郷にまつわる地名を綴った歌であることはいうまでもありませんが、<高佐廻り地名記>には、<地名>ではなく<人事>を歌った句がいくつも出てきます。

・御国御定めの御札場
・前は郷家の店酒屋
・非人と食の歳の宿
・正宗長者の古跡あり
・はこぶ連者の足出原
・先住和尚の仕置なり
・御山方の御役人
・当職様の御名あり

そういう意味では、<高佐郷の歌>の第2句の<山部>を、<地名>ではなく<人事>に関する用語として受け止めることも不可能ではありません。

少岡は垣ノ内
山部は穢す皮張場
長吏の役は高佐郷・・・

<山部>は、<長吏の役>・<御山方>・<当職様>と同じ、<役職>名として受け止めることも、あながち間違いではないでしょう。

<山部>が、<高佐郷>で語り継がれてきたある<役職>であるとしますと、<穢す>ということばは、その<山部>に帰属する人々の営みを意味することばとして解釈することができます。<山部は穢す>は、<高佐郷><山部>といわれた人々の、その職務を高らかに誇った歌であると解釈されます。そしてこのことばは、<皮張場>に対する修飾語句です。

<高佐郷の歌>の第2句に出てくる<皮張場>には、それが近世幕藩体制下の<穢多>身分による皮革に関することばでありながら、山口県文書館の研究者が指摘するような、彼らを<賤民>と断定することになる<「穢」の観念>や<「けがれ」のイデオロギー>が作り出す負のイメージはどこにもありません。

<山部>は、権力によって押しつけられた職務を嫌々しているのではなく、その職務に積極的にかかわり自ら<穢している>というのですから・・・。<高佐郷の歌>の第3句の<長吏の役は高佐郷>に出てくる<長吏の役>同様、その職務に<誇り>を持ち、それを担って生きているとさへ解釈することができます。

<高佐廻り地名記>は、<嘉永7年・・・吉岡順平祐永の作>とされていますが、吉岡順平氏、<高佐廻り地名記>をつくるとき、その歌の中に、語り継がれてきた伝承をいくつか組み込んだようです。その伝承は、<地名>というよりは<人事>を歌った部分に多くみられます。

その<高佐廻り地名記>から<高佐郷の歌>を独立したひとつの伝承として抽出したは、山口県文書館の北川健氏の卓見というべきものでしょう。

この<高佐郷の歌>の伝承・・・、古の伝承にふさわしく、その中に<古語>をとどめています。そのひとつが第2句の<山部>・・・。

<高佐郷の歌>・・・

近世幕藩体制下の<穢多村>の姿だけでなく、近世をさかのぼる中世・古代の姿をも秘めているようです。

近世の<穢多村>に関する史資料は、多くの場合、差別につながるとして、その内容を問わず一括して非公開にされるのが常ですから、近世の<穢多村>の前身となる中世の<穢多村>、さらにはそれをさらにさかのぼる古代の<穢多村>に関する史資料も、一般の国民から隠蔽されてしまいます。しかし、歴史の真実はどんなに隠そうとしても隠し通せるものではありません。

少ない資料から判断しますと、<山部>は、<高佐郷>が帰属する阿武郡が<皇室御領>(阿武御領)であったとき、京都の<山部>の支配を受け、<山部>と同じ職務を遂行していたのではないかと・・・。<阿武御領>は、皇室に<牛皮8張>・<鹿革20張>などを献上していますから、<高佐郷><山部>もそのことに大きく貢献したのではないかと思われます。

<高佐郷><山部>・・・、京都の<山部>と同じように、司法・警察である非常民の職務を遂行するとともに、<非常>ならざるときは、付与された農地を耕したり、皮革の生産に従事していたと思われます。

<高佐郷の歌>に歌われている<山部>の起源は、近世幕藩体制下ではなく、それ以前の中世・古代にさかのぼるものです。近世幕藩体制下においては、<高佐郷>から分離された<吉部郷>に、萩藩の代官所が設置され、司法・警察機能が集中されます。長門国北穢多寺もこの<吉部郷>にありますが、そういう意味では、高佐郷の<穢多村>はその地位が相対的に低められます。しかし、<高佐郷>の、古代・中世由来の、司法・警察としての非常民である人々(<山部>・<長吏>)は、自らの非常民としての歴史と伝承を堅く保持し、そのことを生きがいにしていたのではないかと思われます。

被差別部落に伝えられる天皇制とのつながりをしめす伝承・・・、部落史の学者・研究者・教育者は、被差別部落の側の作り話しとして唾棄すべきものと捨てて顧みることはありません。『被差別部落の伝承と生活』の著者・柴田道子氏も、<自分たちの先祖が高貴な人たちんであったことに力を入れて語る。部落の人たちは、こうした伝承を心の底から信じている。由緒ある家だった・・・という伝承は、他にもたくさん聞いた>・・・、<うんざりする>とでもいいたそうです。

しかし、無学歴・無資格、常民・百姓の末裔である筆者の視点・視角・視座からしますと、<高佐郷の歌>に歌われている近世幕藩体制下の司法警察である非常民として<穢多>が、その歴史の発端で、<山部>役・<長吏>役をになっていたことに<誇りある歴史>を伝承していたとしても何の不思議も感じない・・・。被差別部落の歴史が、古代の天皇制・中世の天皇制と深いつながりを持ち、<被抑圧者>の側ではなく<抑圧者>の側に側に身を置いていたとして何の不思議も感じない・・・。

戦後の部落史の学者・研究者・教育者が、彼らから、司法警察である非常民としての歴史と伝承をはぎ取り、人間として本質的に賤しい者として差別され抑圧された存在であるという<賤民>でしかなかったとして、被差別の側に伝えられた<誇りある歴史と伝承>を、部落史研究の通説である<賤民史観>に違背するものとして、徹底的に否定するのは、あまりにも、<「穢」の観念>や<「けがれ」のイデオロギー>に拘泥していることにならないのでしょうか・・・?

筆者、<高佐郷の歌>の第2句<山部は穢す皮張場>に出てくる<山部>は、<山辺>の宛字、地形・地名をさすことばではなく、古代・中世の天皇制下にあって、天皇御領の<山部>・<長吏>として活躍していた人々・・・、のちに、長州藩の政治改革の中で、一律<穢多>という範疇が適用されるようになった人々であると解したい・・・。

彼らは、<奴婢>、隷属民などではあり得ない・・・。

少岡は垣ノ内
山部は穢す皮張場
長吏の役は高佐郷・・・

無学歴・無資格、歴史学の門外漢の筆者の目には、この歌は、次のように解される・・・。

少岡(地形)は垣ノ内(機能)
山部
(役職)は穢す皮張場(機能)
長吏
(役職)の役は高佐郷(地名)・・・

<高佐郷の歌>は、<高佐郷>の単なる被差別部落の歌ではなく、<高佐郷>そのものの歌・・・。<高佐郷>の旧穢多を含む非常民の歌・・・。現代の部落史の学者・研究者・教育者がいう<差別>・<被差別>の<被差別の歌>ではなく、<差別>・<被差別>の区分がない時代、区分があったとしても<差別>・<被差別>以外の指標で区分された時代を反映した歌であると推測されます。<高佐郷>の一般農民と、司法・警察である非常民としての<穢多>(<山部>・<長吏>)とが違和感なく共に生きていた時代があった・・・、そんな時代があったことを教えてくれます。

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