2021/09/30

佐藤俊夫と川元祥一と禁忌

佐藤俊夫と川元祥一と禁忌

『脱常識の部落問題』が出版されてから3年後、川元祥一は、『部落差別を克服する思想』を出版しています。

川元祥一は、この『部落学序説』において、いままで何度となくとりあげてきた、部落研究・部落問題研究・部落史研究の学者・研究者・教育者のひとりです。

川元祥一は、被差別部落出身であることをその著作において公言しています。しかも、単なる被差別部落出身ではなく、近世幕藩体制下の「穢多」身分の末裔であることを、その文章の中で証言しています。川元祥一は、「部落学」研究の主体であると同時に客体でもあります。

この文章において、「被差別部落民と禁忌」を論じる予定でしたが、その前に、「部落問題研究者」と「被差別部落民」の両方の属性をもっておられる川元祥一と、その著作『部落差別を克服する思想』の中に記された「禁忌」について検証することにしました。

その方法は、佐藤俊夫著『習俗-倫理の基底-』に出てくる「禁忌」と、川元祥一著『部落差別を克服する思想』に出てくる「禁忌」を比較検証するという、極めて基本的で卑近な方法です。

佐藤俊夫も川元祥一も、その論述の背景に、文化人類学・社会人類学の研究成果を据えています。

中根千枝著『社会人類学 アジア諸社会の考察』の中で、この文化人類学と社会人類学の異同について詳しい説明があります。両者とも、「1930年代に確立された比較的新しい学問分野」で、「社会人類学は英国を中心として、文化人類学は米国において発達した。」ものだそうです。社会人類学は社会学の影響を強く受けたのに対して、文化人類学は地理学の影響を強くうけたといわれます。社会人類学では、「法とか制度に対する伝統的な関心が常に底流にあり、それぞれの社会のよって立つシステムに注目してきた」のに対し、文化人類学は、「分布状況、民族誌的な量的豊さが常に強みとなって発達してきた」といわれます。

つまり、社会人類学は、「禁忌」(タブー)を考察するとき、「法」(政治)を視野にいれるのに比較して、文化人類学は、「文化」を視野にいれて研究が遂行されてきたようです。アメリカで、「社会人類学」という表現は、「心理人類学、言語人類学、認識人類学、象徴人類学など」のひとつとしての「社会人類学」を意味します。アメリカの「社会人類学」は、「社会組織-とくに親族組織-の研究とされる傾向」があるそうで、「社会全体の構造をとらえ、それを理論化して比較することを目的とする」英国の「社会人類学」と、その学問的内容を大きく異にするといわれます。

中根千枝は、「社会人類学の調査というのは、社会学でよく行われるようなクエスショネアによるものとか、民俗学でしばしばとられるような物知りといわれる人(この種の人はどの社会にもいる)の話をきく、といった方法は、主要部分でない。むしろ、そうしたアプローチを避けるのである。」といいます。

「なぜならば、対象社会の生活全体を把握することによって、特定問題について深い考察をすることを目的とするものであるから、単なる直接質問はできるだけ避けて、具体的な事象をさまざまな角度から考察することによって、調査者の最も知りたいと思うことに迫るという方法が理想的なのである。つまり、相手がかまえないで自然に表出するプロセスをとおすということが、よりよいデータを得る方法なのである」。

また、中根千枝は、「社会人類学」の他の社会科学に対する独自性は、「その研究者が研究対象の人々に対して距離を持ちえた」点にあるといいます。「社会人類学」は、「研究者の生まれ育った社会とは異なる社会が対象となる。」といいます。しかし、「対象の人々から完全に自由」な研究者の立場は、現代の社会人類学者からは失われているといいます。

中根千枝は、社会人類学の研究の阻害要因となる「偏見や優越感」に拘束され、「そうしたものが研究自体に反映して研究の価値を害うという危険はミニマムになっているというのが常である。そのような危険は初期の優れた人類学者たちよりも、むしろ最近の人口増大によって出てきた二流・三流の人類学者の中に見出されるといえよう。」と記しています。

また、「偏見や優越感はむしろ安易な共鳴、過度の同情などと同様に、対象と自己を安易につなぐあまさを前提とするものであり、先に指摘した detachment とは相いれないものである。初期のすぐれた人類学者たちは、対象に対してこの detachment をもつことによって、経験主義に立脚した分析を重んずる科学的思考を十分生かして、社会人類学の基礎を確立するにいたった」といいます。

「偏見」・「優越感」・「安易な共鳴」・「過度の同情」を退け、研究方法上の detachment を習得することは簡単ではないといいます。

『部落学序説』の筆者は、「部落学」構築に際して、部落研究・部落問題研究・部落史研究に際して、この detachment を取得するために、「部落学」本論を執筆するまえに、「序説」(プロレゴメナ)の必要を感じて、『部落学序説』として執筆をはじめました。中根千枝は、「知識として社会人類学の成果をとり入れるということと、社会人類学の研究をするということとは異なる」といいますが、それは、「部落学」についてもおなじことがいえます。「部落学」の成果と取り入れるということと、「部落学」の研究をするということとは全く異なるいとなみです。

「社会人類学の研究というのは、既存の理論的枠組を使うのではなく、一定の方法を用いて未知の世界のシステムを自らの経験をとおして探求し、理論化していくものである。この過程において-異なる社会に自らをエクスポーズすることによって-日本では得られない知的な刺激を受け、自己の思考自体を成長させるのである」。

『部落学序説』は、社会人類学からの影響も多分に受けているのですが、『部落学序説』は、人種起源説を、部落差別の起源論として誤謬として退けていますので、社会人類学の方法論を文字通り援用しているというわけではありません。『部落学序説』は、社会人類学の研究成果ではなくて、研究方法に耳を傾けているのです。

中根千枝は、社会人類学の研究方法( detachment )を身につけていないと、「どんなに社会人類学を勉強しようと、それに関する知識を蓄積しようと、日本の古い祭や慣習を研究しようと・・・それらはすべて日本的思考のシステムの中に組み入れられていく」といいます。

社会人類学・文化人類学の研究方法ではなく、研究成果のみが受容されていくとき、日本の部落研究・部落問題研究・部落史研究に大きく貢献すると思われる「禁忌」(タブー)に関することがらは、日本の歴史学、ひいては、日本のすべての学問に通呈する、その差別思想である「賤民史観」という、極めて「日本的思考のシステム」の中に、いとも簡単に吸収されてしまうのです。

倫理学者・佐藤俊夫と部落学者・川元祥一の著作を比較検証してみるとき、両者の間の「差」のひとつに、「禁忌」(タブー)についての認識の違いがあるような気がします。

佐藤俊夫著『習俗-倫理の基底-』に出てくる「禁忌」と、川元祥一著『部落差別を克服する思想』に出てくる「禁忌」を比較検証する前に、それぞれの「禁忌」(タブー)についての研究の背景にある、人類学的な背景の違いに触れておくべきであろうと思いました。『部落学序説』の筆者の目からみると、佐藤俊夫は、英国をはじめとするヨーロッパの社会人類学の影響をより強く受けており、川元祥一は、アメリカの文化人類学の影響をより強くうけていると考えられます。

『部落学序説』の執筆計画の段階から、筆者は、部落問題・部落差別問題における「禁忌」(タブー)に関する理解に際して、佐藤俊夫著『習俗-倫理の基底-』の「禁忌」理解を採用し、川元祥一著『部落差別を克服する思想』に出てくる「禁忌」を退けることにしました。佐藤俊夫には、社会人類学の研究方法( detachment )を認めることができたのに反して、川元祥一には、その社会人類学の研究方法( detachment )を認識することができなかったからです。

佐藤俊夫の教説についてはすでに触れていますので、川元祥一著『部落差別を克服する思想』に出てくる「禁忌」(タブー)に目を通すことにしましょう。川元は、『部落差別を克服する思想』の「第2章 ケガレと人間の存在-差別のメカニズムを解く」、「四、世界中の感染呪術=触穢意識とその克服」で、川元の文化人類学的理解を提示しています。

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