2021/09/30

紀州藩・同心と穢多の衣類論争

紀州藩・同心と穢多の衣類論争

宝永3年(1706)3月2日、紀州藩の牢番頭である「穢多」の甚四郎と甚七の二人は、紀州城下町の東町奉行配下の同心組頭である塩崎安左衛門と西町奉行支配下の同心組頭である西村武左衛門に呼び出されて<査問>を受けます。

その<査問>の次第を『万御用控帳』に記録したのが、同じ牢番頭の定七です。

その記録の末尾にはこのようなことばがあります。

「右ハ御小頭塩崎安左衛門様・西村吉左衛門様
                       承り甚四郎・甚七」

紀州藩が、町奉行所を、東と西に分けて、<裁判>については、交替制とした背景には、町奉行所の業務内容の歴史的継承を重んじたことがあると思われます。

西町奉行支配下の同心組頭・西村武左衛門がその職務に就任したのが、延宝7年(1679)・・・。西村武左衛門は、28年間その職務についていたことになります。同心組頭としては、ベテラン中のベテランです。

それに比べて、東町奉行支配したの同心組頭・塩崎安左衛門がその職務に就任したのが、元禄12年(1699)、その組頭としての職務経験は8年に過ぎません。

紀州藩の東西の町奉行所の同心組頭・・・、いつも同時に就任したり、同時に退任したり・・・、ということはありません。紀州藩の町奉行所は、年配の経験豊かな同心組頭と、年若く経験が浅いけれども職務遂行に熱心な同心組頭が常にセットで存在するように定められていたようです。

そうであれば、末尾のことば、「右ハ御小頭塩崎安左衛門様・西村吉左衛門様」は、「右ハ小頭西村吉左衛門様・小頭塩崎安左衛門様」と順序が逆でなければなりません。しかも、西村<武>左衛門という名前、西村<吉>左衛門として名前が記されています。

藤本清二郎氏の解説では、西村<武>左衛門西村<吉>左衛門は同一人物です(代役の可能性がないわけではありませんが・・・)。

他の記録では、両者の名前を列挙するときの順序、<裁判>を東町奉行所の当番か、西町奉行所の当番かによって、その順序が入れ換えられていますので、宝永3年(1706)3月2日がたまたま、東町奉行所の当番であったために、「右ハ御小頭塩崎安左衛門様・西村吉左衛門様」という表現になっているのかもしれません。

筆者、無学歴・無資格・・・、紀州藩『城下町警察日記』のどの日記を読むに際しても、解釈の多様性に直面します。傍証はほとんど持ちあわせていませんので、紀州藩『城下町警察日記』の該当頁を何度も何度も読み直して、最終的には、類推解釈することになります。

紀州藩の「穢多」が紀州の城内に入るとき、それは、多くの場合、城内の「きよめ」(清掃)に携わるためですが、そのとき、身につけるはずであった「紋羽織」に不都合があったため、上役から<指導>がはいったのでしょう。紀州藩穢多の直接の上司である、東西町奉行支配下の同心組頭に呼び出されて<弁明>することを求められるのです。

そのとき、紀州藩の穢多頭、甚四郎と甚七は、このように答えたといいます。

「御在城之節ハ御門之内計ヲ着シ申候へ共、只今ハきゆち、其以後身躰罷成不申候故、得調不申候と申上候・・・」。

「きゆち」というのは、「窮地」のことだそうですが、何の「窮地」かといいますと、経済的な意味の「窮地」であると推測されます。同心組頭の質問に、紀州藩の穢多・牢番頭は、「暮らし向きがよくないので、紋羽織りを新調することができない・・・」と弁明しているようです。

筆者の想像では、昔あつらえた紋羽織が古くなってよれよれになっていたとか・・・、あるいは、年と共にお腹が出てきて昔あつらえた紋羽織をはおるとちんちくりんにみえたとか・・・。どちらにしろ、紀州城内で穢多が身にはおっていた紋羽織は、体裁のいいものではなかったようです。

紀州藩の穢多みずから、「今は窮地・・・」、「今は経済的に苦しい・・・」と主張していることになりますが、日本の歴史学に内在する差別思想である「賎民史観」に依拠する学者・研究者・教育者は、「紀州藩の穢多といえども差別されていたことは間違いないのであるから、穢多がそう語るのも不思議ではない。穢多が経済的低位に置かれていたことの証拠である。」と解釈されるかもしれません。

甚四郎と甚七から、そのような弁明を聞いた同心組頭の塩崎安左衛門と西村吉左衛門、このようにことばを返したといいます。

「常ニハ良き羽織き申候上ハ、得調不申様とノ申分ハ立まじく候・・・」

「日頃、上等の羽織を身にはおっておりながら、城内において着用が定められている紋羽織を新調できないなどという言い訳が通るとでも思っているのか・・・」、同心組頭・塩崎安左衛門は、声を荒らげて、紀州藩穢多・牢番頭の甚四郎・甚七を叱りつけたようです。

そして、早急に、城内で職務を遂行するための紋羽織を新調して、その現物を、同心組頭に持ってきて見せるようにと命令されます。

筆者、紀州藩の穢多・牢番頭の甚四郎・甚七のことば、「今は窮地・・・」、「今は経済的に苦しい・・・」ということばを、額面通り受け止めますと、その真意を著しく損なってしまうと考えます。「只今ハきゆち」ということばは、通り一遍の<世辞>・<方便>ではないかと思われます。

「岡山藩」の「渋染一揆」に参加した、「岡山藩」の「穢多」、渋染・藍染の衣類の強制に反対する理由のひとつに、経済的困窮を訴える場面がありますが、文字通り経済的困窮状態にあったのでしょうか・・・、それとも、既得権を確保するために綴られた<世辞>・<方便>だったのでしょうか・・・?

「岡山藩」の「渋染一揆」に関する史料を解釈するに際して、戦前の水平社宣言前夜、戦後の同和対策審議会答申前夜の、被差別部落の経済的困窮、貧困状態を読み込むようなことがあっては、「渋染一揆」の本質を把握することができなくなってしまう可能性があるのではないでしょうか・・・。

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