2021/09/30

すばらしき「渋染」の研究者

すばらしき「渋染」の研究者

医学には、基礎医学と応用医学(臨床医学)があります。

筆者が、岡山県内に住んでいたとき、5年間ほど、病院の検査室の臨床病理検査の仕事に従事していたことがあります。

そのとき、医者の指示がすぐに分かるように、基礎医学と応用医学を勉強させられたことがあります。病院の応接室には、英文の医学全書などがあって、ときどき、紐解いては、自分の知識と技術の研鑽に役立てていました。

病院の医者から、岡山大学医学部で使用されている教科書を紹介されて、それで、基礎医学や応用医学を独学しました。分からないところは、休憩時間に尋ねれば、どなたもすぐに教えてくださるので・・・。

筆者がそのとき関心をもったのは、応用医学より基礎医学です。日本の医学を支えているのは、応用医学より、基礎医学であると、そのとき思うようになりました。医学だけでなく、どの学問においても、応用より基礎の方が大切であると・・・。

今、「百姓の目から見た渋染・藍染」という主題で文章を書いていますが、歴史学においても、大切なのは、「応用」より「基礎」です。

歴史学の「基礎」のひとつに、古文書の活字化があります。

筆者は、一度、山口県立文書館の研究員の方が、古文書を見ながら、いきなり、ワープロに入力している場面を見せていただきました。古文書を読み取り、それをワープロの画面に入力していく速度の速いこと・・・。見ているだけで、尊敬せざるを得ませんでした。

最近、インターネットで、「渋染一揆」に関する文献を探索することが多いのですが、筆者が興味を持つのは、「渋染一揆」の学者・研究者・教育者のサイトやブログではありません。「渋染一揆」の学者・研究者・教育者の多くの論文・文章は、日本の歴史学に内在する差別思想である「賎民史観」に裏打ちされているものが多く、近世幕藩体制下の「穢多非人」を「賤民」として位置づけてかえりみることがありません。

筆者は、ときどき、どうして、「渋染一揆」の学者・研究者・教育者は、近世幕藩体制下の「穢多非人」を「賤民」として貶め続けるのか、昨日も今日も明日も、「賤民」は「賤民」であると主張し続けようとするのか・・・、その研究姿勢に疑問の思いを抱いています。

『部落学序説』で既に何度も言及してきたとおり、筆者は、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」から自由になって、虚心坦懐に、史料と伝承をありのまま受け止め、それを、「部落学」固有の方法で批判検証すると宣言して文章化を進めてきましたが、それは、執筆開始後、1000日が経過した現在にいたっても、何ら変わるところはありません。

筆者が関心を持つのは、「賤民史観」に毒されていない、一般史の基礎的な研究とその成果です。

前回、近世幕藩体制下の<民俗学者>である喜田川守貞の『近世風俗志』の「火事装束」の項に記載されていた、「茶染の革羽織」・「柿染の木綿羽織」について言及しました。「柿染」が、「柿渋染」の略語であり、同じ「柿渋染」の略語である「渋染」と同義語である、と論証しながら・・・。

「渋染一揆」の学者・研究者・教育者の中には、喜田川守貞著『近世風俗志』(岩波文庫)を読みなおしたあと、「渋染」と「柿渋染」・「柿染」は、異なる概念であり、別のものを指している、それを混同するのは、吉田向学の独断と偏見のなせるわざである・・・、と、またまた非難してこられるかもしれません。

無学歴・無資格の筆者は、プロの、「渋染一揆」の学者・研究者・教育者に反論する知識も技量ももっていないのですが、前回の喜田川守貞の『近世風俗志』の「火事装束」の項に記載されていた、「茶染の革羽織」・「柿染の木綿羽織」・・・、実は、喜田川守貞がその<伝承>の元になった文献の名前をあげています。それは、『落穂集』・・・。

どうすれば、その『落穂集』で、<渋染の木綿羽織>の存在を確認できるのか・・・?

インターネットで検索していて、あるサイトに出会いました。そのサイトは、山口県立文書館の研究員の方がしていたように、古文書を読みながら、それをパソコン上で活字にし、それどころか、現代語訳まで付して公開しておられるのです。

日本の歴史学に内在している差別思想である「賎民思想」に汚染されていない、歴史学の基礎研究としての情報公開です。

喜田川守貞が『近世風俗志』の中で、紹介されている<渋染の木綿羽織>は、『落穂集』の「第十巻」の「火事装束之事」からの引用です。

プロの「渋染一揆」の学者・研究者・教育者の方々には、不用とは思いますが、念のため、そのサイト(「古文書を楽しむ」http://www.hh.em-net.ne.jp/~harry/komonzyotop.html)から無断転載させていただきます。

火事装束之事

今時出火抔有之候節、歴々方之義ハ不及申、末々小身なる者とても羽織頭巾に胸懸まで綺羅を尽し有之候は以前よりの事にて候哉。

答云、惣て火事装束と有之義之初り候ハ酉の年大火事以後の義にて、其以前ハ沙汰も無之事ニ候、子細は酉年大火事の節外の義ハ存申さず浅野因幡守殿にも五万石領知あられ、大名の義に候へとも今時諸家の足軽共へ着せし様成茶色ふすべたる皮羽織に紋の付たるを着用あられ、家中にても五百石、三百石程之取候騎馬侍は不残柿渋の木綿羽織に大紋を付て着仕候。いかがして釣合候哉、知行取候侍共の中に只二三人皮羽織を着致したる者あり候を覚申候。右火事の日井伊掃部頭殿を間近く見懸候処に是も因幡守同前の羽織にて、馬廻りに共致候侍共の義は皆々不残木綿はおりを着用仕たる事ニ候。 其以後ハ足軽、中間風情の者迠も茶色の皮羽織をきせ不申は不成ごとく有之候。以上下見さかひ無之、侍分より上々の者の義ハ黒羽織を用ひ申ごとく有之。夫より今時之結構に成羅紗、羅背抜羽織に色々模様を致し、頭巾抔をも甲を見申如く間、ひさし吹通しを致し五枚三枚のしころをさげ胸かけ様にもさまざまの絵やうを仕ごとく罷成候ニ付、当時火事装束を一通新に整入仕候と在之候得ば、差料の具足一揃おどし立申程の物入に有之候也。其上武家がたの足軽、若党など斗にても無之、町人、出家に至る迠火事装束の支度仕り候様成義ハ以前ハさらさら無之義に候と也

『部落学序説』の筆者は、無学歴無資格の故、古文・漢文は苦手です。『部落学序説』の執筆においては、1行ないし2行の原文は、意訳しないでそのまま掲載することにしていますが、これだけ原文をそのまま引用しますと、読者の方々には、はなはだ迷惑になると思われますので、この『落穂集』の「火事装束之事」を古文書からインターネット上に転記された方の現代語訳を更に、無断で、掲上します。

火事装束の事

最近火事がある時など、主だった上層部の人々は勿論、下々の者まで羽織頭巾に胸懸と立派ものを着けていますが前からの事でしょうか

答、全体的に火事装束というものは酉の年大火事以後の事でしてそれ以前は全く話にも無かったものです。酉年大火事の時の事で外は分りませんが、浅野因幡守殿も五万石を取られる大名ですが、近頃では足軽に着せるような茶色の皮羽織に紋が付いたものを着ておられ、家中でも五百石、三百石程の騎馬侍は全員柿渋の木綿羽織に大紋が付いたものを着ておりました。只どうした理由からか知行を取る侍の中で二三人は皮羽織を着ていた人もあったのを覚えています。 この火事の日、井伊掃部頭殿を近くで見ましたがやはり因幡守と同じような皮羽織で、馬廻りにお供をしている侍は全員残らず木綿羽織を着ていました。これ以後は足軽、中間風情の者までも茶色の皮羽織を着るのが当然のようになってきました。 従って上下の区別がつかなくなる事から侍分以上の者は黒羽織にするようになり、更に近頃は立派になり、羅紗や背抜羽織に色々な模様を付け、頭巾なども甲の様にひさし・吹き通しを付け、五枚三枚のしころを下げ、胸懸けなどにも様々な絵を描くようになり、今時火事装束を一通り新調するとなると費用は具足一揃を造る程になります。 其上武家方の足軽、若党などだけではなく、町人や出家に至るま火事装束を用意しますが以前は全く無かった事です。

「渋染一揆」の学者・研究者・教育者の方々は、『落穂集』は、岡山藩の史資料ではないので、岡山藩の「渋染一揆」とは何の関係もない、それに、『落穂集』は、<民間>の文章であって、岡山藩の公式文書ではないので文献に値しない・・・、と批判されるかもしれません。

しかし、『部落学序説』の筆者としては、権力側の史料だけでなく、民衆側の史料・伝承も大切にします。『落穂集』とて、「渋染・藍染」を批判検証するときには、有力な資料となり得ると考えます。『落穂集』を公開された、大船住人(おおふなすみと)氏の文章と、喜田川守貞の文章を比較してみますと、次のことが明らかになります。

喜田川守貞・・・「柿染の木綿羽織」
大船住人氏・・・「柿渋の木綿羽織」

「柿染」と「柿渋」の違い、どこでどう違ってしまったのでしょうか・・・?

こういう詮索を、岡山藩の「渋染一揆」の学者・研究者・教育者」は、「重箱の隅をつつくような分析を理屈とこじつけで考察・・・」とうけとめられることになるのでしょうが、彼らにとっては、「柿染」と「柿渋」の違い、<染色法>と<染料>の区別など、「賎民史観」的研究の展開上まったく意味をなさないことなのでしょう。

筆者は、大船住人氏の「柿渋の木綿羽織」というのは、「渋染の着物」・「渋染の衣類」を指すことばであると判断します。

筆者の、<「柿染」は、「渋染」と同じく、「柿渋染」の略語である>、という見解を、文献上証明したことになります・・・。岡山の「渋染一揆」研究の学者・研究者・教育者が、大船住人氏の労作を否定なされるなら話は別ですが・・・。

「染」と「渋」の違い・・・、いろいろな可能性があります。

1.喜田川守貞が読んだ『落穂集』(写本)には、「染」という文字が使われていた・・・
2.校訂者の宇佐美英機氏が、「染」と読み間違った・・・
3.校訂者の宇佐美英機氏が、複数ある写本の中から「染」を採用した・・・
4.大船住人氏が読んだ『落穂集』(写本)には、「渋」という文字が使われていた・・・
5.大船住人氏が、「渋」と読み間違った・・・
6.大船住人氏が、「染」か「渋」か迷ったとき、指導に当たった教授が「渋」という読みを選択した・・・
7.印刷会社の印刷ミス・・・

筆者は、日本基督教団の牧師になるために、日本基督教団・農村伝道神学校で学んだことがありますが、4年間で取得した168単位の科目のうち、Textual Criticism 本文批評学、というのがあります。近世幕藩体制下の岡山藩の「渋染一揆」に関する史資料に出てくる「渋染・藍染」を批判検証するときに、その知識と技術を援用することになりますが、無学歴・無資格で、なおかつ、「渋染一揆」研究の門外漢である筆者は、日本の歴史資料に関する本文批評、その知識と技術、学的前提も持ち合わせていません。

しかし、2005年5月14日、『部落学序説』の公開書き下ろし・執筆をはじめるまで、山口県部落解放同盟新南陽支部の部落史研究会の方々と、延々と、こういう作業を繰り返してきました。従来の部落史研究で見落とされがちな、一言一句について・・・。毎日毎日、電話で、文献の読み合わせと、情報交換をした日々・・・。今考えてみると、それは、筆者にとっては、再び経験することのできない貴重な日々でした・・・。

しかし、岡山藩の御用学者・熊沢蕃山がいうところの「無学の平人」である筆者、岡山の、差別思想・「賎民史観」に依拠した「渋染一揆」の学者・研究者・教育者の「非難中傷」・「罵詈雑言」に臆することなく、「渋染一揆」関連の史料・伝承の<内容批判>を通じて、「百姓の目からみた渋染・藍染」の本質を明らかにしていきたいと思います。

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