2021/09/30

「渋染一揆」に参加した「穢多」が身にまとっていた衣服

「渋染一揆」に参加した「穢多」が身にまとっていた衣服・・・


『部落学序説』を書き始める前、部落解放同盟新南陽支部から借りていた、岡山藩の「渋染一揆」に関する資料のひとつに、川元祥一著『渋染一揆』があります。

筆者は、この本を返すことなく、手元に置き続けてきたのですが、この『渋染一揆』・・・、執筆者の川元祥一氏のことばを借りれば、『渋染一揆』に関する「絵本」の部類に入るそうです。

「絵本」といっても、幼稚園生向けの絵本ではなく、小中学生向けの、挿絵の入った、「渋染一揆」に関する物語です。おそらく、小学校・中学校の同和教育の副教材、あるいは、被差別部落の中で行われる、大人の集会、「解放学級」・「解放学校」のテキストとして用いることができるように執筆されたのでしょう。

あとがきで、部落解放同盟岡山県連合会委員長は、「渋染一揆の物語が本として刊行されることに、われわれ部落解放同盟岡山県連合会は、深い喜びをもっている。なぜなら、この一揆は、われわれの先祖が、命をかけて闘った、反封建闘争史上にも、さんぜんと輝く、誇りある一揆だからである。」と記していますが、「絵本」ではなく、「物語」なのでしょう。

委員長は、「一揆のなかで、部落大衆は・・・現在とくらべてもけっして劣らない組織的な活動をつづけ、部落民が一丸となって行動をおこした。・・・一揆は多くの犠牲をこえて、その伝統を今日の部落解放運動に脈々といきづかせ、多くの教訓をのこした・・・」といいます。

川元祥一著『渋染一揆』は、1970年代の、岡山県の部落解放運動に、大きな役割を果たしたのでしょう。岡山県の部落解放運動の組織化・大衆化のひな型として・・・。

この川元祥一著『渋染一揆』は、岡山県の差別・被差別を問わず多くの人びとに受け入れられ、そして、教科書に採用されることで、岡山県の被差別部落の歴史には、権力と闘い差別法令を撤回させた渋染一揆があることを、全国に知らしめることになったのでしょう。

1970年代の岡山県の部落解放運動が、川元祥一著『渋染一揆』という「物語」を必要とし、川元祥一氏がそれに応えたのでしょう・・・。川元祥一著『渋染一揆』は、運動論的要請に応える著作であったと思われます。

つまり、それは、歴史学の「論文」ではない・・・。

しかし、『部落学序説』の筆者は、川元祥一著『渋染一揆』を、単なる「絵本」・「物語」としてではなく、「部落学」的研究の対象・テキストとしてみます。「絵本」・「物語」は、単なる創作物ではなく、その背後に民衆の生活や生きるための闘いがあると信じているからです。「絵本」・「物語」にも、語り手の、深い思想・哲学が反映されているものです。

「無紋渋染・藍染」を強制する藩に、その法令の撤回を求めた、「穢多歎書」の中に、「凶作不熟の其砌・・・持合たる衣類ニても質入御年貢皆済致候」という文言が出てきますが、川元祥一氏は、その『渋染一揆』においては、「質入」れした・・・という言葉を伏せて、「生活にこまった時、着物を売ってその場をしのげません・・・」と表現します。

着物を質屋に質入れするのと、古着屋に売るのとでは、大きな違いがあります。

川元祥一氏は、この「質入」という言葉にどのような思い入れをしたのでしょうか・・・? 川元祥一著『渋染一揆』を読むことになる、被差別部落のこどもたちのことが念頭にあったのでしょうか・・・? 川元祥一氏が、「質入」を避けて通られることで、「渋染一揆」の研究から、「穢多」身分の「質入」と、その背景が欠落するようになったのではないでしょうか・・・。

川元祥一氏の『渋染一揆』出版から約20年後の文章においては、「茶色い着物、あるいは藍染の着物だけになると質屋にもっていったって質屋はとらないだろう・・・」と書いておられます。つまり、「渋染・藍染」の着物は質草にはならないけれども、それ以外の着物なら質草になる。たとへ、常日頃、穢多と交わりをしないひとびとが営む質屋ですら、その着物を質草として金子を用立ててくれる・・・、と。

川元祥一著『渋染一揆』には、「穢多」が触れるものはすべて穢れる・・・、というような発想がみられます。もしそうなら、「穢多」が質屋にもっていった質草も穢れていることになるので、「渋染・藍染」であろうがなかろうが、「穢多」は、どの質屋からも金を用立ててもらえなかったのではないでしょうか・・・?

部落史の真実は、往々にして、語られた内容より、語られなかった内容の方に存在します。これは、『部落学序説』の筆者の貧しい経験でしかありませんが・・・。

川元祥一著『渋染一揆』の中に、一揆に参加した「穢多」たちが身にまとっていた衣類の話が出てきます。

「白装束(死をかくごしたとき着る白いきもの)に身をかためた男たち・・・」

藩からの、「無紋渋染・藍染」を強制されたことに反対する「穢多」たちが、「一揆」に参加するとき、自ら、反対する「無紋渋染・藍染」を身にまとっていたのでは話にならない、と思われたのでしょうか・・・? 「無紋渋染・藍染」を「賤民の色」と判断する川元祥一氏は、「渋染一揆」に参加した「穢多」たちに、「賤民の色」ではない、「人をはずかしめる色」ではない、「白」色の服を着せることになった・・・、それは、筆者の勝手な推測でしょうか・・・?

『渋染一揆』から約20年後の川元祥一氏の文章(1992年度筑波大学第二学群日本語・日本文化学類の講義録)には、この「白装束」、白色の着物についての話は出てきません。

1995年の発行された、柴田一著『渋染一揆論』では、すでに流布されて、一般に受け入れらた「白装束」という解釈を援用しています。「禁服訟歎難訴記」の「白ひ菅笠」という言葉を、「白装束に編笠姿」と意訳しています。

柴田一氏は、「白ひ」という言葉を「白装束」と解することの間違いに気付いていたのでしょう。しかし、部落解放運動が展開されていくなかで、広く受け入れられていった「白装束」という解釈・・・、柴田一氏は、かなり度量の大きな歴史学者だったのでしょう。「白装束」という間違った解釈を受け入れ、そして、それを示唆するために、明らかな間違いを付加します。「菅笠」を「編笠」と解釈するのです。柴田一氏は、「菅笠」と「編笠」とするような単純なミスをするような人ではありません。

しかし、「菅笠」を「編笠」と解釈されたことで、「菅笠」が持っている意味が失われていきます。

川元祥一著『渋染一揆』では、その一揆に参加したのは、約3000人・・・。「三千の部落民衆の姿・・・どの顔にも、決死の表情があった・・・」。

1人分の着物を作るのに要する反物は1反です。3000人の「穢多」の「白装束」を用意するためには、木綿3000反が必要です。倹約令反対の意思表示をするため、「強訴」に際して、白色の木綿3000反を用意した、あるいは、常日頃から、3000人の「穢多」が「白装束」を用意していたとは、考えにくいところがあります。

川元祥一著『渋染一揆』の「物語」としての脚色でしょうか・・・?

川元祥一著『渋染一揆』の最後の結びの言葉は、「岡山藩の部落民衆は、渋染の着物を着ることは全くなかった。」・・・、という言葉です。

『部落学序説』の筆者が、近世幕藩体制下の岡山藩の「渋染一揆」に関する資料、あるいは論文を読む限りにおいては、「渋染一揆」に参加した「穢多」に「白装束」を着せることも、「渋染一揆」後に「穢多」に「渋染」を着せないことも、現代の「渋染一揆」研究の学者・研究者・教育者が作り出した幻想、「物語」でしかないと思うのですが・・・。

ちなみに、浄土真宗の門徒である「穢多」は、「白装束」(死装束)を身につけることはないとか・・・。

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