2021/09/30

寝た子を起こすな

寝た子を起こすな

近世から近代へ、その変革の時代を、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」である「穢多」は、どのように歩んでいったのか・・・。

筆者は、そのことについて、ほとんど資料を持ち合わせていません。歴史資料だけでなく、被差別部落に伝えられた伝承の中にも、直接そのことに触れる伝承はありません。

この『部落学序説』の執筆のきっかけになった、山口県北の寒村にある、ある被差別部落の古老の話にも、近世から近代へどのような思いで駆け抜けていったのか、何も聞くことはできませんでした。その古老が語っていたのは、近世から近代への身分上の変化と、その身分に伴う差別は近代において発生した・・・という事実だけでした。

その被差別部落の古老との出会いのあと、最新の注意を払って、近世から近代への、変革の時代を、「穢多」といわれた人々が、とのような思いでその境を越えていったのか、こころにとめて史料や伝承を漁ってきたのですが、これといった史料や伝承に遭遇ることはありませんでした。

最初、山口県北の寒村にある、ある被差別部落の古老を訪ねたとき、その前に、その村の浄土真宗の寺を尋ねました。そのとき、僧侶から、被差別部落の古老を尋ねるに先立って、2、3注意を受けました。

そのひとつが、「寝た子を起こすな」という言葉です。

住職によると、この「寝た子を起こすな」という言葉は、「差別」の側に身を置いている人々がよく語る言葉であるといいます。しかし、住職は、「寝た子を起こすな」という言葉は、時として、「被差別」の側から語られる場合がある、そのことについて、十分留意するように、というのです。

被差別部落の人々が、同じ被差別部落の人々に対して、あるいは、自分自身に対して、「寝た子を起こすな」と語りかける、それは、どういう意味なのか、私は、住職に尋ねようとしましたが、頭の中で、適切な質問の言葉を探しているうちに、結局、質問する機会を逸してしまいました。

住職が、口ごもりながら呟いた言葉はどういう意味なのだろうか・・・、私は、ずっと考え続けていました。そして、「寝た子を起こすな」の言葉の意味を探し求めたのですが、部落研究・部落問題研究・部落史研究の資料をひもといても納得のいく説明を見出すことはできませんでした。

しかし、部落問題・部落差別問題の文脈を離れると、「寝た子を起こすな」ということわざの意味について優れた解釈にいくつか遭遇しました。そのひとつに、金子武雄著『続・日本のことわざ』(現代教養文庫)の「寝ている子を起こす」ということわざの解釈があります。

少し長い引用になりますが、全文を紹介しましょう。

「幼児にとっても、
寝た間は仏
であり、眠っていさえすれば、なんの欲望もなくなんの不満もない。その上、
寝る子は育つ
という。だから寝ているにこしたことはない。
しかも、起きている子をあやすのは、なかなか容易ではないのである。だから、
寝る子は賢い親の助け
寝れば子も楽守も楽
などと言う。親にとっても、子が寝ていてくれるほど助かることはない。
ところが、せっかく寝ている子を起こすとしてらどうだろう。子にとっても守にとっても迷惑なことになるであろう。
同じように、せっかくおさまっている事をつついて、面倒なことにすることを、「寝ている子を起こす」と言うのである。
「寝ている子」を、過ってうっかり起てしまうこということもあるであろう。しかし、またわざと起こすということもある。けれども、そのために、その事に関係のある当人も、あるいははたの者も、迷惑を蒙ることになるのである。だから、「寝ている子を起こす」は当然、そういう人を批難することばとして用いられる。
もちろん、これは事なかれと願う心に立脚している。「寝ている子を起こす」ことが本当に無益であり、あるいは有害であるならば、そっとしておくのがよいのに決まっている。けれどもたとい一時は「子」がその平安を破られようとも、その犠牲を償って余りあるほどの大きな幸福がえられるような場合だってある。そんな場合には、はたる者の迷惑などには遠慮せず、起てやるのが親切というものである。これを批難するのは、自分の利益のためでしかないのである。起こしてやってよい「寝ている子」が世界にも日本にもいくらでもいるようだ。」

著者の金子武雄は、東京大学文学部国史学科卒で、この文庫本を出版されたときは、東京大学名誉教授をされていました。

私は、「寝た子を起こすな」ということわざの解釈について、この金子の解釈にまさる解釈に出会っていません。全文を引用するのは、その洗練された説明は、筆者の注を付け加えないで、そのまま読んでもらったほうがいいのではないかと思われたからです。

金子は、「寝ている子を起こす」人の所作を批難するのは、「自分の利益のためでしかない」と断言していますが、部落差別に関連した場面で、このことわざが用いられるときは、金子が指摘しているように、そう語る人の「自分の利益」が危機にさらされ、なんとかその危機から回避したいという思いが働いた結果ではないかと思うのです。

私は、それ以来、「寝た子を起こすな」と力説する人に出会いますと、「ああ、この人も、自分の中に、守らなければならないものがあるのだ・・・」というふうに受け止めてしまいます。そして、細心の注意を払って、その人の語る言葉、ひとことひとことに傾聴します。

「寝た子を起こすな」という言辞は、被差別部落出身者の陰の「告白」でもあるからです。

被差別部落の内外から「寝た子を起こすな」とささやかれている間に、被差別部落の人々の間にある深刻な事態が進行してしまいました。「寝た子」(被差別部落の人々)が、決して忘れてはならない大切なことを忘れてしまったことです。忘れてしまったのは、被差別部落の人々の歴史です。近世から近代へ、その変革の時代を自分の足で歩いて、越えていったその歴史そのものを忘れてしまったことです。

もちろん、山口県には、その歴史を忘れまいとして、その歴史の糸を忘却の海から引きずり出す古老も少なくありません。

以前、この『部落学序説』で紹介した、長州藩の萩城下の「穢多町」で使われていた、近世幕藩体制下の司法・警察である「穢多」の専門用語・語彙の蒐集をして、書きとどめた古老のような人も存在します。

しかし、多くの「穢多」の末裔は、その歴史を「寝た子」を演じている間に、本当に忘れてしまったのです。何も知らされないで大人になった被差別部落の人々は、次の世代に、彼らの先祖の歴史として語り伝えるべき内容を持ち合わせていませんでした。残ったのは、忘却のかなたに追いやった遠い祖先の話に「触れてはならない」という不文律のおきてだけ・・・。

今日、被差別部落の人々が置かれた現状を、『盥の水を箸で廻せ』の著者・東岡山治の語る言葉から検証してみましょう。彼の著作は、インターネットの検索で容易にみつかりますが、東岡山治がどういう人物かは、インターネット上での情報ではほとんど知ることができません。

その書の中で、東岡は、「私は被差別部落の生れで、幼いときからたくさんの差別を受けてきたのです。」といいます。「日本の差別社会をこわすことが私の使命」と信じた彼は、「全国六千部落、三百万人への差別に対する怒りに燃えて立ち上がり、解放運動を始めた」といいます。

東岡にとって、「部落解放」とは、「徳川三百年の差別と弾圧によって苦しめられてきた人たちを解放するということ」を意味します。

東岡は、近世の被差別状況をこのように綴ります。

「徳川幕藩体制下の中で、上は幕府諸大名、下は一般武士、工業職人、町の商人、農民を置きました。その農民から農作物を搾取しておりました。貧乏と差別のくるしみにつきおとされた農民の心の安らぎは、「えた、非人」を下におくということです。自分より下におかれた者に対する憎しみを持って生きるということが、虐げられた農民の唯一のなぐさめだったのです。幕府は諸大名を差別し、さらに諸大名は一般武士を差別する。武士はまた町人や商人を差別する。そしてそれらの多くの人たちが寄ってたかって農民を差別する。その農民の近くにいる「えた、非人」をさげすんで、それを徹底的に憎むことによって心の安らぎを覚えたのです。」

私は、東岡のこの言葉を読んだときに、いくつか疑問に思いました。

東岡にとって、百姓(農・工・商)とは何だったのでしょうか。東岡が描く、百姓像(民衆像)は、非常にいびつな存在に見えるのです。徳川幕藩体制下の農民は、徹底的な搾取にさらされ、「貧乏と差別」に苦しんでいたというのです。その百姓(民衆)の「唯一のなぐさめ」は、「穢多」を「さげすんで、それを徹底的に憎むこと」でっあたというのです。

東岡にとって、百姓(民衆)は、愚民以外の何ものでもなかったのでしょうか。

「部落解放」を標榜する東岡が、なぜ、ここまで、百姓(民衆)を愚弄するのか、私は、不思議でなりません。近世幕藩体制下の「百姓」(民衆)は、そんなに、いじけて、こころの小さいな、差別者ばかりだったのでしょうか。

私は、近世幕藩体制下にあって、「穢多」の姿をみて、「自分はもっとましだ・・・」と自分で自分を慰めるような百姓はほとんど存在していなかったと思います。武士による支配が、百姓(民衆)にとって、「貧乏と差別」以外の何ものでもないとしたら、近世幕藩体制下の百姓は、「天理人事に相背き候」と公言して、百姓の社会的な地位確立のため、その要求が通るまで、百姓一揆を引き起こし続けたでありましょう。

近世幕藩体制下の司法・警察である「穢多」が、百姓一揆・農民一揆弾圧のため、首謀者の探索・捕亡・糾弾のために「百姓」(民衆)に接するときは、百姓から怒号が飛んだことは十分考えられます。それは、近世幕藩体制下の司法・警察である「穢多」だけでなく、今日の警察・機動隊に対して時として投げかけられる言葉と同じです。「犬・畜生・人でなし・・・」。

そんな「穢多」に対して、「穢多は百姓より下におかれた者」とみなして、「「さげすんで、それを徹底的に憎む」、そんな百姓はひとりもいなかったと思われます。

東岡の歴史記述は、日本の歴史学の差別思想である「賤民史観」・「愚民論」に立った記述です。

私は、東岡の中に、百姓(民衆)に対する差別性を見いだします。なぜ、そんなに百姓(民衆)を貶めるような発言をするのでしょうか。由緒正しき百姓の末裔であり、貧しい父祖を持つ私は、「部落解放」運動家を自称する東岡の百姓(民衆)に対する「愚民論」的発言に、かなり、違和感を感じています。

東岡は、被差別部落の人々の「先祖」について次のように語ります。

「徳川幕府の時代に「えた、非人」の人たちは、牛や馬を殺しても人間を殺すことは許されなかった」。「被差別部落の人々は、牛や馬を殺すことはあっても、人の生命を殺す刀をもっていなかった」。

東岡の語る「先祖」像は、著しく歴史の実像に反します。

東岡は、「穢多」は、「牛や馬を殺す」ことがあったといいますが、近世幕藩体制下では、「生きた牛馬を殺害することは厳禁されていた」のです。しかし、「法」を遵守しなければならない「穢多」の中にも、ときどき、法的逸脱行為をするものが出てきます。彼等は、自己の利得のために、法を犯して牛馬を屠殺することが、ままあったようです。

延享2年(1745)長州藩都濃郡の長兵衛は牛3匹を殺した罪で「牢舎の刑に処せられ、まもなく牢内で死亡したため死首を獄門にかけられた」といいます。また、牛を殺害する目的で盗み出した穢多は、「斬首の上獄門に処せられている」といいます。長州藩に限らず、「穢多」が牛馬を殺害するというのは、自らに極刑を招くことになりました。

東岡は、「牛や馬を殺しても人間を殺すことは許されなかった」といいますが、近世幕藩体制下の穢多は、逆に、「人間を殺す」こと、つまり、死刑執行人の職務を法にそって忠実に履行するということはありましたが、牛馬を殺すということはなかったのです。

東岡の「許されたか許されなかったか」という発想はかなり認識にずれがあります。「許されたか許されなかったか」という点では、「穢多」は誰ひとりとして「殺人」することを認められなかったとしかいいようがありません。近世幕藩体制下の司法・警察システムの中で、裁判で極刑が言い渡された犯罪者に対して、死刑執行をその役務の内容として関与しなければならなかった側面がありますが、それは、「社会の安定」のため、あえて、その犯罪者の命を公的に奪うという営みであるので、法的逸脱としての「殺人」とはまったく別のものです。

東岡は、なぜ、近世幕藩体制下の「穢多」の「役務」についての歴史認識とは異なる見解を持つようになったのでしょうか。近世幕藩体制下の穢多の「役務」について、その事実を改竄して、事実とはことなる物語を捏造することによって、何がもたらされるというのでしょうか。

東岡の言葉を信じて、歴史の事実とは異なる、美化された「穢多」像、「牛や馬を殺しても人間を殺すことは許されなかった」という、歴史の事実とことなる虚言を信じた青年が、歴史の史料をひもといて、それが間違いであることを知ったとき、その青年は、どのような状況に陥るのでしょうか。

私は、大切なのは、歴史的事実を受け入れ、その意味を考え、その本質を把握することで、その歴史的「事実」の背後にある「真実」を語ることではないかと思います。

近世幕藩体制下の「穢多」が、死刑執行人の職務、「屠者」としての職務を遂行したのは、「穢多」の中の極一部の人々だけです。虫も殺すことができない、こころ優しい「穢多」に死刑執行を命じることはほとんどありえなかったと思います。「穢多」を管理していた「長吏頭」は、その人の性格や意志の強さを考慮して、死刑執行人を選んでいました。結婚してすぐの「穢多」とか、子供が与えられた喜びに溢れている「穢多」、愛する家族を失って歎き悲しんでいる「穢多」に死刑執行を命じることはなかったと思われます。

人選を間違うと、大変なことになります。「人を殺す」ことに堪えられなかった「穢多」は、「逃亡」を図るか「縊死」していったようです。死刑執行を「人を殺す」ことと同じであると思う気持ちがあると、処刑される犯罪者は、必要以上の苦しみをあじわうことになります。

東岡は、「部落の中に生まれた人間でも、ほんとうに人間を愛することを教える。人を傷つけてはいけない、殺してはいけないということを教える部落の人は多いのです。」といいますが、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「穢多」の末裔であれば、極めて当然のことです。

近世幕藩体制下の「穢多」は、「屠者」としての職務を執行するとき、それが、「死刑」という合法的な殺人であったとしても、こころに深い傷を負ったようです。近世幕藩体制下の「穢多」は、社会を犯罪から守るために自ら傷を受けることでその役務を全うしていったのです。その傷、「屠」にかかわる傷を癒す神として、白山信仰が、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「穢多」の間に流布していったのです。

ここでいう「屠」という言葉は、日本の古来から伝わる習俗のひとつ、年始にいただく「屠蘇」の「屠」と同じです。日本の歴史において、最初に軍事・警察を分離して、警察制度をつくり、犯罪を未然に防ごうとした嵯峨天皇の時代に遡ります。「屠蘇」は、「屠を蘇らせる」妙薬として中国・唐から伝えられたものです。職務遂行に伴う、こころの傷・「屠」が癒され、蘇らされるように・・・、そう願って、年のはじめに服用されたのです。

私は、東岡の語る「歴史」から、被差別部落の人々の記憶の中から、被差別部落の本当の歴史が忘れられている事実を確認するのです。特に、被差別部落出身の知識階級・中産階級に属する人々、特に高等教育を受けている人々の中に、日本の歴史学の差別思想である「賤民史観」の持ち主が多いように思われます。彼らの父祖である「穢多」が、近世から近代へ、変革の時代をどのように歩いて越えていったのか、その歴史を忘れてしまったときに、彼らの中に、「賤民史観」が潮のごとくどっと流れ込むのです。

私は、東岡の『盥の水を箸で廻せ』を何度も読みながら、こう思うのです。東岡は、本当に「穢多」の末裔なのだろうか・・・、近世幕藩体制下の司法・警察である「穢多」の歴史を忘れきっててしまうことが本当にあるのだろうか・・・、と。

0 件のコメント:

コメントを投稿

『部落学序説』関連ブログ群を再掲・・・

Nothing is unclean in itself, but it is unclean for anyone who thinks it unclean.(NSRV)  それ自身穢れているものは何もない。穢れていると思っている人にとってだけ穢れている(英訳聖書)。 200...