2021/09/30

筆者自身による『部落学序説』の読書感想文

筆者自身による『部落学序説』の読書感想文『部落学序説』の編集・校正をかねて、自分の書いて文章を最初から読んでいます。現在、第3章6節まで読み終わりましたが、ここで、筆者自ら、『部落学序説』の読書感想文を書くことにしました。

筆者にとって、部落差別に関する長文の論文を書くのは、これが2回目です。

第1作は、筆者が所属する教区の同和問題担当委員を8年間していたときの、活動報告書のようなものです筆者が委員会活動で知りえた、山口県の部落差別の様々な事象をとりあげ、それを分析し、「どうすれば、宗教者の中にある差別的体質を取り除くことができるか」という提案をしたものです。配布することを前提に、原稿用300枚(新書版)程度にまとめたものです。

この論文(レポート)は、教区の要請に基づいて提出したものですが、結果的には、「この論文は、教団・教区の同和問題の取り組みの方針から外れているので、評価するに当たらない。没収の上、廃棄処分にする・・・」ということで、闇から闇に葬り去られて行きました。

そして、しばらくして、教団の同和問題担当部門から、「教団は、あなたが同和問題に取り組むことを期待していない。それでも、同和問題と取り組むなら、教団の運動とは関係ないところでしなさい・・・」と言われました。

『部落学序説』の文責について、「すべて筆者個人にあります。所属している教団には同和問題担当部門がありますが、その部門とは直接的にも間接的にも何の関係もありません。」と明記したのは、教団と筆者の間にはそのような関係があるからです。

この『部落学序説』は、教区に提出した論文(レポート)の続編(歴史編)として書く予定であったものを中止して、筆者が所属する教団や運動団体とは関係ないところで、筆者個人による論文として、さらに多くの時間と労力を費やして執筆しているものです。

ブログ上で、あらためて『部落学序説』を書き下ろすことに決めたあと、どのブログにするかいろいろ検討した結果、有料のココログにすることにしました。理由は、「書き下ろし」であるため、編集・校正による文書の削除・挿入・追加が比較的容易であることと、『部落学序説』の著作権(出版権)を100%筆者に留保することができること、という条件をみたしていたからです。

結果、ココログは優れた知的生産ツールであることがわかりました。

学歴も資格もない筆者の書く論文は、「論文」という名に値しない、小・中・高生の「作文」でしかないということは、十分自覚しています。しかし、「真剣に言いたいと思うことがあれば、ことばを追いまわす必要があろうか」(『ファウスト』)という、ゲーテの言葉に促されて、「論文」として執筆しています。

今回、自分で自分の書いた『部落学序説』を読んでみて思うのですが、自分自身にも訴えてくるものがあるので、『部落学序説』の論文の構造や、個々の文書については見直す必要がないと思わされました。

ブログ上で『部落学序説』を読み直しはじめたとき、近くの書店(周南団地・宮脇書店)で、哲学書のコーナーに目を通しているとき、野矢茂樹著『他者の声・実在の声』を見つけました。19のエッセイを集めたものですが、帯に「語りきれぬものは、語り続けねばならない」とあり、その言葉に引かれて、『他者の声・実在の声』を買い求めました。

本文のなかにこのような言葉がありました。

「論理空間の変化を語ろうとすることには、こうした変化の語りがもつ一般的な論点に加えて、語ることに">よってのみその語りの位置する論理空間が示されうるという事情が働く。私はまず語り、語ることにおいてその論理空間を示し、さらにまた新たに語り、そうすることにおいて新たな論理空間を示す。そうやって示し続けることにおいて、時の流れの中で、論理空間の変化を、すなわち他者の存在を示すのである。ここにおいて、沈黙は何も示しはしない。それゆえ私はこう言おう。語りきれぬものは、語り続けねばならない」。

『部落学序説』執筆中に、筆者のこころの奥深く、臓腑の底にまで、しみてくる言葉でした。

「部落差別」という、「語りえぬもの」を前にして、多くの人は何も語ることなく、その前を通り過ぎて行きます。「部落差別」について、一切触れぬことが、識者の常識であり、良識であると考えます。あえて「語りえぬもの」を語ろうとすると、様々な障碍が姿を現してきます。

安芸の「百姓」のことわざに「たるへび」というのがありますが、誰かが、その「たる」から出て行こうとすると、そうはさせまいとして、他のものが、その足をひっぱり、「たる」の中にもういちど、引きずりこんでしまうというのです。安芸の「百姓」は、「百姓一揆は、権力によって仕掛けられたたるへびという罠にかかって潰されてきた」と自戒しますが、「たるへび」的状況は、今日においても珍しくはないのです。

「部落差別」という、「語りえぬもの」を前にして、何事かを語り始めるとき、「たるへび」的状況が、突然と出現します。一緒に「たる」の外にでるならともかく、「たる」の中にとどまること、長年、取り組みをしてきた部落解放運動の実績がつめこまれている「たる」の中にとどまることで、一時的な「安心立命」を得ようとします。

井戸の中に閉じこもるのは至って容易なことですが、井戸の中から出て、大海に身を置くことは、それほど簡単ではないのです。「水平社宣言」の、「水平」は、井戸の中に身を置き続ける限り、見ることができない類のものです。「水平」線をみるには、「井戸」を出て、「大海」の前にたたずまなければなりません。

『部落学序説』を書き始めて、山口県北の寒村にある、ある被差別部落に聞き取り調査に同行した「研究者」の山口県立某高校教師は、筆者が単独で聞き取り調査をしたことにしてほしいと要望してきました。『部落学序説』の荒唐無稽な論文に連座して恥をかきたくないというおもいからでしょうか・・・。また、山口県の部落解放同盟の関係者の方から、「これまでの部落解放運動の成果を否定する論法である」との批判もありました。筆者の目からみると、両者とも、「水平」を見るために「大海」に立つことを恐れて、どよんだ古い井戸の中に埋没して生きていこうとする姿勢のあらわれとしか見えません。

山口県の部落解放同盟の関係者の場合、灘本昌久氏から、「(部落解放)運動史上の汚点のひとつ」と批判され(『部落の過去・現在・そして・・・』131頁)、それに対して、何の反論もされなかったのですから、「井戸」の中の運動実績にこだわる必要は一切ないのではないでしょうか・・・。

『他者の声・実在の声』の著者・野矢茂樹は、「語りえぬものについては、沈黙するしかない。だが、語りえぬものを語りえぬままに立ち上がらせるには、語り続けねばならない。」といいます。

『部落学序説』執筆は、最初から最後まで、筆者の単独行になりそうです。

筆者は、野矢茂樹著『他者の声・実在の声』を読んでいて、野矢の「宿命論について」の文章の中に、『部落学序説』の読書感想文を書くのにふさわしい言葉を見出しました。

「「過去を振り返る」ことと「過去に立ち返る」こととを区別しよう。過去を振り返るとは、現在までの世界の一部として過去を捉えることであり、過去に立ち返るとは、過去のその時点までが生成しているすべてであるものとして、それゆえそれ以後はまだ生成していないもとして、その過去世界を捉えることである。」

筆者が、『部落学序説』で、近世・「穢多村」と近代・「特殊部落」を批判・検証し、その総合として描く視角・視点・視座は、「過去を振り返る」方法ではなく、「過去に立ち返る」方法だったのです。

日本の歴史学に内在する差別思想である「賎民史観」は、この「過去を振り返る」方法に立脚します。明治以降の「賎民」・「特殊部落民」という概念でもって、「過去を振り返る」作業をします。しかし、「賎民史観」を「歴史学上の差別思想」であるとして批判的研究を遂行する筆者の「部落学」は、「過去に立ち返る」作業を延々と繰り返してきたのです。

野矢は、「私はいま「過去に立ち返ること」と、いささか気楽に書いた。しかしもちろん過去に立ち返ることなど、われわれには不可能である。」といいます。しかし、野矢は、「かろうじてできることは・・・」と、少ない可能性を示唆します。

筆者は、「部落学」を、非常民の学として、歴史学、社会学・地理学、宗教学の学際的研究として、それらの基本科目にとどまらず、民俗学・人類学・文化学・政治学・経済学・法学・国際関係学等の周辺科目を含めた総合的な学際的研究として定義してきました。可能な限りの個別科学を総動員して、史料と伝承を拾い集め、分析と総合作業によって、「過去に立ち返ること」で、部落差別の完全解消の道を模索してきた・・といえるのです。

野矢茂樹の『他者の声・実在の声』は、『部落学序説』執筆継続の意欲を掻き立ててくれます。

野矢はこのようにいいます。「過去から現在への宿命論の議論は、過去を振り返ることと過去に立ち返ることとの区別をしそこねたところに成立したものにほかならない。過去に立ち返ることを考えるとき、そこおいては宿命論は端的に成立しない。過去から現在への宿命論がある意味で成立しうると言えるのは、あくまでも振り返られた過去においてである」。

日本の宗教者の中にすくう、もうひとつの差別思想、「宿命論」や「業論」は、日本の歴史学に内在する差別思想である「賎民史観」と同祖同根なのかも知れません(朝日新聞(2005年10月13日付)で報道されていた、元山口県立大学長・岩田啓靖氏の論文『旃陀羅概念の考察』の完成が楽しみです。論文発表予定から12年が経過しているとのことですが、岩田啓靖氏のこころの中で熟成されて、充実した革新的内容で公表されることになるでしょう。「反差別」の姿勢で取り組みをされてこられた方のようですから、楽しみです)。

最後に、野矢の言葉を引用してこのページを終わります。

「ある研究領域に新しく入ってくる新入りやよそ者というのは、ときにすごく革新的な仕事をすることがある。研究者として着実な仕事をたくさんするのは、その実践になじんだ人の方がいいわけだけど、そうした活動が順調であればあるほど、その枠組、蝶番の部分は固定されていく。それに対して、まだ完全にインサイドに立っていない人は、そもそもの実践の枠組みそのものを変えてしまいかねない・・・」。

筆者は、この『部落学序説』が、ひそかに、野矢のこの言葉に適うことを願っています。

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