2021/09/30

インターネットで「部落問題」を読む

『部落学序説』の工事が終了に近づきましたので、今日は、インターネットで、「部落問題」に関する記事を散策しました。


「部落」・「部落問題」・「部落史」に関する記事を見て回りましたが、記事数は決して少なくありません。数多くの関連記事が存在しているにもかかわらず、残念ながら、その内容は画一的で単調で、型にはまったものがほとんです。

中には、「部落とは何か」、「部落民とは誰か」、「部落差別はどのようにしたら完全解消につなげることができるのか」と言った、基本的な問いに直面している運動団体も少なくありません。野口道彦路線(『部落問題のパラダイム転換』)に従って、「部落民」から「被差別市民」を指向しているとおもわれるところもあります。

本当は、「部落とは何か」、「部落民とは誰か」、「部落差別はどのようにしたら完全解消につなげることができるのか」・・・という問いは、同和対策事業展開前にあきらかにしておくべき事柄でした。それらの問いに対する答えこそ、本来の同和対策事業の基本的な理由でした。

同和対策事業終了後に、あらためて、「部落とは何か」、「部落民とは誰か」、「部落差別はどのようにしたら完全解消につなげることができるのか」・・・、ということが問題になるということは、同和対策事業や同和教育事業そのものが、最初から問題を含んでいたか、瑕疵を持っていたということを、被差別部落の側、運動団体が認めたということになります。

山口県の部落解放運動についても、問題は不透明です。同和対策事業は、事業展開時点での被差別状況の改善にあったはずですが、中には、先祖の歴史を調べていたら、かって被差別部落に住んでいたという事実を発見して、部落民を宣言し、同和対策事業に乗り出して行った・・・という話も耳にします。

もちろん、そのような形で部落解放運動に参加した人々の自己理解には、筆者が、山口県北の寒村にある、ある被差別部落をたずねた際、古老から聞いた、被差別という事実を背負って生きる「葛藤」のようなものは存在しません。あるのは利権の飽くなき追求と、その背景になる「賎民史観」のみです。

国の同和対策事業の終了と共に、山口の部落解放運動に参加していた多くの人々が、部落解放運動から遠ざかって行った現実を考えると、部落解放運動とは何であったのか、考えざるを得ません。

しかも、33年間15兆円という巨額な「国民の税金」を投与して、同和対策事業が展開されたにもかかわらず、一般の国民が納得できる形で、その事業総括が公表されるということはないのです。33年間15兆円という国民の血税が、正しく支出され、国民が納得できる、どのよう成果をおさめることができたのか、国・地方公共団体、政党、運動団体は、それぞれその事業内容・活動内容を公表すべきでしょう。

これまでの総括を一切放棄して、あらためて、「部落とは何か」、「部落民とは誰か」、「部落差別はどのようにしたら完全解消につなげることができるのか」・・・と、問い直すところから、部落解放運動をやり直すというのは、何を意味するのでしょう?

インターネットで、「部落問題」に関する記事を散策していて思うのは、被差別部落の側に、部落解放運動への展望がないということです。

なかには、これまで築きあげてきた組織のみを誇って、肝心の部落解放運動の中身のほとんどないホームページも見られます。現実の世界だけでなく、インターネットの「仮想」の世界においても、部落解放運動は、確実に、形骸化されつつあります。

部落解放運動の混迷は、学者・研究者・教育者の「部落」・「部落問題」・「部落史」研究離れを引き起こしているように思われます。彼らが、これまでしてきたことは、部落解放運動の、背後からなされる理論的支援だけだったのでしょうか。部落解放運動が後退をしていくなか、学者・研究者・教育者の「部落」・「部落問題」・「部落史」研究離れはやむをえないことがらなのでしょうか。

すこしく傲慢に聞こえるかも知れませんが、無学歴・無資格の筆者から、部落解放運動の根幹にかかわる理論と内容を含む『部落学序説』をつきつけられて、ほとんど誰からも反論がない、あっても、従来の部落解放運動の過去の実績の擁護のためだけの批判でしかない現実は、学者・研究者・教育者の「恥」ではないでしょうか。

学者・研究者・教育者の沈黙は、『部落学序説』の暗黙の肯定と受け止められます。

山口県の部落解放運動家、学者や教育者は、筆者の論文を、「たたき台」として位置づけていました。『地域史のなかの部落問題』の著者・黒川みどりは、「はじめに」で、「本書は、これをたたき台として今後の研究が進展していくことを願いつつ世に問う」とうたっていますが、無学歴・無資格の筆者は、そのようなことばはおこがましくて口が裂けてもいえません。

『部落学序説』を超える、部落完全解消のための新しい理論の登場を願うのみです。

黒川みどりは、部落史を明治4年の太政官布告を起点にして、その研究を展開します。「たたき台」にされるべきは、彼の著書・『地域史のなかの部落問題』ではなく、それを成立させている、彼の学問的前提なのです。学者として、『地域史のなかの部落問題』を明治4年の太政官布告を起点にして執筆する「意図」なのです。学的前提として不問にふされている、彼の学者としての研究「意図」・・・、それこそ、「たたき台」にされなければならないのです。

部落史研究者の解釈学的「意図」を明確にする作業を経なければ、今日、行き詰まり状態にある部落研究・部落問題研究・部落史研究を打開して、あたらしい地平を拓くことは不可能でしょう。

よき果実を得るためには、古株に新しい芽を接木するのではなく、まったく別な新しい苗を植える必要があります。

学歴も資格も持ち合わせてはいない、よって、それに即応する社会的責任のない筆者のたわごとなのでしょうか・・・。

0 件のコメント:

コメントを投稿

『部落学序説』関連ブログ群を再掲・・・

Nothing is unclean in itself, but it is unclean for anyone who thinks it unclean.(NSRV)  それ自身穢れているものは何もない。穢れていると思っている人にとってだけ穢れている(英訳聖書)。 200...