2021/10/01

典型的な差別語「四本指」について

典型的な差別語「四本指」について


「特殊部落民」と同じく「四本指」という言葉は、典型的な差別語です。

どこをどのようにとっても、「四本指」を<非差別語化>することは不可能です。「四本指」という言葉は、被差別部落と被差別部落民を差別するためにつくられた言葉です。

その「四本指」が差別語であること、また、被差別部落のひとびとを指すのに「四本指」「代名詞」として用い、「親指を曲げた四本指」として象徴的なしぐさで表現することは、典型的な「差別行為」になります。

山口県A市A中学校A教諭の差別事件をまとめた、部落解放同盟新南陽支部の、現在の部落史研究会の方々が作成した『論文と資料』によりますと、「四本指」という差別語・差別行為について、被差別の側からこのような解釈が提示されています。

「四本指」は、「部落民に対する予見と偏見の象徴である」。

「四本指」は、「部落民を人間外の賤しい人間」と見なしていることを意味する。

「四本指のしぐさ・行為によって、私たちの先輩やきょうだいたちが生命さえ奪われてきたのは過去だけのことではない」。

「四本指」は何を示しているのか? 「様々に<いわれ>をつけようとつけまいと「四本指」は、部落民を対等な人間とはみず、<賤しい人間外の人間>とみる<部落民に対する代名詞>である」。

「四本指」は「「人間にあらず」という悪意をこめた部落民への偏見である」。

部落史研究会の方々は、「四本指」という差別語を使用するときは、自分たちの意志によってもちいるのではないことをしめすために、かならず「四本指」・・・というように括弧付で使用しています。「四本指」という言葉を、被差別部落の人々が自らの存在を表現するために「自称語」(ブログ『蛙独言』の著者・田所蛙司氏から影響を受けた言葉)として使用することはないのです。

部落史研究会の方々は、「四本指」という言葉の「いわれ」を検証しようとはしません。「四本指」という言葉を説明するに、どのような<いわれ>が採用されようと、「四本指」を本質的に差別語であって、その言葉を、無化することも、非差別語化することもできない・・・、と主張されます。「四本指」という言葉は、被差別部落の人々をさして用いられる言葉としては、「死語」にならなければなりません。

「四本指」は、被差別部落のひとびとに、その人生から希望を奪い、その生命さえ奪ってきた「予見」・「偏見」・「悪意」が作り出した差別語・差別行為なのです。

『部落学序説』とその関連ブログ群の執筆者である筆者が、はじめて、部落解放同盟新南陽支部の部落史研究会の方々が作成された、A中学校教師差別事件に関する『論文と資料』を読ませてもらったとき、筆者、その『論文と資料』に掲載された、上記の引用したことばのうち、次の表現がこころに刻み込まれました。それは、

「四本指」は、「部落民を人間外の賤しい人間」と見なしていることを意味する。
「四本指」は何を示しているのか? 「様々に<いわれ>をつけようとつけまいと「四本指」は、部落民を対等な人間とはみず、<賤しい人間外の人間>とみる<部落民に対する代名詞>である」。

ということばです。

部落史研究会の方々は、「四本指」は、「部落民」を、「人間外の賤しい人間」・「賤しい人間外の人間」とみなすことと同じである・・・、というのです。

この表現、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」の用語で言い換えれば、「社会外社会」・「人間外人間」・「賤民」・・・、ということになります。

A中学校教師差別事件に関する『論文と資料』を読んで以来、筆者は、「四本指」という差別語・差別行為は、被差別部落のひとびとを「賤民」と断定する差別的象徴である・・・、と理解してきました。被差別部落の人々に、「四本指」を突き出すことも、被差別部落の人々をさして「賤民」という概念を適用することも、同じ差別表現・差別行為であると自覚するようになりました。

部落史研究会の方々が、「四本指」を括弧付でしか使用しないのと同じように、被差別の当事者ではない、差別・被差別の関係の中では、差別の立場にたっている筆者は、被差別部落の人々をさすのに「賤民」という概念を使用するときは、留保をつけて括弧付で使用してきました。・・・それから20数年、筆者は、日本基督教団の牧師として、部落差別問題にかかわってきましたが、「賤民」という概念を使用しなくても、部落問題・部落差別問題について表現することができるようになりました。

今では、はっきりと確信をもってこのようにいうことができます。

被差別部落の人々を「四本指」という差別語・差別行為でしめすことは、被差別部落の人々を「賤民」と断定することであり、被差別部落の人々を、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」の学問上の差別語である「賤民」概念で表現することは、学問・研究の世界で、被差別部落の人々を「四本指」として認識・表現するのと同等・同義であると・・・。

「被差別部落の人々は四本指である」という命題と、「被差別部落の人々は(あるいはその先祖は)賤民である」という命題とは同義である・・・、と。

筆者の『部落学序説』(「非常民」の学としての部落学構築をめざして)は、部落差別問題について、ほとんど何もしらなかった筆者が(部落解放同盟新南陽支部の学習会に参加するようになって、筆者、被差別部落のおじさん・おばさんから差別語を使用しているとの指摘を何度も受けました。その都度、その理由を教えられ差別語の使用をやめていきました・・・)、日本の歴史学に内在する差別思想である賤民史観から自由になって、被差別部落の人々を、司法・警察である「非常民」という概念で認識するようになっていった要因は、山口の地における被差別部落の人々との出会いに大きく影響されています。

もちろん、山口県に住む被差別部落のひとびとは、すべてのひとが部落解放同盟新南陽支部のひとびとのような方々ばかりではありません。新南陽支部の方々は、差別社会(A市立中学校教師差別事件の場合、教育界のことですが・・・)からの「四本指」というラベリングを根底から否定しようとします。新南陽支部の部落解放は、「四本指」というラベリングを許容する差別社会を根底から解体することです。

しかし、山口には、「四本指」としてラベリングされ、その差別的現実を受容して「五本目の指」「返せ」と運動してきた人々もいます(詩集『部落』)。

日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」による、被差別部落の人々に対する「賤民」という差別語によるラベリングを拒否する人々もいれば、「賤民史観」を受け入れ、「賤民」からの解放を目的に運動する人々もいます。運動団体からみれば、前者は、部落解放同盟(旧社会党系)に多く、後者は、全解連(共産党系)に多くみられます。

『部落学序説』の視点・視角・視座である「非常民論」・「新けがれ論」・・・、部落解放同盟新南陽支部との交流の中から、筆者が、「常民」(「差別者」)の視点・視角・視座から、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」を考察したものに他なりません。いわば、<出会い>の産物です。部落解放同盟新南陽支部の部落史研究会の方々の<合理主義的人間観>と筆者の<聖書的人間観>の類似性が、差別・被差別を越えて、共に、部落史を検証していくときの共通基盤となりました。

少し断線しましたが、部落史研究会の方々と『部落学序説』の筆者の、差別語「四本指」を明らかにした上で、A市立A中学校教師差別事件のA教諭の「四本指」理解を検証します、次回・・・。

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