2021/09/30

中江兆民論 父-元穢多を妻とした中江兆民

中江兆民論 父-元穢多を妻とした中江兆民


「黙スル者ハ語ル者ニ非ルナリ。語ルノ黙スルノ・・・正ニ相反スル者ナリ。・・・黙スル者ニシテ語ルニ如カズト曰ハバ、人誰カ之ヲ怪マザル者アラン」。

中江兆民の言葉です。

中江兆民は、石田玲子(平凡社『世界大百科事典』)によると、「明治時代の思想家,評論家。本名は篤介,号は兆民以外にも青陵,秋水,南海仙漁その他がある」といいます。「土佐藩士下級武士士族の家に生まれ、漢学を身につけるとともにフランス語を学び,1871年(明治4年)フランスに留学,74年帰国後,西園寺公望の《東洋自由新聞》《政理叢談》によって、フランス民権思想の普及と専制政府攻撃に縦横の筆をふるった。」といいます。第1回国会議員に当選して政界に身を置いたり、「実業界への転向と失敗」、再び「政界復帰」をしたりします。時代の流れの中で、彼は、彼の持論である「民権」から「国権」へ思想的転向をとげていきます。

中江兆民が筆をふるった日刊紙《東洋自由新聞》も、多くの反政府・批評家と同じく、「岩倉具視らの干渉」(山住正己『教育の大系』(岩波近代思想大系))によって、わずか34号で廃刊に追い込まれていきます。

明治22年(1889)、中江兆民は、『東雲新聞』に大円居士の筆名を用いて投書の形で、『新民世界』を公表します。その論文はこのような言葉ではじまります。

「余は社会の最下層のさらにその下層におる種族にして、インドの「パリヤー」、ギリシャの「イロット」と同僚なる新平民にして、昔日公らの穢多と呼び倣わしたる人物なり」。

現代的な表現を使えば、中江兆民は、偽名を使って「穢多」の末裔であるとカミングアウトをした・・・ということになりますが、なぜ、兆民は、そのようなふるまいに及んだのでしょうか。兆民は、足軽の家系である父・元助と、藩士の家系である母・青木柳との間に生まれたこどもです。

近世幕藩体制下の「藩士」と「足軽」身分との間には、原則として越えることができない深い溝があります。中江兆民が、幼年時代、どちらの身分の影響をより強く受けたかはわかりませんが、かなり複雑な精神的環境に置かれたであろうことは想像に難くありません。

中江兆民は、明治12年(1879)同郷の士族の娘と結婚しますが、翌年には離婚しています。「士族」の娘との相性がよくなかったのでしょう。

明治18年(1885)中江兆民は、「長野県出身のちのと結婚」(フリー百科事典『ウィキペディア』)します。結婚後、一男一女をもうけます。兆民の葬られた青山墓地には、兆民の妻・ちのと長男・丑吉が共に葬られているといいます。

中江兆民の足跡をたどっても、兆民が「穢多」の末裔であるという事実はでてきません。それなのに、なぜ、兆民は、「旧穢多の一塊肉にして、すなわち新平民の一人物なり」とカミングアウトをするにいたったのでしょうか・・・。兆民の土佐での在所には、4箇所の穢多村があって、若かりし日、なんらかの関係があったのではないかと推測するひとがいますが、それ以上には言及していません。

この『部落学序説』では、近世幕藩体制下の司法・警察に従事した「非常民」という概念の外延として「同心・目明し・穢多・非人・村役人」をとりあげてきましたが、「同心」役は、主に「足軽」層によってになわれました。

「与力」が正式の「藩士」であるのと比べて、「同心」は、「藩士」の身分枠の外、「士雇」(さむらいやとい)の身分階層に属することになります。

犯罪者の探索・捕亡・糾弾、百姓一揆の鎮圧などに、「同心・目明し・穢多・非人・村役人」は、「非常の民」・「非常民」として動員されましたから、「同心」身分と「穢多」身分との間に、なんらかの交流があっても不思議ではありません。

現代的にいえば、ひとつの警察署管轄内で、「捜査刑事」と「駐在所の巡査」との間に交流があっても不思議ではないのと同じく、近世幕藩体制下においても、同じ「非常の民」である「同心」と「穢多」との間に交流があっても不思議ではありません。

「穢多」に対して、「百姓」(町人・農人等)と「衣食住」という日常生活のレベルにおいて交際が禁止されたのは、両者を差別するというのではなく、「穢多」が、近世幕藩体制下の司法・警察としての職務を全うするためには、日頃から、「非常の民」として「襟を正して」職務を遂行するためでありました。

「別火」は、「非常民」である「穢多」と、「常民」である「百姓」が、一緒に食事や宴を共にすることで、癒着や汚職の疑いをかけられ、「公平」を旨とすべき職務遂行に「偏向」が生じるのを防ぐためであったと考えられます。また、「別婚」は、藩や奉行が許可しない結婚によって、「極秘」にされるべき犯罪者や一揆の取締りに関する情報が外部にもれるのを防ぐためであったと思われます。

近世幕藩体制下の「穢多」に対して出されたお触れは、現代において、警察職に殉じている人々にとっては、過去のことではなく、現在のことがらであると言われています。警察官は、制服を着たまま市民から飲食をご馳走になってはいけないでしょうし、結婚するに際しても、暴力団や風俗関係者と結婚することについては上司から指導が入ると言われています。それは、「差別」でなはなく、襲名している「警察官」という社会的に重要な職務に対する当然の規制であると言われます。

中江兆民は、孝明4年(1847)生まれですから、明治維新以前、同じ「非常の民」であった「穢多」と友好を分かち合っていたとしても不思議ではありません。

しかし、それなのに、なぜ、中江兆民は、なぜ、「旧穢多の一塊肉にして、すなわち新平民の一人物なり」とカミングアウトのまねをするようなふるまいをしたのでしょうか・・・。

『部落学序説』の中ですでに取り上げた「差別」と「被差別」の関係のパターンからしますと、中江兆民の立場は、「被差別(偽)」にあたります。ほんとうは、被差別部落出身ではないのに、被差別部落出身者であるかのように、言動を繰り返している人々の範疇に入ります。

33年間15兆円を費やして実施された同和対策事業・同和教育事業のはなやかなりし頃は、知識階級・中産階級の中に、中江兆民と同じような言動をとる人々が少なくありませんでした。

筆者の属する宗教教団においても、「被差別(偽)」の立場で、「部落解放運動」に参加していった人も少なくありません(現在では、逆で、ほんとうは被差別部落出身ではなかったと逆カミングアウトをする人もいます)。

中江兆民が、『新民世界』を執筆したのは、明治22年のことです。

兆民は、近世幕藩体制下の司法・警察であった「穢多」は、「・・・士族のために打たれ、踏まれ、軽蔑されて、憤発することを知らざりし」(百姓に打たれたのではない)といいます。

その「穢多」は、明治以降「旧穢多」として、「平民」(下級武士・百姓・・・)から、「新平民」として差別されるようになります。

近世幕藩体制下の長州藩においては、「新百姓制度」がありました。「武士」身分が「百姓」として帰農することができる制度がありました。「武士身分」を棄てて、新しく百姓になった、という意味で「新百姓」と呼ばれる場合がありました。この「新百姓」という言葉には、「昨日まで武士であったものが、なんで百姓などできるものか・・・」という、ある種の軽蔑の思いが含まれていたことは否定できませんが、「新平民」という言葉には、それ以上の差別的な響きが伴うようになっていったと思われます。

明治政府は、近世幕藩体制下の「常民」を、国家存続のために銃を持つ「非常民」に変える方針を打ち出しますが、「常民」の中から、激しい抵抗がおきます。全国至るところで、「非常民」化反対運動、反対一揆がおきます(歴史家は、歴史の記述の中からこの「非常民」化反対の動きを、あいまいにして隠蔽してしまいます)。

中江兆民が、『新民世界』を執筆した明治22年当時、「部落」という概念は、明治政府の議題として、行政用語・学術用語として、明治17年頃から使用されていましたが、まだ、一般の市民には普及していなかったのでしょう。中江兆民の『新民世界』には、「部落」・「部落民」という概念は一度も登場してこないのです。

中江兆民のいう「旧穢多」・「新平民」と、今日の時代の部落研究・部落問題研究・部落史研究家が使用する「部落」・「部落民」という概念の間には、無視することができない違いがあります。

中江兆民は、明治24年秋、北海道西海岸を旅行しその紀行文を記します。『西海岸にての感覚』の中で、「留萌」滞在に触れ、このように記します。「粉面紅頬媚を売り客を招ぐ牝馬牛有り。我れ是に於て北海道の一大淫国たるを知る」。中江兆民は、「遊女」を「牝馬牛」と呼びます。「遊女」は、「人間以下の人間」、「人にあらず」、「牛馬に等しい存在」とでも思っていたのでしょうか・・・。

中江兆民の、「遊女」に向けた差別的なまなざしと、「旧穢多」に向けたまなざしとの間に、無視できない温度差があるのに気づかされます。

中江兆民の生きていた時代には、「旧穢多」と「遊女」を同じ「被差別民」という概念でひとくくりする発想はなかったのでしょう。中江兆民は、むしろ、「旧穢多」と「遊女」との間に、異なる価値判断を抱いていたように思われます。中江兆民は、「旧穢多」に関心を寄せても、「遊女」については非常に冷たい視線を浴びせます。

中江兆民の、「旧穢多の一塊肉にして、すなわち新平民の一人物なり」という告白・宣言の背景を理解することができず、あれやこれや模索していたある日、唯物史観に立って被差別部落の歴史を研究してきた井上清の文章の中に、ある言葉が私の目に飛び込んできたのです。

この『部落学序説』を書きはじめてから何度も再読した書であるのに、いままで気づくことなく素通りしてきた言葉です。

「すべての人は生まれながらに自主自由の権利をもち、政府は人民の自由をまもるためにあるもので、人民が政府のためにあるのではない、人民は専制政府に反抗し、これを倒して、民主的政府をつくる権利がある、と主張した自由民権運動も、1880年前後の10年間、はげしくたたかわれた。その文書の中にも、とくに部落解放を説いたものはないが、高知県の自由党の活動家たちは、県下の部落民の人権をまもるために、かなり熱心に働いている。また先にあげた柏原の部落からは、自由党に参加した闘士もあった。ほかの部落も同様だったにちがいない。自由民権運動の中から、部落民の人間的誇りを説く人も出た。高知県出身の中江兆民がそれである。・・・兆民の妻は長野県の部落出身であると推定される・・・」。

井上清の部落史研究家としての眼識が正しければ,中江兆民の妻は、長野県出身の「穢多」(長吏)の末裔ということになります。兆民が、「旧穢多の一塊肉にして、すなわち新平民の一人物なり」と言い放つことになった背景が彷彿としてきます。

中江兆民の『新民世界』には、「語られた言葉」と「語られなかった言葉」があることになります。中江兆民という近代の思想家の中にある、「黙スル者ニシテ語ル」複雑な精神構造が垣間、見え隠れしているように思われます。

中江兆民は、「被差別(偽)」(兆民自身)と「被差別(真)」(兆民の妻)との関係の中を生きたことになります。(続く)

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