2021/09/30

中江兆民論 子-元穢多を母とした中江丑吉

中江兆民論 子-元穢多を母とした中江丑吉


中江兆民は、論文『新民世界』を公表したその年(明治22年)、長男が与えられます。

兆民は、その子に「丑吉」という名前をつけます。近世幕藩体制下の足軽身分であった兆民が自分の子供につける名前としては、かなり庶民的な名前です。

兆民は、その妻の側(長野県の長吏の家系)を考慮して、それに相応しい名前を選んだのでしょうか。

兆民は、その前の年、「士族の名義を返還し、「新民界に入籍」」(『部落解放史 中巻』)する旨宣言しています。長男誕生に際して、兆民は、意図的に、「士族」の名前ではなく、「穢多」(長吏)の名前つけた可能性があります。

兆民は、自らを「穢多」・「新平民」として宣言します。

しかし、彼の妻・ちのについては、その生涯の間、一度も、その出自については言及することはなかったのではないでしょうか。少なくとも、筆者が現在までに出会った兆民に関する資料からは、そのように推測することができます。

井上清著『部落の歴史と解放理論』の中で、「兆民の妻は長野県の部落出身であると推定される」と記されているところを見ると、兆民は、何らかの事情で、その妻の出自については触れることを避けていたように思われます。

兆民は、「語ル」ことと「黙ス」ことを、意図的に区別していたようです。

長男・丑吉は、兆民とちのによって、育てられます。兆民は、明治34年癌を患って逝去します。長男・丑吉、13歳のときです。丑吉は、「兆民の死に当たって・・・無感動に不思議そうに眺めていた」といいます(《中江丑吉のこと》)。

長男・丑吉は、母の手によって教育され、やがて、東京帝国大学法科大学(政治学科)に学び卒業します。卒業後は、母・ちのの、必死の思いが成就して、大正3年、丑吉26歳のときに、満州鉄道に就職します。

しかし、丑吉は、すぐに満州鉄道を辞職します。丑吉は、その後も日本に戻ることなく、満州で生涯の大半を過ごします。丑吉は、青年時代の自由奔放な生き方から、「外面的には退屈で律儀な隠者風の生活」に変わっていったといいます。丑吉は、異郷の地・満州で「孤独な学究生活にいそしむ」のです。

丑吉は、英語・ドイツ語・フランス語・中国語に堪能であったといいます。父親・兆民を越えて、語学の才能にめぐまれていたのでしょう。丑吉は、いくつもの外国語を修得していったのです。彼は、「日本語の書物は原則として読まず・・・」、中国や欧米の文献を読破していきます。

そのような丑吉は、「何故か両親の話をせず、そういう話が出ると直ぐに打ち切ろうとした」(《中江丑吉をめぐって》)といいます。

丑吉は、父・兆民についても、母・ちのについても、ほとんど何も語ろうとしなかったと言われます。「新平民宣言」をした父・兆民についても、「長野県の穢多(長吏)」の出である母・ちのについても、丑吉は、沈黙を守って生きたのでしょう。

スイスの哲学者・アミエルは、このように語りました。

「草の葉一片にも語るべき物語があり、一つの心にもその小説があり、一つの生涯にも針なりとげなり秘密が隠されている。・・・痛めつけられた愛は人に様々な国語を覚えさせ、悲哀は人を預言者や魔法使いにする」。

丑吉の生涯を展望するとき、私は、やがて、「部落差別」として結実してくる、日本近代国家建設に伴う陰の部分が、丑吉に大きな影響を与えたのではないかと思います。

私の推測では、丑吉は、父・兆民が丑吉誕生の年になした「新平民宣言」の意味を、母親・ちのから聞かされたのではないかと思います。父・兆民は、「穢多」身分ではなく、「足軽」身分で、下級武士であったこと、そんな兆民が、ちのを愛するようになったこと、ちのが、長野県の長吏の出であることを告白したとき、兆民は、ありのままのちのを受け入れ、愛してくれたこと・・・。

次第に、新平民に対する世間のまなざしが、差別的なものになっていく時代の流れの中で、丑吉は、自分が、「穢多」の末裔であることに、深く傷ついていったのではないかと思います。天性、明るく快活であった丑吉は、突然、人が変わったように、修業僧のような生き方をはじめます。日本を遠く離れた異郷の地で、異郷の言葉を使って生活していくのです。

「足軽」身分の父と「穢多」身分の母の両方の血を受け継いだ丑吉は、どちらかというと、「穢多」の末裔としての生き方を選択していったと思われます。

中江兆民の『新民世界』を読むと、人種起源説的発想は、ある種のジョークとして記されています。「公らはたして吾らの家系のゆえを以て、吾らを異類視し、吾らを下等視するという乎。吾らの先祖はインド人なる乎・・・」。中江兆民が生きていた時代、「穢多」の人種起源説は、いまだ生成過程の途上にあったと思われます。

丑吉は、父・兆民が母・ちのの出自の秘密を守ったように、丑吉自身も母・ちのの出自、長野県の「穢多(長吏)」の末裔であることを、こころの深くに納め、生涯、沈黙を守り通したのではないかと推測されます。

丑吉は、一度は結婚しますが、離婚後、再婚することなく「独身を通したため、そこで中江家の血筋も断たれた」(《中江丑吉のこと》)といわれます。

「新平民宣言」をした父・兆民と、生涯沈黙を守り通した息子・丑吉は、正反対のふるまい、「語ル」ことと「黙スル」こととの大きな違いがありながら、父・兆民の妻ちのに対する愛と、息子・丑吉の母に対する愛とは、深く一致するところがあったに違いないと、私はそのように推測します。

穢多の末裔であることを継承して生きるか否か・・・。

今日の被差別部落の人々が、被差別部落の歴史を担って生きていくべきか否か、被差別部落民として実名を名のって生きていくべきか否か・・・。大切なのは、いずれを選択しても、そこに、「愛」があるか否かではないかと思わされます。

部落解放という「運動」や「運動方針」からみて、被差別部落の人々が実名を名のる、名のらないの意味を論ずるのは、あまりにも表面的で、貧困な発想に堕しがちになります。実名を名のるも名のらぬも、大切なのは、そこで、人間としての価値を示す「愛」がどのように生き抜かれたかにあるのではないかと思います。

『部落学序説』の筆者は、「穢多」の末裔でもなく、被差別部落出身者でもないが故に、今日の時代の被差別部落の人々のこころを理解することができるとは思いません。

しかし、中江兆民とその妻・ちの、その子・丑吉の生きざまを、わずかな資料を拾い集めて展望するとき、実名を名のるも名のらぬも、また部落民宣言するもせざるもまたよし・・・と考えざるを得ないのです。部落民宣言をしたからいいとも、わるいとも筆者は考えることはできません。大切なのは、いずれを選択しても、「穢多」の末裔であること、「部落民」の末裔であること、その「所与の人生」から逃亡せず、自ら引き受けて生きていっているかどうかにあるのではないかと思います。父・母・子、それぞれの生き方の中に、「賤民史観」をはねのけて、お互いをかばい愛ながら生きていく姿勢の中に、差別なき社会の到来を予感せざるを得ないのです。

被差別部落の人々を差別の鉄鎖に繋ぐもの、それは、明治以降の権力者(政治家・学者・教育者・宗教者等)によって仕組まれてきた「賤民史観」そのものです。日本の歴史学や教育から「賤民史観」を破棄し除去すれば、「穢多」の末裔の歴史、被差別部落の人々の歴史は、まったくことなる姿を現してくることでしょう。「穢多」の歴史が復権されるとき、それは、「民衆」の歴史が復権されるときでもあります。「賤民史観」の枠組みの中では、「穢多」の末裔も、「百姓」の末裔も、おのれのほんとうの姿を忘れさせられてしまっていると思われます。古来から営々と続けられてきた「日本人」の本当の姿を取り戻すためには、明治・大正・昭和・平成に作られ受け継がれてきた、近代的差別思想の典型である「賤民史観」を徹底的に破壊する必要があります。

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