2021/09/30

学問論 3.被差別部落の調査方法

学問論 3.被差別部落の調査方法

被差別部落の地名・人名を探索するのに特別な方法はありません。

通常の学問に採用されている研究方法を援用すれば十分です。

筆者が、被差別部落の地名・人名を調べるために、最初に尋ねた図書館は、徳山市立図書館の郷土史料室です。郷土史料室で、被差別部落に関する史料を閲覧する人は少なくありません。おそらく、身元調査にも利用されているのでしょう。

筆者は、郷土史料室に通いだして、ある法則を発見しました。それは、被差別部落に関連してよく読まれる史料は、それを紐解いた人が多いほど、その本に痕跡が残るということです。

その痕跡を探すのは決して難しくありません。よく閲覧されるページは、閲覧者によってそのページがめくられているということです。めくるためには普通、指を使いますが、人間の指は通常、汚れと垢がついています。よく読まれる史料ほど、閲覧者の指の汚れと垢が付着しているということです。

山口県の被差別部落の所在が分かる史料・論文など、数10ページに渡って、うっすらと、指の汚れで色が変わっています。汚れというのは、白の上では黒っぽく見え、黒の上では白っぽく見える特徴があるので、本をめくるとき指のあたる部分で色が変わっているところを開けば、被差別部落に関するなんらかの情報を入手することができます。多くの場合は、「差別」のために、そのページがめくられたと想定されますから、『部落学序説』で引用した史料・資料は、そのような方法では検索することはできません。

慣れてくると、微妙な色の違いを見つけることができるようになり、先達の残した痕跡をたどることで、被差別部落に関する差別的な資料が入手しやすくなります。多くの場合は、「知識階級」によって、こういう資料が探索されているのでしょう。

長州藩の部落史に関する資料は、漢文のまま放置されている場合もありますから、最低限、漢文を読み解く力が必要です。せっかく、貴重な資料に遭遇しても、それを読み取ることができなければ、その研究は実を結びません。

筆者が、「探求の技法」としてよく使用するのが、加藤秀俊著『取材学』です。

加藤は、「われわれの一生は取材の連続であり、学習の連続なのである。」といいます。加藤は、「ひとには一生という限られた時間があるだけで、いつかは死ななければならないのである。いくらおカネが無限にあったとしても、そして、いくら意思やねばり強さがあったとしても、人間の生涯にできるというのはタカが知れており、一生がおわったら、そこでピリオドだ。取材という行為は、やりはじめたら限度がない。・・・とすれば、取材はどこかで打ち切らなければならない。ここでオシマイ、と覚悟をきめて、とりあえず暫定的に切をつけなければならないのだ。いずれ将来、その機会にめぐまれたらもうすこしつづけてみよう、という希望的観測のもとに・・・」論文を未完成品として公表する必要があるというのです。

「ひとりの人間がしらべることができる量なんて、じつはタカが知れているのである。よほどの幸運と偶然によってしか、必要な情報に出会うことはできない」。

加藤はさらに、「取材のじょうずな人、というのは・・・索引を使いこなすことのできる技術者である。ただひたすらに頑張って片っぱしから本を読みあさり、いつの日にか必要な情報に出会うだろう、と考えている人があるとすれば、それは奥深い森のなかで磁石も懐中電灯もなしにやたらに走りまわっているようなもの」であるといいます。

中には、古い文献にあたらず、「新刊書」に飛びつく人がいます。研究過程を省略して、一気に、研究の再先端に達したいという願望のあらわれでしょう。しかし、加藤は、「新刊書というのはあたらしいことが書いてあるようで、じつのところ、それほどあたらしいとは限らないのである」といいます。特に、部落研究・部落問題研究・部落史研究というのは、「新しい皮袋」に「古いぶどう酒」を入れている場合が多いと思われます。

一昔前は「普通の人間が情報をあつめる、などというのはありえない話であった。だが現代はちがう。どんな情報でも手にはいる。そのためには金持である必要もなく、特別に高度の学歴が必要であるわけでもない。一人まえに読み書きができ、ごくあたりまえの常識さえもっていれば、誰でも自由な取材者になることができる」といいます。

「ほんの簡単ないくつかの技術さえ身につけていれば、いくらでも深く情報の森に入りこんでゆくことができるのに、学校でも職場でも、いっこうにその技法は教えてくれてはいない。・・・べつなことばでいえば、今日の教育は情報化時代のなかで主体的に生きるための知恵をいっこうに教えてくれていないのだ」。

「自分で発見した問題をじぶんで解いてゆくこと、それが知的探求における自立性というものであろう、とわたしは思う。ところが今の日本人にとって、これはいささか困難なのである。なぜなら、日本における教育というのがこうした自発的な問題発見を奨励するどころか、むしろ抑圧することをその基本にしているから・・・とにかく日本の教育、とりわけ学校教育はそれぞれの個人がもっているすばらしい問題発見能力をおしつぶすことのみに専念しているのである」。

早急に、被差別部落の地名・人名を調査・研究したいひとは、加藤秀俊著『取材学 探求の技法』(中公新書)を読んでみるといいと思います。初心者に役立ついろいろな知恵(知識と技術)であふれています。筆者も、山口県北の寒村にある、ある被差別部落の古老の話が史実かどうか確かめる作業にはいったとき、この加藤秀俊著『取材学 探求の技法』は、非常に役立った本でした。筆者には、加藤秀俊著『取材学 探求の技法』は、万人が使いこなせる学的方法であると思われました。身元調査も『部落学序説』の分析・総合研究も、本質的には同じいとなみ、学的探求なのです。

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