2021/09/30

「汚れ」について 2.「穢多」と「汚れ」

「汚れ」について 2.「穢多」と「汚れ」

今回の文章執筆のための参考資料は、楠本正康著『こやしと便所の生活史 自然とのかからりで生きてきた日本民族』1冊です。

楠本正康は、新潟医科大学(現新潟大学医学部)出身の医学博士で厚生省の役人をされた方です。筆者は、この楠本正康の書『こやしと便所の生活史』を読んで、学者・研究者と名の付くひとに、あらためて、尊敬の念を持ちました。

日本語の中に、昔から、「こやし」ということばがあったそうですが、中世になると、この「こやし」ということばに、糞、糞培、糞草、糞苴という漢字があてられるようになったそうです。楠本は、「その頃は、すでに人糞尿や厠肥が肥料として広く使われていて、農業に関する技術指導も積極的に行われ始めていたからである」といいます。

楠木は、「幕藩体制が安定し、太平の世が続く元禄年間には江戸は人口百万の大都市として繁栄していただけに、毎日排出される人糞尿は膨大な量に達した。・・・しかし、何の不自由もなく処理されていた」といいます。

江戸で「毎日排出される」「膨大な量」の「人糞尿」は誰によって処理されていたのでしょうか。

日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」は、人の嫌がる「賤業」をすべて、「賤民史観」が考える、当時の社会の「最下層の身分」であった「穢多・非人」に振ってしまいます。当時の人々が「汚れ」として受け止めていた人糞尿の取り扱いは、「穢多・非人」の「賤業」であったと、推測する傾向があります。

近世幕藩体制下の司法・警察であった「穢多」(「穢多の類」)の職務のひとつに、「街道の警備」がありました。すべての旅人が快適に街道を旅することができるように、街道の清掃・鳥や獣の死骸の除去作業も「穢多」の職務の内容のひとつでした。「きよめ」といわれる職務の中に、死骸や糞の除去を数える学者・研究者もいます。

しかし、近世幕藩体制下の「人糞尿」の処理について、「汚れ」に満ちた「賤業」とみなすものの見方や考え方というのは、昭和以降、全国的には、高度経済成長以降の下水道整備事業によって、日本の家庭に水洗トイレが普及する、人糞尿が瞬間的に生活の視界から除去される仕組みができた以降のことです。

近世幕藩体制下全期間を通じて、また、明治維新以降も、「人糞尿」が「汚れ」たもので、その除去作業をするものを「賤業」とみなす考え方や見方は存在しなかったように思われます。

なぜなら、江戸の町から毎日排出される膨大な「人糞尿」は、関東一円の百姓(農民)にとって、貴重な「こやし」であったからです。江戸の100万の住人の米や野菜を栽培するための必要欠くべからざる「こやし」であったからです。江戸の町の人々は、自家の「人糞尿」を「こやし」として売却するか、米や野菜と物々交換していたのです。

近世幕藩体制下の「人糞尿」の売却額は、「金額にして年間4万9千両」だったといいます。「今の物価からみると莫大な金額」になります。

幕末の弾左衛門こと、「弾直樹」は、明治3年に東京府に対して、「賤称除去願」を出しますが、そのとき、弾直樹は、斃牛馬処理の権利を保障してくれるよう嘆願するとともに、「税金500両」を「上納」することを申し出ているのです。弾左衛門の石高は3000石であったといわれますが、金額にして、2500両から3000両であったと思われます。人糞尿の取り扱い金額、「4万9千両」に遠く及びません。つまり、取り扱い金額から考えても、近世幕藩体制下の江戸の糞尿を処理していたのは、「穢多・非人」ではないということが推定されます。

近世幕藩体制下の司法・警察である「穢多・非人」と「汚れ」(人糞尿)とは、ほとんど何の関係もなかったということです。むしろ、近世幕藩体制下の司法・警察である「穢多・非人」は、この「人糞尿」処理に関与することが禁止されていたと考えられます。「皮革」よりもはるかに多い「人糞尿」をめぐる収入を、近世幕藩体制下300年間に渡って触れずに済ませた・・・ということはとても考えられません。

それでは、誰が、「汚れ」(人糞尿)の処理をしていたのかといいますと、楠本によれば、「周辺農民」ということになります。近世幕藩体制下の後半期にいたっては、人糞尿に処理の「専門業者」が登場したといいます。

「当初のうちはもっぱら農民があたったが、やがて汲取りや運搬を業とするものも現れた。これらの専門業者は地主や家主と契約し、汲取りの代価を決めていた。汲取ったものの輸送には、下町方面は船舶を利用し、山手方面は牛馬車が用いられた。そして船舶によるものは千葉葛西、埼玉方面へ、牛馬車の分は多摩川、神奈川方面へ送られていた。また、人糞尿が経済的価値があるため、一種の商品のように扱われ、その仲買人まで現れ、江戸市内から汲取った人糞尿を買い取り、船舶輸送によって農耕地へ売り渡して利益をあげていた。」

前回、角川小辞典『基礎日本語』の著者・森田良行の解釈をとりあげましたが、「汚れ」というのは、「物質的な清潔さのない状態」をもさすことばです。「汚れ」の代表的な存在である「人糞尿」は、近世幕藩体制下の「穢多」とは、ほとんど何の関係もなかったと断言できそうです。

近世幕藩体制下の「司法・警察」である「穢多・非人」の関与したのは、当時の法的逸脱としての「穢れ」であって、日常生活における「汚れ」には関与しなかった・・・と考えるのが妥当ではないかと思われます。

楠本は、「維新政府は明治2(1869)年に「肥小便汲取ノ儀是迄ノ仕来披廃止以来町人共勝手次第百姓共へ為渡候様可致候」(※)という布告を発した。」といいます。明治11年1月に、「肥小便」という言葉は、「し尿」という言葉に置き換えられていきます。

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