2021/09/30

「汚れ」について 3.身分と糞尿

「汚れ」について 3.身分と糞尿

すべての人にとって、最も身近な「汚れ」というのは、毎日体内から排出される「糞尿」ではないでしょうか。

近世幕藩体制下の身分制度のすべての階層で、この「糞尿」という「汚れ」を避けて通ることはできません。身分の上下を貴賤といいますが、貴い身分の人もそうでない人も、生きている限り、この「糞尿」という「汚れ」がつきまといます。

人は産まれるとすぐに襁褓をつけられます。あかちゃんが、襁褓の中にうんちやおしっこをし、その肌に接触しているからといって、あかちゃんが「汚れている」と考える人はほとんどいないでしょう。

むしろ、母親をみつめながら微笑むあかちゃんの姿を見ると、「けがれなき」姿に感動するのではないでしょうか。

「糞尿」については、近世・近代と現代では、ひとびとの「糞尿」についての受け止め方に大きな違いがあるような気がします。近世から現代に近づけば近づくほど、「糞尿」は人間の生活から限りなく遠くへ追いやってしまいます。

米・野菜は、消化されて、体内に排出されますが、排出された「糞尿」は、「こやし」として再利用されます。その「こやし」によって、美味しい米や野菜が生産されます。「糞尿」を「きたない」「汚れている」と考えている分には、近世・近代においては、食料供給にたちどころに支障をきたしてしまいます。

現代社会では、人の「糞尿」が「こやし」として使われることは少ないと思いますが、家畜の「糞尿」は、野菜や花の栽培に使用している人も少なくないのではないでしょうか。

筆者も、園芸店や農協で、「牛糞」や「鶏糞」の堆肥をかってきて、ミニ菜園や花壇に施しています。ほとんど、素手で作業していますが、「汚れ」を意識することはほとんどありません。むしろ、買ってきた「牛糞」・「堆肥」の品評をしたりします。「これはいい牛糞だ」と、「牛糞」を手にとって喜ぶ場合もあります。

楠本正康著『こやしと便所の生活史 自然とのかかわりで生きてきた日本民族』に、おもしろい話がでてきます。

江戸においては、江戸の住民・100万人の「糞尿」に値段が付けられていたというのです。「士農工商穢多非人」という身分制度は、近代以降の歴史学の解釈でしかありませんから、近世において、「士」・「農」・「工」・「商」・「穢多」・「非人」の社会階層毎に、「糞尿」の金額が定められていたということはありません。

近世においては、楠本によると、「肥料価値」を基準にして、「勤番」・「辻肥」・「町肥」・「タレコミ」に区別され、「糞尿」の金額に差がつけられていたのです。

楠本は、「最上等品」は「勤番(大名屋敷勤番者のもの)」、「上等品」は「辻肥(市中公衆便所のもの)」、「中等品」は「町肥(普通の町家のもの)」、「下等品」は、「タレコミ(尿の多いもの)」であるといいます。そして、「最下等品」は「(囚獄・留置場のもの)」であるといいます。それぞれ、有料でもって、周辺農民や業者によってひきとられていったのです。

人の「糞尿」が「汚れ」意識をもってみられるようになる時代は、有料でもって引き取られていった「糞尿」が、逆に、手数料を払って引き取ってもらうことになった以降ではないかと推測されます。

学者・研究者というのは、本当に尊敬に値します。このようなことまで、詳細に渡って調べるのですから・・・。

楠本は、明治20年に、東京農林学校(後の東京大学農学部)の教授をしていたケルネルによって、「人糞尿に関する大がかりな調査研究」が実施されたそうです。彼は、調査対象を「軍人」・「中等官吏」・「東京市民」・「農家」に4分類し、「糞尿中の各種成分のこまかい分析調査が行われた」といいます。

楠本は、その調査結果をこのようにまとめます。「明治政府のもとにあっては、軍人の糞尿がもっとも肥効に富み、ついで官吏のそれが肥効分の高いところからみて、軍人や官吏の待遇が、庶民に比し優遇されていたことが立証される。」といいます。

最後に、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」がいう、近世身分制度・近代身分制度の「貴賤」の「糞尿」についてとりあげてみましょう。「貴」は近代の「皇居」、「賤」は近世の「牢屋」。

楠本は、「第2部 便所百態」の冒頭でこのように記しています。

「昔からどこでも上流社会と庶民の生活様式には大きな格差があった。とりわけ便所の差は非常に目立つ。庶民は各戸に便所がなく共同便所を使っている例も珍しくはない」。

そして、「戦国武士」・「藩主」・「神主」・「僧侶」・「茶人」・・・等、そして、「天皇」の使用していた「便所」について言及していきます。

本当のことをいいますと、筆者は、楠本のこの文章が目に入ったとき、「皇居」の便所・糞尿について言及することは、ひいては天皇の、便所・糞尿について言及することになるのだから、「不敬事件」にならないのかな・・・と思ったのです。しかし、それは、どうも筆者の勘違いのようです。

「皇居」にあっても、「天皇」においても、「糞尿」は「汚れ」とは無縁のようです(明治新政府は太政官布告を出してすべての「けがれ」を廃止しています)。

楠本は、「上流社会の高級な便所として記録に残っているもっとも古いものは、武田信玄が愛用した便所である。御閑所と呼び広さはおよそ6畳で、絶えず香をたき、このために当番2人が朝昼香炉に火を点じていた。信玄はここでおもむろに戦略をねり、必要があれば部下の将まで呼んだといわれる。」といいます。

楠本は、このようにも記しています。「会津若松の大名屋敷は汲取り式ではなく、便器の下に鉄製の箱が備えてあり、この箱には車がついていて、レールで容易に外に引き出せる構造である。毎日この箱を引き出し、内容物を肥桶に移し、きれいに洗ってからもとに戻していたという。なるほど、これなら臭気のおそれはなく、蠅のでる心配もない・・・」。

さて、皇居の便所についてですが、楠本の文章をそのまま転記します。

「かっては、皇居の便所も汲取り式であったという。密閉の汲取り口をあけて中をのぞいても、まっ暗で何も見えない。金隠シの位置は、傾斜の地形を利用してかなり高いところにあったようだ。汲取った糞尿は肥桶で200メートルほど離れた小屋がけをした立派な貯留槽に投入した。ここまで来るには山の中を歩くようで、いつもきれいな取りがいたり、ときには大きな蛇に驚かされたこともあるという。おそらく、貯留槽に貯えた糞尿は腐熟し液肥となってから、皇居内の水田にも施肥されたのであろう・・・」。

天皇や皇室の「糞尿」は、皇居の外部に持ち出されることもなかったし、「百姓」に売却されることもなかったようです。

日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」が、身分制度の最下層と位置づける「穢多・非人」の糞尿はどのように取り扱われていたのでしょうか。江戸の弾左衛門の「糞尿」は、「藩主」ないし「勤番(大名屋敷勤番者のもの)」クラスの扱いをされていたようですが、それでは、その配下の一般の「穢多・非人」の「糞尿」はどのように取り扱われていたのでしょうか・・・。

「穢多」と「糞尿」、「部落」・「部落民」と「糞尿」・・・について言及することは、筆者にはためらいが生じてきます。「部落解放同盟の方」から、「被差別部落」を差別していると激怒されるかもしれませんから、読者のかたの想像にゆだねてこの文章を終えます。

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※ほんとうの歴史学者は、「けがれ」をとりあげ、研究調査の結果、その「けがれ」を解明・解体します。日本の歴史学に内在する差別思想である「賎民史観」に立つ、「似非学者」・「似非研究者」・「似非教育者」・「似非運動家」は、「被差別民衆」を執拗に「けがれ」につなぎ止めようとします。「けがれ」を、「部落」・「部落民」の「実態」であると主張します。「混穢の制廃止」の太政官布告にみられる、「すべてのけがれを廃止する」という「天皇の聖旨」を無視・否定して、今日の時代にあっても、「部落」・「部落民」にまつわる「けがれ」が実体として存在しているかのように論評するのです。日本の近代化・民主主義化の時代の流れにさからって、「けがれ」論を振りかざし、被差別民衆をいろいろな差別に拘束してきた学者・研究者・教育者・運動家こそ、最大かつ最悪の差別者であった・・・、と『部落学序説』の筆者は考えざるを得ません。 

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