2021/09/30

繊維産業の町に生まれて

繊維産業の町に生まれて・・・


『部落学序説』の筆者である私は、無学歴・無資格です。そして、先祖伝来、「百姓」の末裔です。

今回、その「百姓」の視点・視角・視座に立って、『禁服訟嘆難訴記』(岩波近代思想大系第22巻『差別の諸相』収録分)に出てきます、次の文章を批判・検証してみたいと思います。

「此度倹約筋取〆方、御百姓一統へ厳敷申渡候ニ付、穢多共一同へも右に准じ、衣類無紋渋染・藍染ニ限り候義、勿論之事ニ候」。

この文章に出てくる「無紋渋染・藍染」について、各種辞書・事典・史料・論文を参照して批判・検証した論文に、住本健次著《渋染・藍染の色は人をはずかしめる色か 「渋染一揆」再考》という論文があります。

住本健次氏の研究成果は、その論文を読んでいただくとして、無学歴・無資格の筆者は、自らの保有する史資料の乏しさを知りつつ、今回、手持ちの史資料を用いて、「渋染一揆」再考の中核ともなる「無紋渋染・藍染」について、あらためて、批判・検証を展開してみたいと思います。

筆者は、岡山県児島郡琴浦町に生まれました。今は、岡山県倉敷市児島琴浦町になっていますが、琴浦町は、今も昔も、繊維産義の町です。

筆者の生れた頃は、「町内に、ミシンの音の聞こえない家はない・・・」と言われたほど、至るところで、ミシンが踏まれていました。男も女も、ミシンを踏む姿はめずらしくありませんでした。

筆者も、母の内職のミシン踏みの音を聞きながら育ちました。やがて、カタカタという足踏み式ミシンの音から、電動式ミシンの音に変わって行きましたが、当然、琴浦町の町全体は、繊維産業の関連企業があふれていました。

筆者の同級生にも、縫製工場や染色工場の社長や工場長のむすこ・むすめが少なくなりありませんでした。

通っていた琴浦西小学校の東側に下村川が流れていました。その上流には、染色工場が数社ありました。同級生のおとうさんが経営されている工場です。その染色工場、当時は、生地を染色したあとの排水をその下村川にそのまま放流していました。そのため、下校時に、その下村川が、青や赤や黄色に、絵の具を流したように染まって流れていく光景を見ていました。

その当時は、公害とか環境汚染とか、そういう感覚に乏しく、琴浦町に住む大人もこどもも、その光景を見て、「わが繊維の町の繁栄の姿・・・」として認識していたのではないかと思います。

琴浦西小学校のすぐ側を流れる川、昨日、真っ青な色をしていたかと思うと、今日は、真赤な色をして流れている・・・、という光景は、決して珍しくなかったのです。

しかし、その下村川の河口付近に行きますと、河口周辺は、紺色の染料の染まり、魚や貝は死に絶え、その死骸と染料の入り混じった腐敗臭がしていました。

染める前は、無色(白色か、それに近い色・・・)の布は、化学染料でそめあげられると、とてもきれいないろいろな色の布になります。

近代以降の日本における繊維の染色は、化学染料が使用されるようになったのですが、古代から近世幕藩体制下においては、当然、化学染料はなく、自然の染料を用いて、染色が行われていました。

「渋染一揆」の史資料の中に登場してくる「渋染・藍染」は、草・木・花を用いて行われていました。自然に存在する草・木・花を採集、加工して、染料として用いるのです。

現代社会では、趣味や民芸品の生産の領域で、草木染めとして行われているのとほぼ同様の方法で染色が行われていました。

筆者のこどもの頃は、近所のおばあさんが、古いタライに水をはり、染料を入れて、古い、色あせた着物を染色しなおしている光景を何度も目にしました。おばあさんの着物は染色し直されて、孫の着物として再生されていたのです。

今回は、そんな、岡山県琴浦町に生まれて育った筆者の、しかも、無学歴・無資格の筆者の経験と、染料・染色に対する「前理解」を踏まえながら、「渋染一揆」の「無紋渋染・藍染」について、それが何を意味していたのか、考察してまいりたいと思います。

筆者は、すでに、『部落学序説』で、《誤解された渋染一揆》と題して執筆しています。重複はできるかぎり避けることにして、今回は、「無紋渋染・藍染」にのみ限定して論述してまいりたいと思います。

『部落学序説』は、すでに、第5章・水平社宣言批判に入っていますので、「部落学序説付論」として執筆することにしました。

日本の色

日本の色・・・

筆者が所有する、「色」(Color)に関する本は、今現在で3冊です。

ひとつは、河原英介他著『Color Color Name & Color Coodinate』(グラフィック社)、もうひとつは、インターネット上のホームページやブログの配色を決めるときに参考にしている石井歩著『Web Coloring & Style Handbook』です。

筆者は昔から、色彩感覚に乏しいので、色を識別することは非常に困難です。

筆者は、牧師になる前、大阪市の公立中学校、岡山県倉敷市の医学研究所付属病院、そして、商社・・・、に勤務していたことがありますが、商社は、イタリアのリモルディ社、ドイツのデュルコップ社の縫製機器・コンベア・ボイラー・自動縫製機を取り扱っていました。

そのとき、「繊維」の種類と「色」の名前を一生懸命憶えていましたが、「繊維」も「色」も実に多種多様です。指で触っただけで、その生地が何の生地であるのか、識別できるように自分を特訓しましたが、河原英介他著『Color Color Name & Color Coodinate』(グラフィック社)も、そのときに使用した教科書であったと記憶しています。

もう30年以上前の本ですから、いまでは、色もすっかり褪せています。しかし、トーン記号・和名・英名・固有色名・古代色名・解説が掲載されていますので、いまでも大切に使用しています。

石井歩著『Web Coloring & Style Handbook』は、色を、コンピュータ上で再現するときの、RGB16進数を調べるために使用しています。

そして、今日(2008年1月23日)、国道2号線沿いのBOOKOFFで入手した、講談社発行の冬の歳時記、『四季花ごよみ・冬』です。その他の季節は、その季節の草木花の俳句と写真が掲載されているのみですが、この冬の巻、やはり冬の花だけではページ数が不足するのでしょう。その本の3分の2は、《草木花の図譜》でしめられています。

その中に、「万葉の草木花」・「国宝にみる草木花」・「本草図譜の草木花」・「草木花と日本の色」・「季節の色目」・「草木花の家紋」・「伝承の草木染」・・・、などの資料が写真付きで紹介されています。

もちろん、この三冊の色に関する本の中に、直接、近世幕藩体制下の岡山藩で起こった「渋染一揆」の際の「渋染・藍染」についての記述があるわけでも、「渋染・藍染」の色はこれだ・・・、と写真やカラー見本で図示されているわけでもありません。

しかし、近世幕藩体制下で使用されていた色の名前が、具体的にどのようなコードの色と結びつけられるのか・・・、大いに参考になります。「渋染」にしても、「藍染」にしても、その色は、明度と彩度によって、多種多様な形で存在しているからです。

それに、3冊のカラーブックから、それぞれの「色」が、人々に、一般的には、どのような印象を与えるのか・・・、それなりの情報を提供してくれます。頭の中で、近世幕藩体制下の史資料に出てくる「色」の名前をもとに推測しても、限界がありますが、カラーブックを前にすると、少しは、「渋染・藍染」がどのような色を指していたのか、客観的に認識できるのではないかと思われます。

『部落学序説』は、学際的研究としての「部落学」であって、単なる「歴史学」の一分野ではありません。「植物学」・「色彩学」・「美学」・「芸術史」・「芸術理論」の研究成果を取り込むことに、何の躊躇いもありません。

無学歴・無資格の筆者は、部落差別の本質にたどりつくためには、専門領域にこだわることはありません。

渋染・藍染について考察するときの前提

渋染・藍染について考察するときの前提・・・

近世幕藩体制下の岡山藩の「渋染一揆」の史資料に見られる「無紋渋染・藍染」について、考察するとき、大切なのは、現代的な価値観をその史資料に持ち込まないことです。

衣服に関する現代的な知識・常識を、その史資料の中に読み込んでいきますと、その史資料が語りかけてくる歴史のほんとうの証言を聞き逃してしまいます。今日の、一般説・通説・俗説の確認で終わってしまいます。

これは、史資料をひもとくひとが、被差別部落出身であろうとなかろうとにかかわりなく、そのことに無自覚でいますと、一般説・通説・俗説に身をゆだねて、「無紋渋染・藍染」は、「人をはずかしめる色」・「差別的な色」と認識し、「無紋渋染・藍染」を強制された人々を、「差別された人」・「賤民」と断定する愚を犯してしまいます。

柳田民俗学の学徒のひとりに、今和次郎というひとがいます。

筆者がその名前を知ったのは、ちくま文庫の『考現学入門』を読んだときです。解説に、「柳田民俗学徒としての今の仕事は、大正十一年、『日本の民家』としてまとめられている。」とあります。東京美術学校図案科を卒業した今は建築学者として活躍するとともに、風俗研究家として、「服飾・風俗・生活・家政にまで」その研究範囲をひろげていたといわれます。

その今和次郎、1925年の銀座の街角にたたずんで、「男の風俗」の調査をして、「洋服の色」について、このような結果を導き出しています。1925年5月16日(土)午後5時55分~6時15分、今の眼の前を通り過ぎて行った「学生・労働者を除く」220人の「服装の色」を調査した結果です。

霜降 101
黒 55
紺 37
縞 16
茶 4
・・・

そして、今は、「霜降、黒、紺は最高級・・・」。

夏目漱石などは、この「最高級」の衣服を身にまとっていたひと・・・、ということになります。

今は、「労働者」の「服装の色」については、ほとんど何も記していませんが、「学生」の「服装の色」については、「女学生」のみを対象にしています。

エビ茶 7
紺 3
黒 1

ちょうど、「労働者」をのぞく男の「服装の色」とは、逆の傾向をしめしています。今は、「学校によって色にくせがあるのかもしれません・・・」とコメントしていますが、筆者は、近代の「男尊女卑」の世相を反映しているのではないかと推測します。

柳田民俗学徒・今和次郎の調査では、「服装の色」について、有意味な結果が出るのは、その当時の社会の上流階級・中流階級のみなのでしょう。労働者の、服の色は、種々雑多で、カラーコーディネートが雑然としていて、短時間で、銀座の街を歩く人々の服装を頭の上から足さきまで一瞬にして観察する鑑識眼をもっている今和次郎をしても、観察することを不可能ならしめたのでしょう。

水平社宣言が出された当時の日本の社会の「服装の色」・・・、その中で、「茶色」は、「黒色・紺色」と違って、上流階級・中流階級が身にまとう「服装の色」の中で、最も「最高級・・・」から遠い色であったと思われます。

その時代の「色彩感覚」で、近世幕藩体制下の「服装の色」を史資料で調査した人は、近世幕藩体制下の「武士」階級・「百姓」階級の「服飾の色」をどのように受け止めることになったのでしょうか・・・。

被差別部落の側の「衣服」への思いをつづった文章の中に、中山英一著『被差別部落の暮らしから』(朝日選書)の第2章村の生活・衣類の「服装と印象」・「古着屋さん」・「衣服と言葉」・「裸の生活」という文章があります。

中山英一氏は、次のように記しています。

「「衣・食・住」。昔から人間の生活の中で「着る」ということは、欠くことができない重要なものでした。文化水準が高まれば高まるほど、衣生活は重要視されてきました」。

中山英一氏は、被差別部落出身の自分の生活を振り返りながら、「衣生活」と「文化水準」は密接な相関関係があると指摘しているのです。「文化水準」が高まれば「衣生活」も豊かになる・・・、「文化水準」が低下すれば「衣生活」も低下する・・・。「文化水準」が高まっているのに「衣生活」が抑制されれば民衆の不満が高まり、「文化水準」が低下しているのに「衣生活」を豊かにしようとすると、民衆の生活は奢嗜になる、その生活は破綻する・・・。

中山英一氏はいいます、「「衣」は、まさに「文化」なのです。」・・・。

そして、中山英一氏は、意外にも、このように続けるのです。

「見ず知らずの人と会ったときに、その人がどういう人かわかる方法が二つあります。一つは服装です。その人の服装がきちんとしていれば、その人の気持ち、仕事や生活もきちんとしているように思いませんか。服装が乱れていると、その人の生活が乱れていると思いませんか。だから、私たちはみだしなみに気を使うのです。派手な人か地味な人か、着る物に性格が表現されます」。

「昔は、部落の人と部落外の人と服装を見れば分りました。絹を着てはいけないとか、裾をはしょれとか、ぞうりではなくわらじをはけとか、差別的な規制によって部落の人たちの着物は一部の人をのぞいては、概して粗末でした・・・」。

中山英一氏の被差別部落の人々の「衣生活」についての言葉は、昔と今が、近世と近現代が、布が縦糸と横糸で織り合わせられるように、微妙に入り組んでいます。

「冬の訪れ」の項では、被差別部落の人々が、「着るものに関心を持つのは一年のうちで秋口だそうです。夏は薄着でよいのですから、そんなに関心がないのです。秋になると、風が吹くと寒さが身にしみてきます。そのときに初めて着物に関心を持つというのです。・・・秋にはいろんな虫が鳴きます。その虫の鳴き声がどういうように聞こえたかというと、「肩とって裾つげ、裾とって肩つげ」・・・」とあります。

被差別部落の人々の耳に聞こえる秋の虫の鳴き声は、「カタトッテスソツゲ、スソトッテカタツゲ・・・・」。

中山英一氏の文章は、被差別部落の古老が、衣服を大切にして、古着を再生して、環境と資源にやさしい生き方を先祖代々つつけてきたことを評価する文章で終わっていますが、中山英一氏の言葉では、被差別部落の「一部の人」をのぞいて、「衣生活」は常に制限され続け、「自分に一番ふさわしい」生き方、「衣生活」を通して、「自分なりの価値を見出す」、「自信を持って」生きていくことを阻害されてきたといいます。

しかし、「経済的に貧しかった部落の人たちは、経済的有効性、合理的な衣生活を創造」してきたといいます。中山英一氏は、これまでの「部落の人たちが教訓として残してくれたことを、自分の生活に生かすこと」をすすめられます。

「部落の人たちがやっていたことは、みんな遅れていた、悪いことだった、恥ずかしいことだったと思う人がいたなら、とんでもありません。既成の価値観を変えれば、物の考え方が変わるのです。価値観を持たないと、自分に誇りを持てないのです。誇りを持てないと、逃げたり隠れたりしてしまうのです」。

中山英一氏の被差別部落の人々の「衣生活」についての言葉は、昔と今が、近世と近現代が、布が縦糸と横糸で織り合わせられるように、微妙に入り組んでいますが、昔と今、近世と近現代を切り離して、近世幕藩体制下の岡山藩の「渋染一揆」の史資料に出てくる「無紋渋染・藍染」の意味を批判検証してみたいと思います。

無学歴・無資格の筆者に、学的限界が付きまとうのは否定することはできませんが・・・

心の高鳴りのない最近の<渋染一揆>研究

心の高鳴りのない最近の<渋染一揆>研究・・・

「東北地方の片田舎で、深い雪の下に埋もれるように生きながら、土くさい素朴さをもって・・・こぼれ溢れるようなヒューマニズムを展開した・・・人物がいた」。

その生涯は、「まったくの謎のまま・・・」であるといわれます。

しかし、その人は、「日本思想史に比肩するもののない破格抜群の・・・思想」を展開し、「元禄・享保・宝暦などと呼ばれる頃、八代将軍徳川吉宗が支配していた1700年代の前半という時代に・・・鮮烈で燦然たる人間平等の思想をうちだし」た・・・。

「人ニオイテ上下・貴賤の二別ナシ」。

「その人は、人間の上下・尊卑・貴賤の差別をいっさいみとめず・・・封建的身分制度にまっこうから反対」した・・・。

その人は、支配階級である武士階級に対して、「耕サズシテ貪リ食ウハ、天地ノ真道ヲ盗ム大罪ナリ。」として厳しい批判をなげかけ、不当な利益追求で民衆を困窮に陥れる一部の町人階級に「批判攻撃の舌鋒」を鋭くした・・・。

その人の名は、安藤昌益。

『安藤昌益の闘い』(人間選書)の著者である寺尾五郎氏は、その第2章で「昌益についての諸見解」として、既存の安藤昌益研究を批判しています。

その最初の項が、「心の高鳴りのない最近の研究」・・・。

寺尾五郎氏は、戦後の安藤昌益研究を批判してこのように綴ります。「戦後日本においては、言論の自由もあり、昌益に関する新事実も発見され、資料も整備され、研究者も少しは増えたというのに、かえって昌益研究は低調なものとなり、こまごまとした実証の穴堀りはよくやるが、肝心の思想研究では密度がうすく硬度もなく、水でうすめた酒のような味気ないものになってしまっている」。

「特に最近の昌益研究は、心の高鳴りを全く欠いた”白けきったもの”となり、思想水準の低い訓詁の学に近いものが多いようである」。

安藤昌益の研究者、寺尾五郎氏は、安藤昌益に勝るとも劣らぬ、歯に物を着せぬもののいいようをされていますが、百姓の視点・視角・視座から『部落学序説』を執筆する筆者にとっては、寺尾五郎氏の学者・研究者・教育者批判には、ある種の痛快さを感じます。

寺尾五郎氏は、戦後の安藤昌益の学者・研究者・教育者の多くは、「既存の大きな潮流、先行する系統に昌益をはめこんでいないと不安らしい。」といいます。

戦後、「学問の自由」・「言論の自由」が保証されたにもかかわらず、学者・研究者・教育者の中にある保守的体質は、みずからそれを反故にして省みない・・・。既存の研究の大きな潮流、先行する系統の学問の傾向に身をゆだねることをもって、自らの学問の学問であることの担保をとろうとしていると思われるのです・・・。

多くの安藤昌益研究は、「何の論証もなければ、根拠も示さず、ただ・・・そう「見える」というだけの印象話である」。

戦後の学者・研究者・教育者がすることといえば、「実証主義的研究」のことばを隠れ蓑にして、「似たものさがし」や「無いものさがし」にいたずらに時間を費やす・・・。寺尾五郎氏のいう「似たものさがし」というのは、特定の安藤昌益の「用語」の語源と用法を、史資料にたずね、「古典のあそこにもあればここにもあると探し出」し、それでもって、安藤昌益の「用語」のみならずその思想全体を解明したとする安直な姿勢のことです。

寺尾五郎氏は、「”似たものさがし”や”無いものさがし”のやり方というものは、思想の研究を書かれた書物の字面だけから行おうとする、一種の文献学的な方法である。・・・これもまた一つの手がかりであることは事実であるが、それはきわめて初歩的な低次の準備に過ぎない。書誌学的詮索、文献学的な分類や系統化は、思想研究の準備作業に過ぎないのである。・・・死体の腑分けはやれるが、生きた人間の病をなおせなければ医者ではあるまい・・・。」といいます。

「一人の人間がどれほどの闘いをしたか、どれだけ傷つきどれだけの誇りをもっていたか・・・たとえ先行の諸思想と同じ用語、同じ概念が使われていても、その言葉に賭ける主体の燃焼の度合いはそれぞれ違うのである・・・」。

筆者は、寺尾五郎氏のこの言葉を読みながら、このことは、最近の渋染一揆研究についてもあてはまるのではないかと思いました。「言論の自由」が、渋染一揆研究の質の向上に機能せず、「こまごまとした実証の穴堀り」に終始し、「肝心」の部落差別完全解消のための「思想研究」から後退し、渋染一揆研究が、「水でうすめた酒のような味気ないものになってしまっている・・・」。

『部落学序説』の無学歴・無資格である筆者は、いとも簡単に、戦後の「安藤昌益研究」と戦後の「渋染一揆研究」をオーバーラップします。そして、両者を比較・検証して、戦後の「安藤昌益研究」を批判する寺尾五郎氏の視点・視角・視座を自分のものにして、戦後の「渋染一揆研究」を批判検証することに、なんのためらいもありません。

寺尾五郎氏は、「これはなにも昌益研究のみならず、すべての分野がそうなのだ・・・」、といいます。

部落史研究の専門研究の中の更に専門研究である「渋染一揆研究」・・・、それだけが、寺尾五郎氏のいう「すべての分野」の例外事項であるという可能性はほとんどないと思われます。「渋染一揆研究」も、「肝心」なこと、部落差別完全解消という理念をうしなって、現在の被差別部落の人々の前身である、近世幕藩体制下の司法・警察という職務に従事した「非常民」としての「穢多・非人」を、「差別された人々」・「賤民」と断定することによって、現在の被差別部落の人々をも差別の奈落におとしこめようとします。

寺尾五郎氏は、笑うに笑えぬ話を記しています。

「これはなにも昌益研究のみならず、すべての分野がそうなのだといってしまえばそれまでのことだが、たとえば、戦後の日本においては数多くのマルクス学者が排出し、精密きわまる文献学的研究は異常なほどに進んだが、そのかわりただの一人のマルクス主義者もいなくなってしまったようなことと、軌を同じくする傾向なのかもしれない」。

現在の渋染一揆研究が、「渋染一揆」を、<賤民の、賎民による、賎民のための>「一揆」として結論づけて、そこから一歩もでようとしないなら、現在の渋染一揆研究にどれほどの意味があるでしょうか・・・? 岡山の「旧穢多」の末裔が、部落研究・部落問題研究・部落史研究の学者・研究者・教育者の差別的研究に反旗をひるがえすことができないのは、何を意味しているのでしょうか・・・? 渋染一揆について、「数多くの・・・学者」・研究者・教育者を「排出し、精密きわまる文献学的研究は異常なほどに進んだが、そのかわりただの一人」として、日本の歴史学に内在する差別思想である「賎民史観」を否定し、被差別部落の人々を、とくに、その小・中学生のこどもたちを「賎民史観」から解放せしめる学者・研究者・教育者が「いなくなってしまった・・・」のは何を意味しているのでしょうか・・・?

政治家の「精神的貧困」、企業界の「精神的貧困」、学者・研究者・教育者の「精神的貧困」・・・、それが、いまの日本だけでなく、あすの日本をも駄目にします。被差別部落のこどもたちを、日本の歴史学と<教育>に内在する差別思想である「賎民史観」から解放し、差別なき社会を実現するために身を挺する学者・研究者・教育者は一人も出てこないのでしょうか・・・。

衣類に関する民俗学的調査項目

衣類に関する民俗学的調査項目・・・

『部落学序説』は、「部落学」という、学際的研究の上に構築されています。

部落差別完全解消のために、部落差別の根源を明らかにしようとしていますが、そのためには、可能な限りすべての学問とその研究成果を援用します。

近世幕藩体制下の岡山藩の渋染一揆の史資料に出てくる「渋染・藍染」を明らかにするためには、民俗学的研究方法とその研究成果にも着目します。

しかし、民俗学は、本来、「民間伝承」などの「民俗資料を使った研究」であって、渋染一揆の「渋染・藍染」について、民俗学的研究方法を適用するのは、むずかしいのでないか・・・、といわれます。

『民俗学の方法』(講談社学術文庫)の著者・井之口章次氏は、「研究が進んでくると、背後の環境や社会の様相が明らかになり、かなりの程度に位置づけ操作ができてくる。問題によっては、証明するに十分な位置づけのできる場合も、当然ありうることである。そうなってくると、民俗資料と文献資料とを、口やかましく区別するいわれは、あまりないということになろう・・・」といいます。そして、「現状のままで、文献だけを使った伝承研究が、民俗資料を使った研究に伍していけるとは考えにくいが、研究として価値のないものではないし、現在は非力であるとしても、可能性のあるものを、頭から排斥し弾圧するような態度を私は好まない・・・」といます。

文献民俗学・・・。

井之口章次氏は、その民俗学者として、その可能性を示唆している・・・、筆者は、そのように思うのですが、文献民俗学なるものがあるのかどうか・・・、筆者は寡聞にして知りません。しかし、<文献社会学>同様<文献民俗学>があっても決して不思議ではないと思われます。

筆者は、無学歴・無資格故、歴史学・社会学・民俗学・・・、いずれをとってもまったくのしろうとですが、渋染一揆の史資料に出てくる「渋染・藍染」の検証に先だって、井之口章次著『民俗学の方法』の巻末に掲載されている民俗学的「調査要項」の「衣食住」の「衣服」欄の調査項目に従って、近世幕藩体制下の「百姓」身分の「衣服」について検証してみることにしましょう。

ただ、調査項目の分類は、筆者があらためて設定しなおしたものです。

①衣類の素材(木綿・麻・絹など)
②素材の種類(素材毎の種類、例えば、木綿には桟留・小倉・金巾・紋羽・・・)
③製糸工程
④機織り
⑤染色(色・模様染めの種類・・・)
⑥裁縫
⑦衣服の種類
 1.仕事着・ふだん着(男女別・季節別・年齢別・袖の有無・袖の形)・晴れ着(男女別・季節別・年齢別・機会別・袖の有無・袖の形)
 2.かぶり物・上半身・下半身・はきもの
⑧衣服の付属品
 1.手甲・腕ぬき・前かけ・脚ごしらえ・笠と蓑・着ござ・背当て・腹当て・帯・紐・子負帯・ねんねこ等
 2.下着
 3.寝具
⑨衣服管理
⑩髪型・化粧
⑪流通
⑫流行
⑬衣類の統制・法令

「穢多・非人」の属性の大域性と局所性

「穢多・非人」の属性の大域性と局所性・・・

近世幕藩体制下の「百姓」身分の衣服について、民俗学的調査項目に従って資料を考察するとき、当然ながら、その資料は、北海道から沖縄までの諸藩とその支配地すべてに及びます。

当然、反論が予定されることとして、近世幕藩体制下においては、藩毎に、政治・経済等に関する手法が異なっているので、岡山藩の藩領域で起こった渋染一揆は、岡山藩の民俗学的資料に基づいてなされるべきで、他藩の民俗学的資料を無作為に流用・引用すべきではない・・・、ということが考えられます。

しかし、筆者は、すでに、『部落学序説』の記述の文章の中ですでに述べてきたように、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「穢多・非人」は、その職務内容は、「法」によって規定された存在として認識しています。封建制度下の多くの武士階級がそうであったように、「身分」上の貴賤によって、その職務と生活が律せられているのと違って、「穢多・非人」は、その他の「非常民」である、同心・目明し・庄屋名主などの村方役人同様、「法」に従って遂行されました。

「法」というのは、江戸幕府が全国の諸藩に出した「御法」・「法度」のことであり、また、幕府によって、「治外法権」が許容された範囲での藩法のことです。

日本全国の津々浦々に配置された「穢多・非人」は、その「非常民」に対する職務遂行の見返りとしての家職が、藩の機構に深く組み込まれているとはいえ、基本的には、それらを凌駕して、「御法」・「法度」・「藩法」を遵守しながら職務を遂行する責任と義務を負わされていたのです。

「穢多・非人」は、諸藩において、様々な名称で呼ばれ、その職務の内容も、所属する諸藩の政治・経済の仕組みや歴史によって異なってはいても、その基本的な職務は、近世幕藩体制下の司法・警察に関する幕府の方針に準拠するものだったのです。

享和3年2月19日、幕府評定所は、江戸から遠く隔たった函館奉行に対して、「函館に、穢多・非人を配置してほしい・・・」という稟議書に対して、評議の上、その結果を送付しています。

函館奉行は、函館に、「穢多・非人」を配置するのははじめてなので、南部藩・津軽藩の「穢多・非人」を、新しく官舎(居小屋)を建てて居住させ、「函館会所」の予算から、その給与(米)を捻出することにしたので、それを了承してほしい・・・、という稟議書ですが、幕府評定所は、函館に、「穢多・非人」を配置することは差し支えないが、南部藩・津軽藩の「穢多・非人」の処遇と格差があってはならないので、函館奉行所に転任させられる「穢多・非人」に対しては、武士同様に、官舎(居小屋)と給与(米)を提供するのではなく、これまでの法慣習通り、その職務対する報酬としては「銭」で支払う(賃金払いする)ように・・・と回答するのです。

「穢多・非人」の処遇においては、諸藩との間に齟齬があってはならない・・・。

幕府直轄地内での処置とはいえ、近世幕藩体制下の司法・警察にかかわる「穢多・非人」の処遇について、諸藩の「穢多・非人」の処遇との間に整合性を確保しようとする姿勢は、幕府の政治の基本方針として存在していたと思われます。

筆者は、自然・地形・気候による諸藩の百姓の生活は、大きく影響されたと考えていますが、政治的・法的・社会的側面においては、近世幕藩体制下の武士階級・百姓階級(農人・漁人・町人・医者・僧侶・・・)の生活は、日本の地方史研究家・郷土史研究家が考えるほど、大きな違いはなかったのではないかと推測しています。

諸藩の武士階級・百姓階級の格差がすくなかったからこそ、徳川幕府は、開府以来数百年に渡って、その政権を維持できた・・・、と思われます。

幕府が、諸藩の「格差」を是正する施策をたてなかったとしたら、全国につくらせた街道・・・、それは、全国の諸藩を統治するための街道としてでなく、「格差」の存在をしらしめ、諸藩の武士階級・百姓階級の不満を拡散・拡大せしめる街道としても機能する諸刃の刃になり、幕府の政治を危機に陥れたことでしょう。

「渋染一揆」が発生した山陽道をまっすぐ江戸に進路をとって旅するとき、その途中の街道沿いの町や村・・・、そこで生活する「百姓」や「穢多・非人」の職務や生活に、岡山の渋染一揆を研究する学者・研究者・教育者が考えるほどには、大きな違い、格差はなかったものと思われます。

無学歴・無資格の筆者は、手持ちの資料から、近世の「村落史研究」が進んでいる信濃国(長野県)の研究成果と比較しながら、「百姓」の視点・視角・視座から、「渋染一揆」の「渋染・藍染」を批判検証するための前提となる、「百姓」と「衣類」に関する考察を深めていきたいと思います。

「百姓」と「衣類」

「百姓」と「衣類」・・・

『部落学序説』の筆者が、「百姓」と「衣類」について考察するとき、最初に参照することになる論文は、渡辺尚志著『江戸時代の村人たち』(山川出版社)です。

その著者・渡辺尚志氏は、東京大学大学院人文科学研究科を卒業されたあと、一橋大学社会学部の助教授をされている方です。

渡辺尚志氏は、「江戸時代の研究は、第二次世界大戦後、皇国史観の束縛から解放され、自由な学問的雰囲気のなかで多方面の発展を示したが、とりわけ村落史研究の進展にはめざましいものがあった。その当時は、「村がわかれば江戸時代がわかる」といった雰囲気があったのであろう。しかし、最近の状況は変わってきている・・・」といいます。

「現在、近世史研究の中で村落史研究は、一見、華やかさに欠け、少なくとも、テレビ番組や一般向け歴史書において、取り上げられる機会の少ない分野になっている・・・」といいます。

しかし、渡辺尚志氏は、さらに、「注意深く目を凝らしてみると、昨今、地道だが興味深い研究が徐々に積み重ねられ、新しい村落象が示されつつあることがわかってくる・・・」と言われます。渡辺尚志氏は、「そうした新しい研究動向をふまえて、村と村人の具体像を描こう」として、この論文『江戸時代の村人たち』を執筆されたといいます。

近世幕藩体制下の「村と村人の具体像」は、「信濃国諏訪郡」、三万二〇〇〇石の村々とその村人たちの姿です。

渡辺尚志氏は、「全国から事例を集めて、そこから平均的な部落像を求めるというのも一つの方法であろう。しかし、この本では、一地域に視点を定めて、これを多角的に堀さ下げることで、江戸時代の村の具体的な姿を求めようとした。」と言われます。しかし、「できるだけ全国各地の村々が抱える問題を意識的に取り上げることで、地域の固有性を大事にしつつも全国的な目配りを忘れないように心がけた。」と言われます。

筆者が、近世幕藩体制下の岡山藩の「渋染一揆」の史資料に出てくる「渋染・藍染」を批判検証する前提として、「百姓」と「衣類」について考察するために、最も参照に値する文献として、渡辺尚志著『江戸時代の村人たち』を取り上げるのは、上記の理由、特に、「できるだけ全国各地の村々が抱える問題を意識的に取り上げることで、地域の固有性を大事にしつつも全国的な目配りを忘れないように心がけた。」という研究姿勢にあります。

渡辺尚志氏は、「村の中央を甲州道中が通っており、その両側に家並みが形成されていた」瀬沢村の坂本家の「金銀出入帳」・「大福帳」の記載事項の中から、衣・食・住の衣に関する記事をひろいああげ、「坂本家の日々の暮らし」・「衣服」の見出しで、3ページに渡って要約しておられます。

それを、前々回の「衣類に関する民俗学的調査項目・・・」でとりあげたひな型にそって、その調査項目と渡辺尚志氏の分析結果を照合してみることにしましょう。

①衣類の素材
  木綿・麻・絹・紬
②素材の種類
  絹・紬・・・縮緬・太織・斜子・八丈・大島・郡内・板〆・もみ
  木綿・・・桟留・小倉・金巾・紋羽・真岡
  麻・・・高宮・さらしな
③製糸工程
  自家で、または人に頼んで製糸する(坂本家では、家内で木綿の糸とりを行っていた)
  木綿糸・絹糸を購入する
  苧は自家栽培
④機織り
  自家で、または人に頼んで機織りから行う
⑤染色
  色・・・紺・黒・青・茶・鼠・桃色・茜・浅黄・藤色・もみ・千草・花色・うす色・紫・空色
  模様染め・・・縞(かすり縞・格子縞・糸入縞)・さらさ染・型付・絞り
  糸の染色は紺屋に染め賃を払って染めてもらう
  染色法
⑥裁縫
  反物を買って家で裁縫(反物は、すでに染めてある場合と、白布を買ってそれを紺屋に頼んで染めてもらう場合がある)
  端切れを買って衣類の修繕に使用
⑦衣服の種類
 1.仕事着・ふだん着(男女別・季節別・年齢別・袖の有無・袖の形)・晴れ着(男女別・季節別・年齢別・機会別・袖の有無・袖の形)
 2.かぶり物・上半身・下半身・はきもの
 紋付・羽織・単衣・袷・綿入れ・こいの(腰までの丈の野良着)・股引など。
⑧衣服の付属品
 1.傘・日傘・笠・かぼちゃ笠・三度笠・はそり・竹笠・竹の子笠・子供笠など
 2.履物・・・草履・雪駄・草鞋・下駄・中抜・かうす・足駄など、足袋・さし足袋・下駄の緒
 3.雨具・・・合羽・加賀蓑
 4.寝具・・・箱枕・大ふとん表裏代・布団綿・夜具綿など
 5.下着
 6.そのほか・・・真綿・中綿・元結・切元結・平元結・手ぬぐい・針・扇子・紙入れ・はばき・かつら・うちわ・綿帽子など
⑨衣服管理
 1.衣更
 2.保有する衣服の種類と枚数
⑩髪型・化粧
  装身具(櫛・さし櫛・朝鮮櫛・かんざし・銀かんざし・笄・鬢さしなど)
  化粧道具類・・・紅・白粉・鏡・鏡立て・剃刀
  髪型と衣服
⑪流通
  既製服を買う(新品を買う場合と古着を買う場合がある)
⑫流行
⑬衣類の統制・法令

緑色の文字は、渡辺尚志氏が、史料を析して抽出したものです。赤色の文字は、井之口章次著『民俗学の方法』の「調査要項」の衣服に関する部分を、筆者が再編成したもので、渡辺尚志著『江戸時代の村人たち』に対応する記事がない項目をさしています。

これは、文献史学の先天的な限界のようなもので、坂本家の「金銀出入帳」・「大福帳」に関連項目についての記載がない以上、歴史学者の渡辺尚志氏は、推測でもって、欠落している項目の穴埋めをすることはできないのは、当然といえば当然です。

それでも、欠落している項目の内容を知ろうと思えば、他の歴史研究者の論文を探索する必要があるのですが、他の歴史研究者にしても、やはり、同じ文献史学の限界に直面しているであろうことは想像に難くありません。

『庄屋日記にみる江戸の世相と暮らし』(ミネルヴァ書房)の著者・成松佐恵子氏は、「江戸時代の農村における衣服をめぐる情報は、極端に少ない。我が国の服飾史に関する研究書を見ても、この時代については、大体が武家や町人の衣服が中心である。」といいます。

成松佐恵子氏は、「美濃郡安八郡西条村」の「百姓」・「庄屋」の「西松家」の古文書から、上記の赤色の文字の項目に関する貴重な見解を筆者に提示してくれます。衣服の種類・下着・衣更・保有する衣服の種類と枚数・流行・衣類の統制・法令に関して・・・。

それでも、その欠落した項目の知見を広めようとしますと、『部落学序説』の筆者としては、「文献民俗学」のような研究の必要性を感じてしまいます。

近世幕藩体制下の社会に身をおいて、「百姓」(町人を含む)階級、「武士」階級の「衣服」・「衣類」について、民俗学的な研究をした人はいないのか・・・、と。民俗学が、近代において初めて成立した学問であることは知ってはいても、近世は、近代以降に勝るとも劣らない学問が盛んだったのですから、近世幕藩体制下において、民俗学的な研究を先取りした人はいないのか・・・、と。

筆者が所有している史資料の中で、「文献民俗学」的な情報を提供してくれそうなのは、「余がごとき文盲には・・・」と、「識者」を自称する武士階級に対して反骨の精神をしめしながら、近世幕藩体制下の「衣類」について伝承を収集、それを論じた、「喜田川季壮尾張部守貞」ぐらいでしょうか・・・(喜田川守貞著『近世風俗志』(岩波文庫))。

百姓の衣類研究の新しい動向

百姓の衣類研究の新しい動向・・・

「文献民俗学」・・・・

もし、そのような学問分野が存在するとしましたら、喜田川守貞著『近世風俗志』は、その基本的かつ重要な第一級の資料であると言えます。

『近世風俗志』は、古代からの歴史を踏まえながら、近世幕藩体制下における民衆の生活と仕事、文化について、自分の足で諸国を歩いて、民俗学的な聞き取り調査と文献の収集を行い、独自の概念を駆使した、喜田川守貞の研究成果を要約してみせるのです。

この『近世風俗志』、近世幕藩体制下の岡山藩で起きた「渋染一揆」の関連史資料に出てくる「無紋渋染・藍染」の解明についても、多くの示唆に富んでいるのですが、従来の「渋染一揆」研究に際しては、あまり参照・引用の対象にはならなかったようです。

《渋染・藍染の色は、人をはずかしめる色か 「渋染一揆」再考》の著者・住本健次氏は、「渋染・藍染」について、さまざまな文献・資料を用いて論及されているのですが、この「文献民俗学」的資料である『近世風俗志』については、一切言及していません。

『近世風俗史』の著者の喜田川守貞・・・、かなり、個性の強い人であったようです。

喜田川守貞は、その著作の冒頭で、自らを、「無学短才、云ふべき所なし。」と紹介し、文中にあっては、「余がごとき文盲には・・・」という表現を繰り返します。

喜田川守貞が、そのような表現を多用するのは、喜田川守貞が自らを「卑下」し「落としめた・・・」のではなく、「無学短才」・「文盲」の言葉をもって、喜田川守貞の学問研究を揶揄する「識者」(武士階級の儒学者等)に対する反骨精神のあらわれではないかと思われます。

「おれは、無学短才・文盲だ。そのどこが悪い。おれは、武士階級のためにこの本を書いているのではない。百姓・町人のために書いているのだ」。

喜田川守貞が、そのようなことばを直接語ったかどうかはしりませんが、筆者は、『近世風俗志』のことばの節々から、喜田川守貞の学者・研究者としての反骨精神を汲み取ってしまうのです。

武士階級の血を引く、現代の学者・研究者・教育者の多くは、「士族」の学歴・資格を誇るあまり、「平民」の学歴・資格のなさを低くみて、嘆き悲しみ、憐憫の情を抱き、ある場合には、自らがそれに免れていることを思って優越感にひたります。

「百姓」の末裔である筆者の目からみますと、それは、近代歴史学に内在する「差別思想」である「賎民史観」・「愚民論」・「優性思想」のとりつかれた知識階級・中産階級の大いなる錯覚です。

1680年代の元禄期において流布された、元禄若者心得集『女重宝記・男重宝記』(社会思想社)においては、このように記されています。「若きとき学びならひたる所、老後に益ある事しり給ふべし。男子たるものは、士農工商ともに、読書学問の芸を第一と心得給ふべし・・・」とあります。

一度、身に着けた知識・教養は、そんなに簡単に廃れるものではありません。

喜田川守貞が活躍した天保期に至るまで、学的研鑽につとめたのは、武士階級のみではありません。天保期においては、長州藩の地においても、藩の財政を立て直すためには、藩の百姓(町人を含む)の読書き算数の基本学力の向上と職業に関する知識と技術の取得が必要であると、藩の全域において、寺子屋制度の拡充と教育を徹底し、藩民の教育にあたっているのです。

明治維新は、一部武士階級の決起によって成立したわけではありません。藩民の「読書学問」がその背後を大きく支えたであろうことは推察するに難くありません。

喜田川守貞が、『近世風俗志』の執筆を開始したのは、天保11年(1840)・・・。岡山藩で、「渋染一揆」が発生の原因となった、「別段御触書」の「無紋渋染・藍染」に関する「風俗取締令」(稲垣有一他著『部落史をどう教えるか』)が最初に出されたのが、天保13年(1842)・・・。

『近世風俗志』の「七ノ巻」には、「穢多・非人」に関する「文献民俗学」的資料が掲載されています。

これまでの、部落史研究者、「渋染一揆」の研究者が、『近世風俗志』の記事を不問に付してきたのはなぜなのでしょうか・・・。まさか、『近世風俗志』の著者・喜田川貞守が、「無学短才」・「文盲」であるからではないでしょうね・・・?

近世幕藩体制下の武士階級の学者・研究者・教育者も、「武士」の歴史については、価値あるものと重んじ、「百姓」の歴史については、軽んじるか、黙殺してしまいます。

喜田川守貞は、「貴人の服は諸書に灼然故にその書に拠りてこれを学ぶべし。民間の服は拠りて学ぶべき書も乏し・・・」といいます。

喜田川守貞は、「武士」階級の学者・研究者の民衆を賎しいもとのする「賎民史観」・「愚民論」に立脚した研究を退け、天保期の「庶民」(百姓・町人)の生活を、「民俗学」的に研究し、その実態を明らかにしようとします。『近世風俗志』は、「時勢・地理・家宅・人事・生業・雑業・貨幣・男扮・女扮・男服・女服・雑服・雑事・織染・妓扮・娼家・音曲」に渡って、「民俗学」的研究を体系的に叙述しています。

『部落学序説』の筆者には、喜田川守貞流の研究は、喜田川守貞で終わらず、現在の、こころある学者・研究者・教育者にひきつがれているのではないかと思われます。「賎民史観」・「愚民論」に依拠しない、むしろ、それを批判検証し、「庶民」(百姓・町人)の本当の歴史を取り戻そうとしている学者・研究者・教育者によって・・・。

その一人として、誰か名前をあげろ・・・、といわれれば、前回、引用した、『庄屋日記にみる江戸の世相と暮らし』の著者・成松佐恵子氏が該当します。筆者は、成松佐恵子氏は、<現代の喜田川守貞>ではないか・・・と思ったりします。

もしかしたら、この文章を目にすることになった成松佐恵子氏から、「失礼ね! 私は、喜田川守貞のような無学短才・文盲ではありません!」とお叱りを受けることになるかもしれませんが、筆者の感覚では、笑って胸に収めていただけるものと思っています。

成松佐恵子氏は、東京女子大学文理学部史学科卒、慶応義塾大学速水融研究室に勤務され、古文書の整理・解読を担当されているそうです。成松佐恵子氏によると、「母方の実家は、紀州尾鷲の近くにあって、長年庄屋を勤めた旧家である。」そうです。

「庄屋」といえども、「百姓」身分・・・。

近世幕藩体制下の、「美濃国安村郡西条村」庄屋の西松家の古文書、「土地台帳、村明細帳や年貢関係のような村の基本的な帳簿類は、領主からの通達、あるいは法令といった村政にかかわるものなど」公的文書と「日々の営みを綴った日記や、各地を旅した道中記、さらには家内の婚礼、出産時の祝儀帳や香奠帳など」の私的文書を、なつかしさと親しみをもって、ひもといていかれたのはでないかと思われます。

日本の歴史学に内在する「差別思想」である「賎民史観」・「愚民論」・「優性思想」的発想をもちこまれなかった分、成松佐恵子氏の近世幕藩体制下の「百姓」の研究は、珠玉の研究になったのではないかと思われます。

『庄屋日記にみる江戸の世相と暮らし』の第8章「村入用・生活費・物価」に収録されている、成松佐恵子氏作成の資料・一覧表は、「百姓」の歴史をひもとき、自分で探求していく上で、貴重な資料群です。「村入用項目別一覧」・「諸雑費日記の分析」・「諸物価の推移」(食料品・什器日用雑貨・紙文具木戸銭・衣類小間物・交際費・寺社関係)「作料・賃金」・「諸職賃金など」・・・は、『部落学序説』の筆者のような無学歴・無資格の学徒にとっては、貴重な研究ツールになります。

成松佐恵子氏は、喜田川守貞が、「貴人の服は諸書に灼然故にその書に拠りてこれを学ぶべし。民間の服は拠りて学ぶべき書も乏し・・・」と語ったのと同様のことをこのように綴ります。「一般に、江戸時代の農村における衣服をめぐる情報は、極端に少ない。我が国の服飾史に関する研究書をみても、この時代については、大体が武家や町人の衣服が中心である。幕府の禁令を通して、農村に対し強い規制が求められていたことを挙げ、百姓は奢侈をつつしみ衣服は布・木綿に限って許されていたこと、したがって彼らが身につけていたものはその程度のものであった、と述べられることがほとんどである」。

しかし、成松佐恵子氏は、庄屋の末裔、百姓の末裔として、庄屋文書の研究をしていくなかで、「村人が着用していた衣服が、この時期(文化9年(1812)、渋染一揆の45年前・・・)になっても、木綿・麻に限られていたとは考えにくい。」といいます。

成松佐恵子氏は、「百姓」の歴史、生活と仕事、文化は、支配階級の「武士」の視点・資格・視座からみるだけでは、その本質を把握できないといいます。「庄屋文書」の中の「日記」、「百姓」の側から「百姓」を見ることによって、「たてまえの部分だけを追っていては見えない世界までうかがえる・・・」というのです。

「人びとの暮らし方が全国的な規模で追跡」されるようになると、「百姓」の歴史は見直され、日本の「民衆」のほんとうの姿が明らかにされる日が訪れるのかもしれません。

「常民」である「百姓」の歴史が見直されるということは、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」として生きてきた「穢多・非人」の歴史が見直される・・・、ということでもあります。「常民」としての「百姓」(農人・工人・商人・医者・僧侶・神主・芸能者)と「非常民」としての「穢多・非人」とは、相互に依存しつつ、その村で、その町で、共に生きていたのですから・・・。

「百姓」の末裔が「百姓」のほんとうの歴史を取り戻すとき、近代中央集権国家によって、「棄民」扱いされ、「特殊部落」とラベリングされて、差別されるようになった、被差別部落の人々のほんとうの歴史も取り戻される日がやってくることでしょう。

その日その時、既存の「渋染一揆」研究は、音を立てて瓦解することになるでしょう。

渋染一揆の「穢多嘆書」に出てくる「穢多」の質屋通い

渋染一揆の「穢多嘆書」に出てくる「穢多」の質屋通い・・・

昨日、「百姓の衣類研究の新しい動向・・・」について、コメントがありました。ただひとこと、「ウザイ!」・・・

この言葉、筆者の辞書の中にはないので、インターネットで確認しましたら、若い人の間で流通している、ひとを馬鹿にするときの言葉であるとか・・・。

「百姓の目から見た渋染・藍染」の主題で、延々と書き連ねている筆者の執筆ペースに、読者の方々の中には、イライラしはじめた方が出てきたということでしょうか、「早く、結論だけを書け、結論を見て、筆者の文章を読み続けるかどうかを決める・・・」、と。

筆者自身、もっと簡潔に論述できなかったものか、反省していたところなので、読者の方のそのお気持ちも分からないわけではありません。

しかし、学歴・資格を持っておられる方の論文なら、結論だけを書いてもそれなりのインパクトがあるかもしれませんが、筆者は、何しろ、無学歴・無資格の典型、結論だけを書いたところで、そんなもの誰も信じはしない・・・、という思いがあります。

無学歴・無資格の筆者は、近世幕藩体制下の岡山藩の「渋染一揆」に関する、既存の研究に対して総合的に批判を展開しようとしているので、なぜ、学者・研究者・教育者の「無紋藍染・渋染」の認識の間違いを指摘するのか、詳細に、批判の過程を明らかにすべきであると思ったからです。

無学歴・無資格の筆者には、ことのほか、論証の詳細を明らかにする責任が要求されるのです。

結論だけを求めておられる方々は、2、3週間後に、『部落学序説』にアクセスしてくだされば、この付論「百姓の目から見た渋染・藍染」の文章を書き終え、本論の執筆に復帰していると思われます。

なぜ、近世幕藩体制下の岡山藩の「渋染一揆」に関する史資料に出てくる「無紋渋染・藍染」について論じるのに、「質入れされた百姓の衣類」を調べる必要があるのか・・・。それは、岡山藩の「穢多」身分の人々が、藩から提示された「御倹約御趣意之内穢多共別段御ケ条」に対して、「穢多嘆書」をしたためて、藩にその撤回を求めるのですが、その理由のひとつに、「質の流れ出た縞小紋、紋付杯・・・」とか、「持合たる衣類ニても指当ニ質入・・・」という表現がみられるからです。

岡山藩の「穢多」は、質屋通いをしていた・・・。

衣類を「質」にいれる、それに見合う金子を用立ててもらうだけでなく、場合によっては、質屋に並ぶ質流れの衣類を買っていた・・・。

それは、一体何を意味するのか・・・? 

岡山藩の「穢多」は、「質入れ」できるほど、高価な衣類を持っていたのか・・・? 
「穢多」が質入れした衣類の種類は・・・?
質屋に衣類をあずけたときの利息は・・・?
岡山藩の「百姓」と、岡山藩の「穢多」との間に、衣類の種類や数に差があったかどうか・・・? 
差別思想である「賤民史観」では、「穢多」身分は、「百姓」身分より、下位に位置づけられ、経済的格差が存在していたことが主張されるが、保有する衣類の種類や数に差があったのかどうか・・・? 
質屋は、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」の支配下にあり、特に、盗品の質入れについては、厳しい監視下にあったけれども、それを取り締まる「穢多」身分と、取り締まりの対象となる、その質屋とはどのような関係にあったのか・・・?
質入れをめぐって、「穢多」と質屋の間に癒着関係はなかったのか・・・?
岡山藩の「穢多」の衣類は、同じ司法・警察である「非常民」の「同心・目明し」等の衣類との間に、保有する衣類の種類や数について格差があったのかどうか・・・?

筆者は、「穢多嘆書」の中に出てくる、「質入れ」・「質流れ」を検証することで、「渋染一揆」を起こした岡山藩の「穢多」が置かれていた経済的・社会的状況が少しでも明らかになるのではないかと推測したためです。

従来の「渋染一揆」研究では、「御倹約御趣意之内穢多共別段御ケ条」の衣類の「色」について、「無紋渋染・藍染」に関心を集中させ、「渋染・藍染」を「人をはずかしめる色」、「差別の色」と断定し、「人をはずかしめる色」、「差別の色」を着せられた「穢多」身分の人々を、差別された「賤民」であると断定します。

従来の「渋染一揆」研究に携わった、部落研究・部落問題研究・部落史研究の学者・研究者・教育者は、衣類の「色」には、関心があっても、衣類そのものには、ほとんど関心がないようです。

筆者は、そこで、渡辺尚志著『江戸時代の村人たち』(山川出版社)、成松佐恵子著『庄屋日記にみる江戸の世相と暮らし』(ミネルヴァ書房)、喜田川守貞著『近世風俗史』(岩波文庫)などの、衣類に関する論述を参考にしながら、「穢多」と「衣類」の関係を明らかにしてみようと思ったのです。

何しろ、筆者は、無学歴・無資格・・・、従来の部落研究・部落問題研究・部落史研究の学者・研究者・教育者がほとんど言及してこなかった主題だけに、必要以上に時間をかけて論述しすぎているきらいはあります。

成松佐恵子氏は、近世幕藩体制下の「百姓」の本質を把握するのに、「見落としがちな史料(質入れ・質流れに関する資料)が重要な根拠になり得る」・・・といいます。「百姓」に関してだけでなく、「穢多」に対しても、同じことが言えるのではないかと思われます。

それに、筆者の手元には、すでに、「穢多」とその「衣類」に関する、「見落としがちな史料」がいくつかあります。

渋染一揆は、穢多(役人)と庄屋(御役人)の葛藤

渋染一揆は、穢多(役人)と庄屋(御役人)の葛藤・・・


筆者は、信濃国諏訪郡の村と百姓の姿を描いた渡辺尚志著『江戸時代の村人たち』、美濃国西条村とその百姓を描いた成松佐恵子著『庄屋日記にみる江戸の世相と暮らし』、そして、岡山藩の「穢多村」とその「穢多」を描いた柴田一著『渋染一揆論』を読みくらべながら、備前国岡山藩は、ずいぶん住みにくい国である、と感じます。

信濃国と美濃国が、近世幕藩体制下にあって、<民主的>要素を多分にもっているとしますと、備前国は、逆に、きわめて<封建的>要素の強い国であると思わされます。

渋染一揆がおこる前から、岡山藩の村方役人(庄屋等)は、柴田一氏が指摘しているように、「村落君主のように村民を駆使していた」ようです。

岡山藩の「穢多」たちが、「御役人」とよぶ村方役人(庄屋等)は、「戦国」時代の「土豪の系譜につながる門閥地主」で、「村民を下僕のように扱」い、「名子・下人」などの貧農層の百姓を隷属させていたようです。

筆者が牧師をしている教会の役員の方々の中には、近世幕藩体制下の庄屋をされていた家系の方々が多いのですが、筆者が、岡山県に住んでいたときに目にした岡山藩の庄屋の屋敷と比べると、長州藩とその枝藩の庄屋の屋敷とは雲泥の差があります。

それだけ、岡山藩の庄屋(村方役人・御役人)の力は強大なものであったのでしょう。

岡山藩は、この「戦国」時代の「土豪の系譜につながる門閥地主」につながる庄屋の権力を極力抑えようとして、武士支配の司法・警察機構の末端に位置する穢多を利用するのですが、天保期にいたっても、なお、その治世を完成させることはできなかったようです。

柴田一著『渋染一揆論』を読みながら、岡山県で生まれ、岡山県で育ち、これまでの人生の半分を岡山県で過ごした筆者は、柴田一氏が描く、岡山藩の庄屋の姿・・・に、なにとなく、「さもありなん・・・」と思うようになりました。

筆者にとって、岡山県は出身県であり、これまでの人生の半分を過ごした場所なのですが、最近、とみに、岡山県を<ふるさと>として受けとめる感情が崩壊し喪失していっているのは、昨今の岡山県人の<荒れた>人間性が大きく影響しているのかもしれない・・・、と思ったりします。

岡山県には、筆者が住んでいたころにも、民の上に権力を振るう、役場の官吏とか、学校の教員とか、<小役人>と言われる人々は少なからず存在していました。民衆・庶民は、彼らによって、どれだけ酷い目にあってきたことか・・・。

『部落学序説』の筆者の目からみると、岡山藩の、近世幕藩体制下の司法・警察である非常民としての穢多は、武士支配に帰属する身分でした。その当時の、百姓支配の、終生、軍事・警察に関与することのない平百姓とは異なる身分でした。

しかし、百姓支配の中でも、大庄屋・庄屋などの村方役人(御役人)、武士から百姓に帰農した御百姓は、非常民の一翼をにない、強大な警察権を持っていましたので、武士支配の末端の警察権を持つ穢多とは、至るところで軋轢が招じる可能性があったと思われます。

武士支配の穢多(役人)と百姓支配の庄屋(御役人)の間で、その警察権の上下・優劣をめぐって葛藤があったものと思われます。その結果、武士支配の穢多(役人)は、百姓支配の庄屋(御役人)に屈伏させられたと思われます。そのことを、藩も妥協的に容認していきました。例外的に、庄屋(御役人)が法を破ったときに、その事件に穢多(役人)として動員され、庄屋(御役人)の探索・捕亡に関わる以外、庄屋(御役人)の権力(課税・徴収・警固・・・)に服従させられるようになっていったものと思われます。

いわゆる「二重支配」と呼ばれているものです。

それは、現代社会における、岡山県の県知事、各市町村長とその支配下の警察官との関係に類似するところがあります。

柴田一著『渋染一揆』を読む限りでは、庄屋と穢多の関係は、庄屋と百姓の関係以上に、ぎくしゃくしたものがあったのではないかと思われます。

庄屋は、穢多をその権力のもとに「屈伏」せしめんとし、権力ではなく法に使え、その職務をまっとうしようとする穢多は、百姓支配の庄屋の権力を排除して、武士支配の司法・警察の独立性を確保しようとします・・・。

渋染一揆の背景には、一般の百姓の上に、権力者としてふるまう、武士支配の穢多(役人)と百姓支配の庄屋(御役人)の間の職務上の葛藤が存在していたと思われます。

「百姓」の視点・視角・視座からみますと、「役人」である穢多と、「御役人」である庄屋の間に繰り広げられた司法・警察権をめぐる支配筋の闘争である「渋染一揆」は、多くの民衆・庶民にとっては、直接かかわりのないことがらであった・・・、と思われます。

『部落学序説』の筆者にとっては、「渋染一揆」は、被差別民の差別からの解放闘争、人権確立のための闘争などではなく、近世幕藩体制下の岡山藩の支配階級内部の権力抗争に過ぎなかった・・・、と思われます。

そのような、<官>の世界の渋染一揆に、<民>の世界の、人口90%を超える「平百姓」は、どのようにかかわることができたのでしょう・・・。先祖代々、庄屋(御役人)の過酷な支配を受けてきた「平百姓」の怨念から、庄屋(御役人)に闘いを挑む穢多身分の渋染一揆勢に対して、幾ばくかの同情の思いを持ち、夏の暑い日、彼らに冷たい水を差し出したとしても、それは、決して、それ以上のものではないのです。

岡山藩の普通の「平百姓」は、渋染一揆に際して、その役人(穢多)と御役人(庄屋等)の間の抗争を、黙って傍観するしかなかった・・・、と思われます。

岡山藩の役人(穢多)と御役人(庄屋等)の間の葛藤状態は、『禁服訟歎難訴記』の次の文に見られます。

「凶作不熟の其砌、徳取御毛見抔も御願申上候事も有之ど、わずか障り候節は御役人へも申しハ不上、持合たる衣類ニても質入御年貢皆済致候者、別段衣類候ハゝ当難夕しのぎ致・・・」

いままでの、「渋染一揆」の研究においては、あまり省みられなかった文言です。

「凶作不熟」に見舞われたとき、生活が困窮する場合は少なくありません。今筆者が棲息している、周防国(長州藩・徳山藩・岩国藩)の歴史を見ても、「凶作不熟」のおり、多くの農民が食べるものもことかき、路頭に迷い、餓死していく様が多々記録されています。

徳山藩の記録をみると、「凶作不熟」のおりは、徳山藩から、徳山藩の穢多(役人)を通じて、御救米が支給されます。流浪する百姓の救済に従事する穢多(役人)に対して、徳山藩は、直接、特別手当てをします。徳山藩の藩権力と穢多(役人)の関係は、より直接的です。

しかし、岡山藩においては、「凶作不熟」のおりは、穢多(役人)は、庄屋(御役人)に対して、救済策を要請しなければならなかったようです。庄屋(御役人)が穢多(役人)に対して、どのようにふるまったのか・・・、想像に難くありません。岡山藩の穢多(役人)は、庄屋(御役人)との関わりをできる限り避けて通っていたようです。

「わずか障り候節は御役人へも申しハ不上、持合たる衣類ニても質入御年貢皆済致候・・・」という、岡山藩「穢多」の文言は、そのことを示唆しているように思われます。

それにひきかえ、現代の、こころある学者・研究者・教育者によって描かれる、信濃国諏訪郡の村・庄屋・百姓の姿、美濃国の村・庄屋・百姓の姿・・・、岡山藩のそれとは、大きく異なるように思われます。

『江戸時代の村人たち』の著者・渡辺尚志氏にしても、『庄屋日記にみる江戸の世相と暮らし』の著者・成松佐恵子氏にしても、歴史学として、その論文を執筆している以上、その論文の素材である史資料に大きく限定されていることはいうまでもありません。歴史学者は原則として、史資料が語る以上に語ることはできませんから・・・。

しかし、『部落学序説』の筆者は、歴史学者ではありません。常民の学としての民俗学の対極にある、非常民の学としての<部落学>を提唱している筆者は、信濃国諏訪郡の村と美濃国西条村の庄屋・農民に関する資料を、文献の持っている、時間的・空間的制約を超えて、民俗学的スパンで再構成します。

豊作による平穏無事に過ごしているときより、「凶作不熟」など、社会的・個人的に困難と困窮に直面しているときにこそ、常民・非常民としての生きざまの本質が明らかにされる・・・と考えています。

百姓と質入れ

百姓と質入れ・・・

成松佐恵子著『庄屋日記にみる江戸の世相と暮らし』・・・、それは、無学歴・無資格の筆者にとっては、非常に魅力にとんだものです。

本の至るところに、成松佐恵子氏が歴史学の研究者としての心血を注いで作成されたと思われる「表」が挿入されています。『庄屋日記にみる江戸の世相と暮らし』の本文からだけでなく、添付された多くの「表」からも、多くの示唆を受けます。

本文で触れられていないことがらを、この「表」から推察し、本文の内容をより豊かに解釈することもできます。

成松佐恵子著『庄屋日記にみる江戸の世相と暮らし』は、渡辺尚志著『江戸時代の村人たち』同様、近世幕藩体制下の「百姓」の実態を学習しようとするものにとっては、必読の書です。特に、筆者のような、無学歴・無資格のものにとっては、両書は、かけがえのないものです。

成松佐恵子氏は、「質入された衣類の内容」の項で、庄屋の家筋で、「質屋業」を営んでいた西松家の古文書から、「質入された品物」の中から、「衣類品だけを取り出して」、「質入れ品の内容(文政10-11年)」という「表」を紹介されています。その「表」は、「人名・日時・内容」から構成され、21人の「質草」、83品目の詳細が列挙されています。

成松佐恵子氏は、「袷一点のような場合から、一〇数点に及ぶ品数を、いちどきに質草にしたものまでさまざまなものである。圧倒的に多いのが袷・綿入・羽織など・・・」で、中には、「絹織物」・「花色の棹物」(無地で、淡藍色に染めた女ものの絹反物)も含まれたいたといいます。

「質屋を利用して借金するような、いってみれば生活苦に陥ったと思われる農民が所持していたものなのである。男女とも、麻・木綿に限るといった服装の規制は、野良着に関してならともかく、すでに守られていなかったことはこれで証明されよう」。

成松佐恵子氏によると、「見落としがちな史料」(ここでは、質屋業を営む西松家の質草の記録)が、近世幕藩体制下の「農村では人びとの衣服は木綿と麻に限られていた、といった従来の衣服史では明らかにしえない当時の実態をうかがう」ことができる「重要な根拠になり得る」といいます。

質屋業の成松家は、他村の百姓に、「衣類六品」(木立反物3、女夏帯1、男向反物縮織1、羽織1)を「一貫一〇〇文」で売却したり、「古着屋」に売却しています。

成松佐恵子氏によりますと、「見落としがちな史料」は、質入れに関する史料だけではありません。

「天保一〇年(1839)年の暮、村内の藤三郎方に盗賊が入り、衣類など相当数を盗み取られる事件があった。」として、その被害内容を列挙しています。「女物綿入5、うち太織、縮緬など絹もの3、男物ゴロフクレン帯など帯3筋、羽織男女1点ずつ、男物羽織本綿もの1、そのほかに木綿の反物や襦袢・・・合わせて25点・・・」。

被害は、役所に届けられ、取り調べを受けることになりますが、「とくに非難を受けることなく聞き入れられた・・・」といいます。百姓が着ることを許されていない絹の織物・反物を所有しても、なんらとがめだてを受けていない・・・、というのです。

成松佐恵子氏は、「生活に余裕のある」百姓家にしても、「生活苦に陥ったと思われる」百姓にしても、所有している衣類の中に、絹の着物や反物が含まれていた・・・、ということは、「農民の衣類は木綿と麻に限られる」という、近世史の一般説・通説・俗説に違うというのです。

無学歴・無資格の「百姓」の末裔でしかない筆者は、成松佐恵子氏の卓見に感服しつつ、成松佐恵子氏の視点・資格・視座は、「百姓」は「百姓」であっても、「庄屋」の末裔のそれでしかないと考えてしまいます。

庄屋・西松家に質入れした、上記21人の百姓は、何のために、その衣類を質入れしたのでしょうか・・・? 成松佐恵子氏が指摘するように、「生活苦」・・・? もし、「生活苦」であるとすれば、その「生活苦」をもたらしたものは何なのでしょうか・・・? 質入れした百姓の家に病人が出て治療費がかさんだとか、一家の働き手を失って生活に困窮をきたしたとか、それとも、渋染一揆の「穢多嘆書」の中で指摘されているように、不作のため年貢の穴埋めをする必要があったとか。

近世幕藩体制下においては、女性の着物は、結婚したあとも女性の財産として保障されていました。結婚後の生活の現実と、結婚前の生活との間にギャップが生まれるのも珍しくなかったようですから、「生活苦に陥ったと思われる」・・・、百姓家から、妻の結婚前の着物・反物が出てきても別に不思議ではなかったと思われます。それは、盗品を取り調べる役人にとってもなんら問題はなかったものと思われます。

それに、質屋通いをする人々は、そもそも、「生活苦に陥ったと思われる」人々だったのでしょうか・・・?

近世幕藩体制下の長州藩の枝藩である徳山藩の記録をみますと、「凶作不熟」のおり、質屋に質入れする質草もなく、飢えて倒れていった百姓の数はおびただしいものがあります。質屋通いをすることができるということは、質草にすることができる、それ相当の資産を持っている・・・、ということを意味しますから、同じ「生活苦」が理由であったとしても、その内容を詳しく精査すべきであると思われます。

明治以降はいざ知らず、近世幕藩体制下の「質屋」は、民衆・庶民にとって身近な金融機関だったと思われますので、それを踏まえた、解明が必要であると思われます。

岡山藩渋染一揆の際の「穢多嘆書」の中に出てくる、「凶作不熟の其砌・・・持合たる衣類ニても質入御年貢皆済致候」という文言は、渋染一揆をおこした、近世幕藩体制下の司法・警察に携わった非常民としての岡山藩「穢多」の、ある種の経済的豊かさを表現したものであるとも解せるのです。

『江戸時代の村人たち』の著者・渡辺尚志氏は、庄屋が質屋業を兼業する意味を、「2章・村の借金」で明らかにしています。その解釈の可能性は、成松佐恵子著『庄屋日記にみる江戸の世相と暮らし』の「表」の中にもちりばめられています。

村の経済的破綻と百姓の質入れ

村の経済的破綻と百姓の質入れ・・・

25年前、筆者が、山口県下松市の小さな教会に赴任してきたとき、下松市は、「財政再建財団」でした。

高度経済成長の大きなうねりの中で繁栄を極める、徳山市をはじめとする近隣の市町村と違って、下松市の市街は、不況感が漂っていました。夜、7時を過ぎると、下松市の商店街は灯をおとし、市内全体が闇に閉ざされていました。

しかし、少し離れた徳山市に入ると、午前2時をまわっても、商いをしている店がいくつもありました。高度経済成長の中謳歌している市町村と、「財政再建財団」の差は歴然としていました。

下松市が「財政再建財団」に転落したのは、市内の大手企業が、「構造不況」で不況に陥り、税収が激減したためでした。

そのとき、下松市は、隣の徳山市と合併を打診したのですが、徳山市は、「貧乏行政」との縁組を拒否しました。そのため、下松市は、下松市のまま、「財政再建財団」からの脱出を図ったのですが、それから25年・・・、下松市は、「財政再建団体」から離脱し、今は、周南地区の市町村の中で、安定した行政になったのではないかと思われます。

下松市の商業の中心は、JR下松駅前から、下松愛隣教会のある末武地区に移り、多くの企業が進出、いまでは、24時間営業の店が多数存在し、午後7時を過ぎると闇に包まれていた、「財政再建財団」当時の状況からすっかり離脱しました。

バブルがはじけたあとの、国の政策の失敗で、地方の市町村は不用な公共事業を強制され、多額な負債を背負わされ、中には、負債の重さに耐え切れなくて、「財政再建財団」に転落する市町村も出てきました。

下松市に25年身を置いてその市政を眺めてきた筆者の目には、政治家の政治家たる手腕は、高度経済成長下においてよりも、「財政再建財団」下の政治において発揮されます。そして、その中で培われたノウハウは、現在、「財政再建財団」に転落し、艱難辛苦に耐え、北海道夕張市を支えようとしている夕張市民の明日に、プラスとなって跳ね返ってくるものと思われます。

市町村の経済的破綻・・・、それは、現代だけではなく、近世幕藩体制下においても、その当時の村々がしばしば直面させられたものです。

藩政の失敗、不況不作・・・、それに直面した藩は、財政再建のために、さまざまな施策を実施したと思われますが、藩政の破綻は、支配階級である「武士」によって支配されていた「百姓」の生活と経済に深刻な影響を与えます。村民ひとりひとりが、社会の下層から順番に破綻していくだけでなく、突如として、村全体に、庄屋等村方役人と百姓、すべての上に襲ってくる場合があります。そのとき、村全体が、多額な負債を抱えた「財政再建財団」に転落するのです。

村全体が多額な借金をかかえる・・・。

そのとき、村はどうしたのか・・・?

『江戸時代の村人たち』(山川出版社)の著者・渡辺尚志は、その書において、「2章・村の借金」で詳しく論述しています。

村は、村全体で「村借」(むらがりと読む)するのです。「村借」には、「内借」(ないしゃくと読む)と「公借」(こうしゃくと読む)があるそうです。「内借」は、他村の「百姓・町人から借用するもの」で、「公借」は「藩から借用するもの」だそうです。

渡辺尚志氏は、具体例として次の事例を紹介しています。

「1838(天保9)年1月、乙事村では、不作が続いて村人全員が生活資金に困ったため、名主二人・年寄四人(これは村役人全員である)がその所持地10石8升5合4勺を質入れして、甲斐国居摩郡青木村の藤崎源兵衛・同八右衛門から、年季3年、年利15%で、60両を借金した」。

村と村民の破綻をまぬがれるために、村方役人は、その私有地を「質入れ」して60両という大金を借金するのです。

借金の返済ができなくなったとき、村方役人は、その私有地を売却し、借金の返済を求められます。それでも、借入額の元利を返済できなかったときは、債権者による、さらに厳しい取立てにさらされます。

村全体のすべての借金を、庄屋をはじめとする村方役人の私財で返済しないといけないとなると、誰も村方役人になることを拒否するようになります。村方役人は、「村借」するとき、村びとから、何らかの担保をとったと思われます。自作農からは、「土地」を質入れさせ、小作農から、衣類等の質草を質入れさせる・・・。

庄屋をはじめとする村方役人が、「質屋業」を兼業する前提は、その職務の性格上、最初から存在していたように思われます。

庄屋が経営する「質屋業」・・・、その営業記録に出てくる記録(成松佐恵子『庄屋日記にみる江戸の世相と暮らし』)の質入れは、個人的経済的破綻に基づくものやら、不況不作による村全体の破綻に基づくものやら、藩政の失策に基づくものやら・・・?

岡山藩の渋染一揆の際、「無紋渋染・藍染」お断りの、「穢多歎書」に、「御役人仰は通りに候得共極貧者の多故機織て新二調候者ハ一ケ村に五人か八人、残りの者は・・・」かろうじて、質入れなどをして金策に走り、年貢を完済しているというくだり、それは、何を意味しているのでしょうか・・・?

岡山藩の「穢多村」においても、ほかの村々と同じように、「生活に余裕のある」層と、「生活苦に陥ったと思われる」層とが存在している・・・、ということを意味します。不況不作によって、「穢多村」全体が、経済的危機に直面し、「村借」の必要にせまられたとき、「穢多村」の庄屋等村方役人は、どこから、「村借」を受け、その「穢多村」の村びと(穢多)から、どのような土地や衣類を質入れさせたのか・・・?

「穢多歎書」の記述は、「穢多村」ないし「穢多」に対して、土地や衣類を質草として、金を融通する「質屋業」がいた・・・、ということを意味します。『渋染一揆』(解放出版社1975年)の著者・川本祥一氏は、かごやが、間違って「皮田村の者」をのせたとき、「そのかごやは、あとで、そのかごを焼きすてなくてはならなかった・・・」といいます(筆者には信じがたい話・・・。明治初期の話に置きかえれば、「旧穢多」が人力車にのったという理由で、人力車を廃車しなければならなくなる、という愚かな話・・・)が、それほど、「百姓」から忌み嫌われていた岡山藩の「穢多」に、誰が、その「衣類」を質草として、金子を融通したというのでしょうか・・・?

被差別部落出身者として、被差別の側から差別者を研究するため、はじめられた、川本祥一氏の「部落学」・・・、その前提は、多々問題を含んでいるようです。

「内借」ではなく、「公借」であった可能性はありますが・・・。

もし、「内借」ではなく「公借」であったとしたら、そのとき、「穢多」の土地や衣類を質草にとった、藩と藩の役人は、共に、<穢れた>存在になったのでしょうか・・・。かごやが、そのかごに「穢多」がのったという理由だけで、自分の高価な商売道具を焼き捨てるのと同じように、質草をとると同時に焼き捨てるということがあったのでしょうか・・・? それとも、藩と藩の役人は、自らその質草に手を触れることなく、ほとぼりがさめると、その衣類を、元の持ち主に無料ではらいさげたのでしょうか・・・?

近世幕藩体制下の岡山藩の「渋染一揆」・・・。

近代以降の部落研究・部落問題研究・部落史研究の学者・研究者・教育者がつくりあげた「共同幻想」のようです。

次回、その「共同幻想」ぶりについて言及してみましょう。

「渋染一揆」に参加した「穢多」が身にまとっていた衣服

「渋染一揆」に参加した「穢多」が身にまとっていた衣服・・・

『部落学序説』を書き始める前、部落解放同盟新南陽支部から借りていた、岡山藩の「渋染一揆」に関する資料のひとつに、川元祥一著『渋染一揆』があります。

筆者は、この本を返すことなく、手元に置き続けてきたのですが、この『渋染一揆』・・・、執筆者の川元祥一氏のことばを借りれば、『渋染一揆』に関する「絵本」の部類に入るそうです。

「絵本」といっても、幼稚園生向けの絵本ではなく、小中学生向けの、挿絵の入った、「渋染一揆」に関する物語です。おそらく、小学校・中学校の同和教育の副教材、あるいは、被差別部落の中で行われる、大人の集会、「解放学級」・「解放学校」のテキストとして用いることができるように執筆されたのでしょう。

あとがきで、部落解放同盟岡山県連合会委員長は、「渋染一揆の物語が本として刊行されることに、われわれ部落解放同盟岡山県連合会は、深い喜びをもっている。なぜなら、この一揆は、われわれの先祖が、命をかけて闘った、反封建闘争史上にも、さんぜんと輝く、誇りある一揆だからである。」と記していますが、「絵本」ではなく、「物語」なのでしょう。

委員長は、「一揆のなかで、部落大衆は・・・現在とくらべてもけっして劣らない組織的な活動をつづけ、部落民が一丸となって行動をおこした。・・・一揆は多くの犠牲をこえて、その伝統を今日の部落解放運動に脈々といきづかせ、多くの教訓をのこした・・・」といいます。

川元祥一著『渋染一揆』は、1970年代の、岡山県の部落解放運動に、大きな役割を果たしたのでしょう。岡山県の部落解放運動の組織化・大衆化のひな型として・・・。

この川元祥一著『渋染一揆』は、岡山県の差別・被差別を問わず多くの人びとに受け入れられ、そして、教科書に採用されることで、岡山県の被差別部落の歴史には、権力と闘い差別法令を撤回させた渋染一揆があることを、全国に知らしめることになったのでしょう。

1970年代の岡山県の部落解放運動が、川元祥一著『渋染一揆』という「物語」を必要とし、川元祥一氏がそれに応えたのでしょう・・・。川元祥一著『渋染一揆』は、運動論的要請に応える著作であったと思われます。

つまり、それは、歴史学の「論文」ではない・・・。

しかし、『部落学序説』の筆者は、川元祥一著『渋染一揆』を、単なる「絵本」・「物語」としてではなく、「部落学」的研究の対象・テキストとしてみます。「絵本」・「物語」は、単なる創作物ではなく、その背後に民衆の生活や生きるための闘いがあると信じているからです。「絵本」・「物語」にも、語り手の、深い思想・哲学が反映されているものです。

「無紋渋染・藍染」を強制する藩に、その法令の撤回を求めた、「穢多歎書」の中に、「凶作不熟の其砌・・・持合たる衣類ニても質入御年貢皆済致候」という文言が出てきますが、川元祥一氏は、その『渋染一揆』においては、「質入」れした・・・という言葉を伏せて、「生活にこまった時、着物を売ってその場をしのげません・・・」と表現します。

着物を質屋に質入れするのと、古着屋に売るのとでは、大きな違いがあります。

川元祥一氏は、この「質入」という言葉にどのような思い入れをしたのでしょうか・・・? 川元祥一著『渋染一揆』を読むことになる、被差別部落のこどもたちのことが念頭にあったのでしょうか・・・? 川元祥一氏が、「質入」を避けて通られることで、「渋染一揆」の研究から、「穢多」身分の「質入」と、その背景が欠落するようになったのではないでしょうか・・・。

川元祥一氏の『渋染一揆』出版から約20年後の文章においては、「茶色い着物、あるいは藍染の着物だけになると質屋にもっていったって質屋はとらないだろう・・・」と書いておられます。つまり、「渋染・藍染」の着物は質草にはならないけれども、それ以外の着物なら質草になる。たとへ、常日頃、穢多と交わりをしないひとびとが営む質屋ですら、その着物を質草として金子を用立ててくれる・・・、と。

川元祥一著『渋染一揆』には、「穢多」が触れるものはすべて穢れる・・・、というような発想がみられます。もしそうなら、「穢多」が質屋にもっていった質草も穢れていることになるので、「渋染・藍染」であろうがなかろうが、「穢多」は、どの質屋からも金を用立ててもらえなかったのではないでしょうか・・・?

部落史の真実は、往々にして、語られた内容より、語られなかった内容の方に存在します。これは、『部落学序説』の筆者の貧しい経験でしかありませんが・・・。

川元祥一著『渋染一揆』の中に、一揆に参加した「穢多」たちが身にまとっていた衣類の話が出てきます。

「白装束(死をかくごしたとき着る白いきもの)に身をかためた男たち・・・」

藩からの、「無紋渋染・藍染」を強制されたことに反対する「穢多」たちが、「一揆」に参加するとき、自ら、反対する「無紋渋染・藍染」を身にまとっていたのでは話にならない、と思われたのでしょうか・・・? 「無紋渋染・藍染」を「賤民の色」と判断する川元祥一氏は、「渋染一揆」に参加した「穢多」たちに、「賤民の色」ではない、「人をはずかしめる色」ではない、「白」色の服を着せることになった・・・、それは、筆者の勝手な推測でしょうか・・・?

『渋染一揆』から約20年後の川元祥一氏の文章(1992年度筑波大学第二学群日本語・日本文化学類の講義録)には、この「白装束」、白色の着物についての話は出てきません。

1995年の発行された、柴田一著『渋染一揆論』では、すでに流布されて、一般に受け入れらた「白装束」という解釈を援用しています。「禁服訟歎難訴記」の「白ひ菅笠」という言葉を、「白装束に編笠姿」と意訳しています。

柴田一氏は、「白ひ」という言葉を「白装束」と解することの間違いに気付いていたのでしょう。しかし、部落解放運動が展開されていくなかで、広く受け入れられていった「白装束」という解釈・・・、柴田一氏は、かなり度量の大きな歴史学者だったのでしょう。「白装束」という間違った解釈を受け入れ、そして、それを示唆するために、明らかな間違いを付加します。「菅笠」を「編笠」と解釈するのです。柴田一氏は、「菅笠」と「編笠」とするような単純なミスをするような人ではありません。

しかし、「菅笠」を「編笠」と解釈されたことで、「菅笠」が持っている意味が失われていきます。

川元祥一著『渋染一揆』では、その一揆に参加したのは、約3000人・・・。「三千の部落民衆の姿・・・どの顔にも、決死の表情があった・・・」。

1人分の着物を作るのに要する反物は1反です。3000人の「穢多」の「白装束」を用意するためには、木綿3000反が必要です。倹約令反対の意思表示をするため、「強訴」に際して、白色の木綿3000反を用意した、あるいは、常日頃から、3000人の「穢多」が「白装束」を用意していたとは、考えにくいところがあります。

川元祥一著『渋染一揆』の「物語」としての脚色でしょうか・・・?

川元祥一著『渋染一揆』の最後の結びの言葉は、「岡山藩の部落民衆は、渋染の着物を着ることは全くなかった。」・・・、という言葉です。

『部落学序説』の筆者が、近世幕藩体制下の岡山藩の「渋染一揆」に関する資料、あるいは論文を読む限りにおいては、「渋染一揆」に参加した「穢多」に「白装束」を着せることも、「渋染一揆」後に「穢多」に「渋染」を着せないことも、現代の「渋染一揆」研究の学者・研究者・教育者が作り出した幻想、「物語」でしかないと思うのですが・・・。

ちなみに、浄土真宗の門徒である「穢多」は、「白装束」(死装束)を身につけることはないとか・・・。

村の経済的破綻と百姓の質入れ

村の経済的破綻と百姓の質入れ・・・

25年前、筆者が、山口県下松市の小さな教会に赴任してきたとき、下松市は、「財政再建財団」でした。

高度経済成長の大きなうねりの中で繁栄を極める、徳山市をはじめとする近隣の市町村と違って、下松市の市街は、不況感が漂っていました。夜、7時を過ぎると、下松市の商店街は灯をおとし、市内全体が闇に閉ざされていました。

しかし、少し離れた徳山市に入ると、午前2時をまわっても、商いをしている店がいくつもありました。高度経済成長の中謳歌している市町村と、「財政再建財団」の差は歴然としていました。

下松市が「財政再建財団」に転落したのは、市内の大手企業が、「構造不況」で不況に陥り、税収が激減したためでした。

そのとき、下松市は、隣の徳山市と合併を打診したのですが、徳山市は、「貧乏行政」との縁組を拒否しました。そのため、下松市は、下松市のまま、「財政再建財団」からの脱出を図ったのですが、それから25年・・・、下松市は、「財政再建団体」から離脱し、今は、周南地区の市町村の中で、安定した行政になったのではないかと思われます。

下松市の商業の中心は、JR下松駅前から、下松愛隣教会のある末武地区に移り、多くの企業が進出、いまでは、24時間営業の店が多数存在し、午後7時を過ぎると闇に包まれていた、「財政再建財団」当時の状況からすっかり離脱しました。

バブルがはじけたあとの、国の政策の失敗で、地方の市町村は不用な公共事業を強制され、多額な負債を背負わされ、中には、負債の重さに耐え切れなくて、「財政再建財団」に転落する市町村も出てきました。

下松市に25年身を置いてその市政を眺めてきた筆者の目には、政治家の政治家たる手腕は、高度経済成長下においてよりも、「財政再建財団」下の政治において発揮されます。そして、その中で培われたノウハウは、現在、「財政再建財団」に転落し、艱難辛苦に耐え、北海道夕張市を支えようとしている夕張市民の明日に、プラスとなって跳ね返ってくるものと思われます。

市町村の経済的破綻・・・、それは、現代だけではなく、近世幕藩体制下においても、その当時の村々がしばしば直面させられたものです。

藩政の失敗、不況不作・・・、それに直面した藩は、財政再建のために、さまざまな施策を実施したと思われますが、藩政の破綻は、支配階級である「武士」によって支配されていた「百姓」の生活と経済に深刻な影響を与えます。村民ひとりひとりが、社会の下層から順番に破綻していくだけでなく、突如として、村全体に、庄屋等村方役人と百姓、すべての上に襲ってくる場合があります。そのとき、村全体が、多額な負債を抱えた「財政再建財団」に転落するのです。

村全体が多額な借金をかかえる・・・。

そのとき、村はどうしたのか・・・?

『江戸時代の村人たち』(山川出版社)の著者・渡辺尚志は、その書において、「2章・村の借金」で詳しく論述しています。

村は、村全体で「村借」(むらがりと読む)するのです。「村借」には、「内借」(ないしゃくと読む)と「公借」(こうしゃくと読む)があるそうです。「内借」は、他村の「百姓・町人から借用するもの」で、「公借」は「藩から借用するもの」だそうです。

渡辺尚志氏は、具体例として次の事例を紹介しています。

「1838(天保9)年1月、乙事村では、不作が続いて村人全員が生活資金に困ったため、名主二人・年寄四人(これは村役人全員である)がその所持地10石8升5合4勺を質入れして、甲斐国居摩郡青木村の藤崎源兵衛・同八右衛門から、年季3年、年利15%で、60両を借金した」。

村と村民の破綻をまぬがれるために、村方役人は、その私有地を「質入れ」して60両という大金を借金するのです。

借金の返済ができなくなったとき、村方役人は、その私有地を売却し、借金の返済を求められます。それでも、借入額の元利を返済できなかったときは、債権者による、さらに厳しい取立てにさらされます。

村全体のすべての借金を、庄屋をはじめとする村方役人の私財で返済しないといけないとなると、誰も村方役人になることを拒否するようになります。村方役人は、「村借」するとき、村びとから、何らかの担保をとったと思われます。自作農からは、「土地」を質入れさせ、小作農から、衣類等の質草を質入れさせる・・・。

庄屋をはじめとする村方役人が、「質屋業」を兼業する前提は、その職務の性格上、最初から存在していたように思われます。

庄屋が経営する「質屋業」・・・、その営業記録に出てくる記録(成松佐恵子『庄屋日記にみる江戸の世相と暮らし』)の質入れは、個人的経済的破綻に基づくものやら、不況不作による村全体の破綻に基づくものやら、藩政の失策に基づくものやら・・・?

岡山藩の渋染一揆の際、「無紋渋染・藍染」お断りの、「穢多歎書」に、「御役人仰は通りに候得共極貧者の多故機織て新二調候者ハ一ケ村に五人か八人、残りの者は・・・」かろうじて、質入れなどをして金策に走り、年貢を完済しているというくだり、それは、何を意味しているのでしょうか・・・?

岡山藩の「穢多村」においても、ほかの村々と同じように、「生活に余裕のある」層と、「生活苦に陥ったと思われる」層とが存在している・・・、ということを意味します。不況不作によって、「穢多村」全体が、経済的危機に直面し、「村借」の必要にせまられたとき、「穢多村」の庄屋等村方役人は、どこから、「村借」を受け、その「穢多村」の村びと(穢多)から、どのような土地や衣類を質入れさせたのか・・・?

「穢多歎書」の記述は、「穢多村」ないし「穢多」に対して、土地や衣類を質草として、金を融通する「質屋業」がいた・・・、ということを意味します。『渋染一揆』(解放出版社1975年)の著者・川本祥一氏は、かごやが、間違って「皮田村の者」をのせたとき、「そのかごやは、あとで、そのかごを焼きすてなくてはならなかった・・・」といいます(筆者には信じがたい話・・・。明治初期の話に置きかえれば、「旧穢多」が人力車にのったという理由で、人力車を廃車しなければならなくなる、という愚かな話・・・)が、それほど、「百姓」から忌み嫌われていた岡山藩の「穢多」に、誰が、その「衣類」を質草として、金子を融通したというのでしょうか・・・?

被差別部落出身者として、被差別の側から差別者を研究するため、はじめられた、川本祥一氏の「部落学」・・・、その前提は、多々問題を含んでいるようです。

「内借」ではなく、「公借」であった可能性はありますが・・・。

もし、「内借」ではなく「公借」であったとしたら、そのとき、「穢多」の土地や衣類を質草にとった、藩と藩の役人は、共に、<穢れた>存在になったのでしょうか・・・。かごやが、そのかごに「穢多」がのったという理由だけで、自分の高価な商売道具を焼き捨てるのと同じように、質草をとると同時に焼き捨てるということがあったのでしょうか・・・? それとも、藩と藩の役人は、自らその質草に手を触れることなく、ほとぼりがさめると、その衣類を、元の持ち主に無料ではらいさげたのでしょうか・・・?

近世幕藩体制下の岡山藩の「渋染一揆」・・・。

近代以降の部落研究・部落問題研究・部落史研究の学者・研究者・教育者がつくりあげた「共同幻想」のようです。

次回、その「共同幻想」ぶりについて言及してみましょう。

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「渋染一揆」に参加した「穢多」が身にまとっていた衣服

「渋染一揆」に参加した「穢多」が身にまとっていた衣服・・・


『部落学序説』を書き始める前、部落解放同盟新南陽支部から借りていた、岡山藩の「渋染一揆」に関する資料のひとつに、川元祥一著『渋染一揆』があります。

筆者は、この本を返すことなく、手元に置き続けてきたのですが、この『渋染一揆』・・・、執筆者の川元祥一氏のことばを借りれば、『渋染一揆』に関する「絵本」の部類に入るそうです。

「絵本」といっても、幼稚園生向けの絵本ではなく、小中学生向けの、挿絵の入った、「渋染一揆」に関する物語です。おそらく、小学校・中学校の同和教育の副教材、あるいは、被差別部落の中で行われる、大人の集会、「解放学級」・「解放学校」のテキストとして用いることができるように執筆されたのでしょう。

あとがきで、部落解放同盟岡山県連合会委員長は、「渋染一揆の物語が本として刊行されることに、われわれ部落解放同盟岡山県連合会は、深い喜びをもっている。なぜなら、この一揆は、われわれの先祖が、命をかけて闘った、反封建闘争史上にも、さんぜんと輝く、誇りある一揆だからである。」と記していますが、「絵本」ではなく、「物語」なのでしょう。

委員長は、「一揆のなかで、部落大衆は・・・現在とくらべてもけっして劣らない組織的な活動をつづけ、部落民が一丸となって行動をおこした。・・・一揆は多くの犠牲をこえて、その伝統を今日の部落解放運動に脈々といきづかせ、多くの教訓をのこした・・・」といいます。

川元祥一著『渋染一揆』は、1970年代の、岡山県の部落解放運動に、大きな役割を果たしたのでしょう。岡山県の部落解放運動の組織化・大衆化のひな型として・・・。

この川元祥一著『渋染一揆』は、岡山県の差別・被差別を問わず多くの人びとに受け入れられ、そして、教科書に採用されることで、岡山県の被差別部落の歴史には、権力と闘い差別法令を撤回させた渋染一揆があることを、全国に知らしめることになったのでしょう。

1970年代の岡山県の部落解放運動が、川元祥一著『渋染一揆』という「物語」を必要とし、川元祥一氏がそれに応えたのでしょう・・・。川元祥一著『渋染一揆』は、運動論的要請に応える著作であったと思われます。

つまり、それは、歴史学の「論文」ではない・・・。

しかし、『部落学序説』の筆者は、川元祥一著『渋染一揆』を、単なる「絵本」・「物語」としてではなく、「部落学」的研究の対象・テキストとしてみます。「絵本」・「物語」は、単なる創作物ではなく、その背後に民衆の生活や生きるための闘いがあると信じているからです。「絵本」・「物語」にも、語り手の、深い思想・哲学が反映されているものです。

「無紋渋染・藍染」を強制する藩に、その法令の撤回を求めた、「穢多歎書」の中に、「凶作不熟の其砌・・・持合たる衣類ニても質入御年貢皆済致候」という文言が出てきますが、川元祥一氏は、その『渋染一揆』においては、「質入」れした・・・という言葉を伏せて、「生活にこまった時、着物を売ってその場をしのげません・・・」と表現します。

着物を質屋に質入れするのと、古着屋に売るのとでは、大きな違いがあります。

川元祥一氏は、この「質入」という言葉にどのような思い入れをしたのでしょうか・・・? 川元祥一著『渋染一揆』を読むことになる、被差別部落のこどもたちのことが念頭にあったのでしょうか・・・? 川元祥一氏が、「質入」を避けて通られることで、「渋染一揆」の研究から、「穢多」身分の「質入」と、その背景が欠落するようになったのではないでしょうか・・・。

川元祥一氏の『渋染一揆』出版から約20年後の文章においては、「茶色い着物、あるいは藍染の着物だけになると質屋にもっていったって質屋はとらないだろう・・・」と書いておられます。つまり、「渋染・藍染」の着物は質草にはならないけれども、それ以外の着物なら質草になる。たとへ、常日頃、穢多と交わりをしないひとびとが営む質屋ですら、その着物を質草として金子を用立ててくれる・・・、と。

川元祥一著『渋染一揆』には、「穢多」が触れるものはすべて穢れる・・・、というような発想がみられます。もしそうなら、「穢多」が質屋にもっていった質草も穢れていることになるので、「渋染・藍染」であろうがなかろうが、「穢多」は、どの質屋からも金を用立ててもらえなかったのではないでしょうか・・・?

部落史の真実は、往々にして、語られた内容より、語られなかった内容の方に存在します。これは、『部落学序説』の筆者の貧しい経験でしかありませんが・・・。

川元祥一著『渋染一揆』の中に、一揆に参加した「穢多」たちが身にまとっていた衣類の話が出てきます。

「白装束(死をかくごしたとき着る白いきもの)に身をかためた男たち・・・」

藩からの、「無紋渋染・藍染」を強制されたことに反対する「穢多」たちが、「一揆」に参加するとき、自ら、反対する「無紋渋染・藍染」を身にまとっていたのでは話にならない、と思われたのでしょうか・・・? 「無紋渋染・藍染」を「賤民の色」と判断する川元祥一氏は、「渋染一揆」に参加した「穢多」たちに、「賤民の色」ではない、「人をはずかしめる色」ではない、「白」色の服を着せることになった・・・、それは、筆者の勝手な推測でしょうか・・・?

『渋染一揆』から約20年後の川元祥一氏の文章(1992年度筑波大学第二学群日本語・日本文化学類の講義録)には、この「白装束」、白色の着物についての話は出てきません。

1995年の発行された、柴田一著『渋染一揆論』では、すでに流布されて、一般に受け入れらた「白装束」という解釈を援用しています。「禁服訟歎難訴記」の「白ひ菅笠」という言葉を、「白装束に編笠姿」と意訳しています。

柴田一氏は、「白ひ」という言葉を「白装束」と解することの間違いに気付いていたのでしょう。しかし、部落解放運動が展開されていくなかで、広く受け入れられていった「白装束」という解釈・・・、柴田一氏は、かなり度量の大きな歴史学者だったのでしょう。「白装束」という間違った解釈を受け入れ、そして、それを示唆するために、明らかな間違いを付加します。「菅笠」を「編笠」と解釈するのです。柴田一氏は、「菅笠」と「編笠」とするような単純なミスをするような人ではありません。

しかし、「菅笠」を「編笠」と解釈されたことで、「菅笠」が持っている意味が失われていきます。

川元祥一著『渋染一揆』では、その一揆に参加したのは、約3000人・・・。「三千の部落民衆の姿・・・どの顔にも、決死の表情があった・・・」。

1人分の着物を作るのに要する反物は1反です。3000人の「穢多」の「白装束」を用意するためには、木綿3000反が必要です。倹約令反対の意思表示をするため、「強訴」に際して、白色の木綿3000反を用意した、あるいは、常日頃から、3000人の「穢多」が「白装束」を用意していたとは、考えにくいところがあります。

川元祥一著『渋染一揆』の「物語」としての脚色でしょうか・・・?

川元祥一著『渋染一揆』の最後の結びの言葉は、「岡山藩の部落民衆は、渋染の着物を着ることは全くなかった。」・・・、という言葉です。

『部落学序説』の筆者が、近世幕藩体制下の岡山藩の「渋染一揆」に関する資料、あるいは論文を読む限りにおいては、「渋染一揆」に参加した「穢多」に「白装束」を着せることも、「渋染一揆」後に「穢多」に「渋染」を着せないことも、現代の「渋染一揆」研究の学者・研究者・教育者が作り出した幻想、「物語」でしかないと思うのですが・・・。

ちなみに、浄土真宗の門徒である「穢多」は、「白装束」(死装束)を身につけることはないとか・・・。

『部落学序説』関連ブログ群を再掲・・・

Nothing is unclean in itself, but it is unclean for anyone who thinks it unclean.(NSRV)  それ自身穢れているものは何もない。穢れていると思っている人にとってだけ穢れている(英訳聖書)。 200...