2021/10/02

賤民史観と「解放令」 その3 民俗学の中の「賤民史観」

賤民史観と「解放令」 その3 民俗学の中の「賤民史観」


1日1文章を執筆・・・、自分にノルマを課してみましたが、なかなか思うように行きません。表題だけ8月9日に登録して、文章そのものは、8月10日に書くことになりました。読者の方にご迷惑をおかけして申し訳ありません。

歴史学の中の「賤民史観」に触れたのを機会に、民俗学・社会学・宗教学の中の「賤民史観」についても少しく言及しておこう・・・、と思ったのが間違いでした。資料を読み直している間に、時間が経過、疲れて寝てしまいました。

『部落学序説』の筆者として指摘する「賤民史観」は、近世幕藩体制下の司法・警察である「非常民」としての「穢多の類」を、「賤民」概念の下で把握することを基本理念とする歴史観のことです。

「賤民史観」の「賤民」概念は、権力によって、社会の底辺へと追いやられたすべての人々を内包する上位概念で、「賤民史観」は、近世幕藩体制下の「穢多・非人」をその下位概念として位置づけます。その結果、「賤民」という概念の外延に、「遊女・芸妓」・・・等だけでなく、それと、同等の存在として、「穢多・非人」・・・等が含まれることになります。

「賤民史観」は、「穢多・非人」を単独でとりあげるのではなく、「遊女・芸妓」・・・等を同時にとりあげますので、「賤民」という概念に、「穢多・非人」と「遊女・芸妓」・・・等の他の「賤民」との共通属性が、その研究によって抽出されるようになります。一端、抽出された共通属性は、逆に、「賤民」概念のすべての構成要素(外延)に適用されるようになります。「穢多・非人」の属性を「遊女・芸妓」が所有するようになり、「遊女・芸妓」の属性を「穢多・非人」が所有するようになります。

「賤民」の研究によって、「穢多・非人」の解釈に巾がでてきて、「穢多・非人」理解に解釈の多様性がうまれました。「賤民史観」は、「穢多・非人」の解釈に豊かさをあたえるものであると、多くの歴史学者・研究者・教育者・運動家や政治家によって、歓迎され、受容されていきました。

こんにち、この「賤民史観」は、ほとんどの歴史学者・研究者・教育者・運動家や政治家によって、暗黙の前提として容認されていますので、「賤民史観」を取り除く作業は簡単ではありません。

しかし、『部落学序説』の筆者は、この「賤民史観」こそ、日本の近現代の歴史学に内在する差別思想であるとし、この差別思想が打破されないかぎり、日本の社会から「部落差別」はなくならないだろうと推測しています。「部落差別」完全解消のためには、「賤民史観」の徹底的な批判検証が必要である・・・というのが、筆者の主張です。

基礎科学としての「歴史学」は、すべての学問にとって必要不可欠な存在です。自然科学・人文科学・社会科学の、どの学問にとっても、「歴史学」は重要は基礎科目・補助科目になります。それは、場合によっては、「賤民史観」が、日本のすべての学問(科学)に浸潤・浸透していく契機になります。

日本の民俗学は、「歴史学」、「社会学・地理学」、「宗教学」を基礎科目として、その学際的研究として創設されたといわれます。「民俗学」にとって「歴史学」は必須の基礎科目であるため、「賤民史観」からの要請と影響にさらされ、いつのまにか、「民俗学」の中にも、「賤民史観」が暗黙の前提として内在するようになってしまいます。

「民俗学」の中にある「賤民史観」を描いてみせたひとに、『異端の民俗学 差別と境界をめぐって』の著者・礫川全次がいます。礫川全次は、柳田民俗学の批判から「常民」以外のひとびとの民俗に関心を持つことになった民俗学者(乃至、礫川全次が民俗学者として認識するひとびと)8名をあげています。

第1章 福沢諭吉と下級武士のエートス
第2章 喜田貞吉と「賤民」の歴史民俗学
第3章 尾佐竹猛と下層の民俗学
第4章 中山太郎と人柱の土俗学
第5章 瀧川政次郎と禁断の日本史
第6章 菊地山哉とエッタ族の人類学
第7章 赤松啓介と解放の民俗学
第8章 三角寛と対幻想のサンガ学

『部落学序説』の筆者の目からみると、礫川全次が「柳田民俗学」の「異端」としてとりあげる、これらの民俗学者は、すべて、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」の担い手でもあるのです。「賤民史観」で主張されていたことがらを、彼らは、「民俗学」の領域で追認、「賤民史観」の継承者になっていきました。

今回、その中でも、「赤松啓介」をとりあげてみましょう。

赤松の著作に、『差別の民俗学』(ちくま学芸文庫)があります。

赤松はその著書の中で、「明治4初期の解放令」に触れて、「解放令」がだされても、「部落差別」そのものは「一向になくならない」「情況」を、「売春」を引き合いにだしてこのように記しています。「少し的外れの比較になるのを承知でいえば、売春の禁止命令が出ても、売春そのものは一向になくならないのと情況は似ている・・・」。

赤松啓介の頭のかたすみのどこかには、「部落差別」と「売春」、「穢多・非人」と「遊女・芸妓」を比較することに少しくためらいの思いがあったのでよう。「少し的外れの比較になるのを承知でいえば・・・」という表現はそれを示唆しています。

しかし、赤松の著作を読めば、それは、「少し的外れ」どころか、赤松は、積極的に両者を比較、その結果両者の属性を混同・融合して、「賤民史観」をより強固に形成していることを確認することができます。赤松の「賤民史観」が、同世代の他の民俗学者より先鋭化するのは、唯物史観・階級史観の無批判的受容と、ある種の権威と化した、柳田民俗学を含む「一般の民俗学」に対する、激しい敵意と憎しみがあります。

赤松は、自分の民俗学を「差別の民俗学」・「解放の民俗学」としたうえで、「一般の民俗学」との違いをこのように説明します。

「一般の民俗学と、私たちの民俗学はどこが違うのか。権力や行政の民衆支配に協力するための調査、学術研究のためという学閥的、また立身出世型のタネ探し、そうしたものがこれまでの民俗学であったといえる。そのため彼らは・・・支配者的儀礼に反する民俗学は・・・陋習として切り捨て、あらゆる差別の根源に触れることを避けて」きたと酷評します。

民俗学者の大半は、民衆のために、民衆に目を向けた学問ではなく、権力の走狗としての学問でしかないと批判しているように思われます。

しかし、赤松は、自分の民俗学を、「立身出世や金儲け、憐憫などとは無縁のものである。あらゆる底辺、底層からの民俗の掘り上げ、掘り起こし、その人間性的価値の発見と、新しい論理、思考認識の道を開く・・・」と自負します。

赤松の研究対象は、「ほとんど学校教育は受けておらず、よいところで尋常科4年卒業ぐらい・・・」の「学歴がない」といわれたひとびとです。赤松は、彼らは、警察からも、「学歴がない・・・」としていやしめられたといいます。赤松は、「下層の無産の女」に対して、深い関心を持つと同時に、「差別も、性も、そのために苦しめられたものでなければ、その痛みは分からないだろう・・・」といいます。部落差別も、「そのために苦しめられたものでなければ、その痛みは分からない・・・」と主張されているのでしょう。

赤松は、被差別の痛みをしらない民俗学者・柳田国男とその理論に対して激しくつめより批判を展開していきます。

その主なものは、赤松による、柳田国男の「常民」理解に対する批判です。それは、批判というよりは、柳田国男にむけられた「憎悪」といったほうが的確であるのかもしれません。赤松は、「柳田民俗学のいう「常民」に限りなく憎悪をいだいた」といいます。日本の社会の最下層に押し込められた、「小作農」・「日雇労働者」・「遊女」等の「無産者」・・・、彼らを「常民」概念で把握することに「賛成しがたいものがある」というのです。

赤松の民俗学は、階級闘争の「民俗学」として定立されていきます。赤松は、その「民俗学」を、「労働者階級の指導の下に、その同盟者としての農民が解放のために役立てるべき科学でなければならない」といいます。戦後、その「教条主義的傾向」を批判された際、その批判の時代的制約を無視してなされる「過酷」な批判といって退けています。

赤松は、「柳田系民俗学の最大の欠陥は、差別や階層の存在を認めようとしないことだ。」といいます。同じ「常民」といわれても、「差別される側と差別する側、貧しい者と富める者とが、同じ習俗習慣をもっているはずがない・・・」と主張します。

赤松は、「部落差別」に関しては、「通常の村と部落として固定された村との間に、いくつもの変差のある中間の村が発生」したといいます。一方の極に「通常の村」を配置し、他方の極に「部落として固定された村」を配置し、その両極の間に、グラデーションのように「中間の村」の存在を想定するというのです。「芸能型部落」も「中間の村」・・・、一般の村と「被差別部落」とが同化・融合として存在するようになったというのです。

赤松は、柳田民俗学がいう「常民」に属する社会層のなかの、最低辺に位置づけられた「常民」を抽出し、その他の「常民」との間に「画線」をひきます。そして、かれらを、「非常民」概念で把握しなおそうとします(赤松民俗学の常民・非常民概念と『部落学序説』の常民・非常民概念はまったく異質なもの)。

赤松の、「常民」・「非常民」理解は、唯物史観・階級史観・発達史観によって構築されてきた「賤民史観」の民俗学的焼き直しに過ぎません。

赤松の「差別の民俗学」・「解放の民俗学」は、「少し的外れ」どころか、「部落差別」と「売春制度」を同等に取り扱い、「穢多・非人」を「遊女・芸妓」と同一視する、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」の典型的な、民俗学的焼き直しに過ぎません。赤松の「差別の民俗学」・「解放の民俗学」は、「部落差別」の解消どころか、「部落差別」再生産の思想的枠組みでしかありません。

赤松啓介著『差別の民俗学』の解説者・赤坂憲雄は、「正直に書いておけば、赤松啓介という民俗学者に対して、わたし自身の評価はいまだにさだめなく揺れている。」と記していますが、『部落学序説』の筆者としては、『異端の民俗学』の著者・礫川全次のように、赤松民俗学に肩入れするばかりに、「赤松の志を理解し、その問題提起を本気で「今日」に活かそうと考える民俗学者は現れないものだろうか・・・。」という、「賤民史観」の方に揺れ切った発言をするようになってほしくないと思っています。

次回、「賤民史観」に立つ、歴史学・民俗学の学者・研究者が、明治初期の「穢多・非人」と「遊女・芸妓」とその関係をどのように認識していたのか、少しく概観して、そのあと、「近代警察と「遊女」」について言及していきます。

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