2021/10/02

賤民史観と「解放令」 その2 「賤民史観」について

賤民史観と「解放令」 その2 「賤民史観」について


『部落学序説』の中で、筆者は、繰り返し、「賤民史観」を批判してきました。

「賤民史観」は、ごく一般的な表現だと思っていましたので、「賤民史観」について、ことさら説明する必要も、定義する必要も感じてきませんでした。

しかし、『部落学序説』の読者の方からの批判を通して、「賤民史観」ということばが、筆者の造語である可能性があることが分かりました(「賤民史観」ということばそのものは、雑誌『現代の眼』(1981年11月号)で、《賤民史観樹立への序章》で使用されていますが、それは、沖浦和光と管孝行の対談の表題に使用されていることばです。その対談の中で、沖浦和光も管孝行も「賤民史観」ということばを直接使用しているわけではありません。1980年以降の部落史見直しの動向を示すことばとして、「賤民史観樹立への序章」という言葉が使用されていますが、『部落学序説』の筆者としては、「賤民史観」は、近代の歴史学の中にすでに存在していた・・・と認識しています。「賤民史観」の確立時期を明治中期に設定し、明治・大正・昭和・平成の部落史研究すべてに通底していたという『部落学序説』の筆者の説は、筆者固有の可能性がある・・・という意味です。すでに「賤民史観」についての筆者の見解は、【第2章】部落学固有の研究方法・【第3節】新けがれ論・【第1項】 「穢れ」をめぐる歴史学と民俗学の相克の中で論述しています。今回は、『部落学序説』の筆者が指摘する「賤民史観」成立の過程を少しく論述することにしました。)。

筆者が、この「賤民史観」ということばを使いはじめたのは、今から24年前、山口の小さな教会に妻と娘の3人で赴任してきた年の秋(1983年11月)のことです。鹿野政直著『近代日本の民間学』(岩波新書)が出版されました。その『近代日本の民間学』の中で、鹿野政直の造語だと思いますが、「常民史観」ということばが使用されていたのです。

「常民史観」ということばを目にしてすぐ想定できるように、「常民史観」というのは、民俗学者・柳田国男の「史観」のことです。柳田国男は、従来の歴史学の傾向を批判し、「常民」(鹿野は「民衆」ともいう)の「日常性」を明らかにすることに強い関心をもっていたといいます。柳田国男は、「常民」(民衆)の歴史を明らかにするために、「文献」だけでなく「伝説・伝承」を「歴史叙述」の資料として採用するのです。

「常民史観」は、柳田国男の「常民の立場から歴史を見、その歴史的関心にこたえてゆこうとする」決意を示したものです。「極めて貧しい者、昔ならば数にも足らぬと謂われた人々にも、やはり彼等の体験の上から、回顧せざるを得ぬ国史がある・・・」との柳田国男の認識に感動した筆者は、「常民史観」(「民衆史観」)に興味を持つようになりました。

「常民史観」は、常民の、常民による、常民のための「史観」は、無学歴・無資格の筆者にとっても研究の課題となりうる・・・、と思われたのです。

その当時は、部落差別問題は、ほとんど関心がなく、「常民史観」ということばから、その対極のひとつにある「非常民史観」ということばを連想することはありませんでした。たとえ、柳田国男の著作から「非常民」ということばを見いだしても、「非常民史観」ということばに関心を持つことはなかったと思います。なぜなら、「常民史観」が、常民の、常民による、常民のための「史観」であるのと同様、「非常民史観」は、非常民の、非常民による、非常民のための「史観」であることになりますから・・・。「常民」の末裔である筆者のよしとするところではありません。

鹿野政直は、『近代日本の民間学』の「民間学の諸相」の中で、柳田国男の他に、6名のひとに触れていますが、そのなかに、喜田貞吉がいます。鹿野政直は、喜田貞吉は、「被差別部落」の問題を「被差別部落」固有の問題としてではなく、「賤民」という「被差別層全体の中におい」て考察したというのです。鹿野政直は、「喜田は、被差別部落の問題を、日本史上の特殊問題ではなく、その基本にかかわる問題と捉え・・・被差別部落の特殊視を歴史上まったく不合理のものと考え、渾身の力をこめてそれを解消しようと」した・・・、と評価するのです。

柳田のそれが「常民史観」と呼べるなら、喜田のそれは「賤民史観」と呼べるに違いない・・・、そのとき、漠然とそう思ったのがきっかけで、それ以降、「被差別部落」についての一般的・通俗的「史観」を、「賤民史観」と呼ぶようになったのですが、筆者にとって、「常民史観」と「賤民史観」は対極にあるものでした。

この『部落学序説』執筆を計画するようになって、筆者は、「常民史観」のもうひとつの対極「非常民史観」をもって、「非常民」ではないことの限界を感じつつ、「被差別部落」の歴史を考察しはじめました。そして、やがて、「非常民史観」と「賤民史観」は、似て非なる関係にあると認識するようになったのです。

それ以来、筆者は、「賤民史観」を批判することに勢力を傾けるようになりました。

礫川全次著『異端の民俗学 差別と境界をめぐって』(河出書房新社)に、「日本における「賤民史」のワク組みは、喜田貞吉という歴史家と『民族と歴史』という雑誌が作った。」とあります。「賤民史観」の枠組みは、喜田貞吉に由来するのかもしれません。

礫川全次は、「今日、そうしたワク組を批判し、それを乗りこえようとする動きもあると聞く・・・」と指摘し、「しかし、まずはそれ以前に、『民族と歴史』誌上に集積された貴重な報告・資料を「発掘」し検討することが求められているのではないだろうか。」とその動きを牽制されているようです。

しかし、『部落学序説』の筆者からみると、喜田貞吉に端を発する「賤民史観」は、戦後の「賤民史・部落史研究」(沖浦和光著『「部落史」論争を読み解く』)において、充分研究し尽くされ、展開されてきたのではないかと思います。

沖浦和光著『「部落史」論争を読み解く』は、「賤民史観」の立場からの研究史に他ならないからです。

沖浦は、「部落史研究」と表現すべきところで、いつも、「賤民史・部落史研究」という表現を用いています。それは、沖浦も、喜田貞吉と同じく、部落史を部落史単独で研究するのではなく、「賤民」という大きな枠組みで部落史研究を遂行してきたし、これからも遂行していくという表明ではないかと思います。

沖浦は、その著書で、『特殊部落一千年史』という著書を通じての「高橋貞樹という人物との出会いは、私の学問研究の方法と人の世の生き方について、あらためて考え直す大きい転機となった。」といいます。また、「1960年代に入って高橋貞樹の『特殊部落一千年史』に出会い・・・初めて部落差別の問題を根底から考え直さねばならぬことに気付いた・・・」といいます。さらに、繰り返して、「私にとってこの『特殊部落一千年史』との出会いは、歴史の見方について、人間の生き方について、根底から考え直す大きな転機となった。」とことばを重ねます。

沖浦は、喜田貞吉についても言及しつつ、しかし、彼の部落史研究・賤民史研究・歴史研究に大きな影響をあたえたのは、喜田貞吉ではなく、高橋貞樹であるといいます。その理由として、「戦前における賤民史についての唯一の通史的叙述」であることをあげています。

沖浦は、戦後、「部落問題研究所」の北山茂夫・林屋辰三郎・奈良本辰也・藤谷俊雄・井上清・上田正昭・原田伴彦・藤谷俊雄・中西義雄等によって、「部落史研究の基本的視座が定立され」、「賤民史に関する歴史認識の枠組みが設定されて」いったといいます。

高橋貞樹は、『特殊部落一千年史』の資料として、最初に、喜田貞吉の『特殊部落研究号』、雑誌『民族と歴史』をとりあげていますから、沖浦の部落史研究には、高橋貞樹の『特殊部落一千年史』を媒介して、喜田貞吉の「賤民史研究」の枠組みが組み込まれていったものと思われます。

沖浦は、その著『「部落史」論争を読み解く』のあとがきで、「本書は、部落史研究のたんなる概説書ではない。戦後に発表された賤民史・部落史に関わる主要論文の分析と評価を柱としているが、それを「読み解く」にあたって、急激に推移する「時代思潮」と「歴史認識の方法」の変遷を、同時に論述する」といいます。

沖浦和光著『「部落史」論争を読み解く』と、高橋貞樹の『特殊部落一千年史』は、『部落学序説』の筆者が、今日の部落解放運動の背後にある部落史研究の本質(「賤民史観」とその研究方法)を知る上で貴重な資料となっています。

『部落学序説』の筆者としては、日本の歴史学に内在する差別思想である「賤民史観」の権化としての沖浦和光に対して、筆者の無学歴・無資格であることを充分認識しつつ、批判を展開しようとしているのです。近世幕藩体制下の司法・警察である「旧穢多非人」を、「賤民」概念、「賤民」世界に置いて考察するのではなく、『部落学序説』でいう、「非常・民」概念、「非常・民」世界に置いて考察するとき、部落差別完全解消への道が開かれるのではないかと・・・。

左の図は、「賤民史観」と「部落学序説」の違いを図示したものです。

「賤民史観」の場合、「穢多非人」を「賤民」の世界に位置づけることで、「穢多非人」以外の「賤民」の属性を取得することになります。例えば、「解放」・「解放令」とか、「穢多非人」以外の「賤民」の習俗・習慣とか・・・。その結果、旧「穢多非人」の属性は肥大化し、旧「穢多非人」は「賤民」の中に同化されてしまいます。歴史学的に、旧「穢多非人」に関する研究は質・量共に増加することになりますが、旧「穢多非人」の歴史を「賤民史観」という鉄鎖につなぐことにもなります。『部落学序説』は、「賤民史観」を排除し、旧「穢多非人」を、近世幕藩体制下の「穢多非人」の自己理解である「非常の民」(「非常・民」)として理解しようとします。「賤民史観」では、「遊女・芸妓」は、旧「穢多非人」と密接な関係を持って理解されますが、『部落学序説』は、その関係性を否定します。『部落学序説』は、「遊女・芸妓」を「穢多非人」と混同することを否定します。近世幕藩体制下においても、明治以降においても、「遊女・芸妓」と「穢多非人」は異質な存在です。一部研究者の間では、両者を同質的存在として解釈される方もおられますが、『部落学序説』の視点・視角・視座からしますと、大いなる誤解であるといわざるを得ません。

「賤民史観」の詳細については、『部落学序説』第5章水平社宣言批判でとりあげます。

0 件のコメント:

コメントを投稿

『部落学序説』関連ブログ群を再掲・・・

Nothing is unclean in itself, but it is unclean for anyone who thinks it unclean.(NSRV)  それ自身穢れているものは何もない。穢れていると思っている人にとってだけ穢れている(英訳聖書)。 200...